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第48回
今回は宇都宮大学名誉教授の橋本孝先生より、
ドイツ緑の党についてのコラムを寄せていただきました。
ドイツでヨーロッパ初の環境政党の運動が始まったとき、
ドイツにいらした橋本先生は、それ以降、緑の党のみならず、
ドイツの政治家との幅広い交流を続けてこられています。
「ドイツの緑の党は左派も右派も取り込み、懐が大きいように思います。
ですから、政権を担う能力があったと思います。
そんな緑の党が日本にもできることは大歓迎です」と
おっしゃる橋本先生のコラムには、
新しい日本の政治のためのヒントが隠されているかもしれません。
橋本 孝(はしもと たかし) 1934年12月、岡山県新見市生まれ。中央大学法学部卒。同大大学院文学部博士課程満期退学。宇都宮大学国際学部教授、同大学名誉教授。DAAD(ドイツ学術交流会)奨学生としてドイツにマールブルク大学、フライブルク大学、ミュンスター大学に留学。ヴュルツブルク大学及びエアランゲン大学客員教授。専攻、ドイツ文学(19世紀の文学と社会)。2001年からは日独青少年の交流事業に従事。また福祉の町ベーテルを取材し、ドイツの福祉問題を取り上げ、各地で展覧会や講演を行っている。日本グリム協会会長、とちぎ日独協会会長。著書『グリム兄弟とその時代』(パロル舎)、『福祉の町ベーテル』(五月書房)、『絵本新編グリム童話選』(毎日新聞社)などのほか、多数の論文がある。ドイツ連邦共和国功労十字章受章(2003年)
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ドイツの政治は地方政治が基礎になっている
まず、ドイツの地方政治と中央政治の仕組みを見ておこう。地方政治は市町村議会(Gemeinde)のレベル、その上の郡とか地区議会(Kreis)、州議会(Land)の議会で行う。そして中央政治はそれらの地域の枠を超え、国やEU、ひいては国連を中心とするグローバルな政治を行う。ドイツ連邦議会は二院制であるが、参議院議員は、各州の割り当てられた定数に応じて、州の議員から選ばれ、日本の制度とは、まったく異なっている。そしてもちろん、連邦制のため各地方が独立した権限を持っている。
連邦議会の政党は、CDU・CSU(キリスト教民主同盟と社会同盟[バイエルン州])、SPD(ドイツ社民党)、FDP(ドイツ自由民主党)、Bündniss 90/Die Grünen(同盟90/緑の党。一般的には「緑の党」と呼ばれている)、PDS(ドイツ民主社会党。旧東ドイツの社会主義政党の流れを汲む)である。
地方政治になると、CDU・CSU、SPD、FDPと並び、Frei Wähler Gruppe(自由選挙グループ)が有力である。その他にはいわゆる「緑の党」やDie Linke(左派政党)などがある。これらの政党は特に市町村議会、地区議会で、せいぜい州議会レベルで、各地区の生活と密着した政治活動を行っている。ドイツでは、連邦議員を選出するには憲法上5%条項というのがあって、得票率が5%に達しない政党は連邦議会に議員を送り出せない。
緑の党とは?
さて、緑の党であるが、その名の示すとおり、広い意味での自然保護をめざし、「自然に帰れ」がその基本的な考えである。
「同盟90/緑の党」のモットーは「未来はみどり」で、基本綱領は2002年のベルリンでの党大会で次のように決定された。①環境政策では新エネルギーの開発、②温暖化政策では何らの例外を認めず、推進し、③経済・社会政策では福祉政策の促進を図り、若い世代に配慮し、④マルチ文化社会の実現では移民の受け入れを含む他民族との交流、トルコのEU参加促進、大学の授業料導入には連邦レベルでは反対であるが、各州では州の判断を尊重する。
もともと、緑の党はその名が示すように、地球に緑を戻そうといういわゆるエコロジー運動がその起源で、この運動は19世紀後半から目立つようになった。当時、ドイツは多くの工場が乱立していたが、そのとき早くも、経営者の妻たちが工場による汚染を訴えた。夫たちは会社の成績を上げるために血道をあげていたが、妻たち(その多くは社長夫人であった)は飲み水に不安をもったのである。そして、婦人運動は河川の汚染の問題を指摘した。このような自然保護の問題はナチの時代も引き続がれていた。
第二次大戦後のドイツ経済復興は目覚しく、経済復興の奇跡とまでいわれる発展を遂げた。その影で、次々と森が伐採され、河川は汚染され、自然が破壊されていった。こんな中で、開発にストップをかける運動が保守系の右派から出た。1960年後半のことである。
私が初めてドイツに行ったのは1966年であった。私は、憧れの国に来た喜びでいっぱいだったが、ある日、近くの森を散歩し、驚いた。きれいな緑の中を歩いていたはずが、いつの間にか、ごみの山に突き当たったのだ。それは見るも無残な光景だった。また、卵がまずかった。ゆで卵にしても、黄身は食べられたものではなかった。へんに臭った。川で水浴びをすることも、農薬のため禁止されていた。そんな時、1972年に有吉佐和子が『複合汚染』を発表し、川での遊泳禁止は、日本でも取り沙汰されるようになった。
地方政治の小さな様々な政党から始まった緑の党
1970年代に入ると西ドイツの環境保護が進んだ。この頃から卵は美味しくなった。そんな時、西ドイツでは地方政治のレベルにおいて、環境保護政策を掲げた小さな政党が次々と作られていった。まず、「緑とカラー・リスト」(1977年春)が結成された。「環境保護・緑のリスト」(GLU)がヒルデスハイムの郡議会で議席を獲得、「原子力、もうごめん選挙共同体」がハーメルン地区選挙において2.3%を獲得、「環境保護ニーダーザクセン」(USP)(1977年5月に結成)が、後の「環境保護・緑のリスト」の「ニーダーザクセン州連合」の前身として設立された。1978年5月にはバイエルン州のエアランゲンで「緑のリスト」が議席を獲得し、AUD(独立ドイツ人活動共同体)はドイツで初めて「ドイツ環境保護政党」となり、郡や地方共同体(市町村)で議席を得た。シュレースビッヒホルシュタイン州では「緑のリスト」が5%条項を上回る票を獲得した。こうして、これらの環境保護を政策とする政党は躍進した。
ハンブルク市議会選挙では「カラー・リスト」が、バイエルン州議会選挙では、かつてのCSUのメンバーと環境保護の信奉者たちが「バイエルン・緑のリスト、自由選挙連盟」を結成。CDUの連邦議員ヘルベルト・グルーンはCDUを離党し、「緑の活動未来」(GAZ)の設立を宣言した。その後、各州で「緑の党」が結成され、燎原の火のようにドイツ全土に広がり、ついにバーデン・ヴュルッテンベルク州で5.3%を獲得した。
そして1980年1月、女性・平和・反原発運動を基盤とする連邦レベルの国民政党としての緑の党が設立されたのである。同党は1983年に初めて5.6%の得票率を獲得して、ドイツ連邦議会に議員を送り出し、1986年にはチェルノブイリ原発事故のインパクト、ドイツの大気汚染と森林への酸性雨の脅威に対する意識を育てることで、1987年1月の西ドイツ総選挙では得票率を8.3%に増加させた。ただ、左派の人たちも自然保護に乗り出したことで、緑の党の多くは左傾化した。そのため右派の人たちの多くが緑の党を去った。
ドイツ統一後の「緑の党」
1990年ドイツ統一。その年の秋、私は客員教授としてドイツに行った。早速、旧東ドイツへ行ったが、どの町も白黒映画を見ているようだった。建物や道路、橋の欄干、路面電車や自動車が煤けて、真っ黒だったのだ。暖房は褐炭で行われ、その排ガスでそのように真っ黒になっていた。冬空のような寒い秋だったが、家の暖房の煙突からは真っ黒な煙が出ていて、ひどく臭った。どの町も公害の町だった。
その頃の「緑の党」のモットーは「みんなドイツについて語ろう。われわれは環境について話そう」だった。旧東ドイツの一党独裁時代のつけが、環境汚染という形で現れ、多くの人が環境問題、とりわけ河川の汚染や大気汚染に関心をもった。例えば、東ドイツ時代の褐炭での暖房、化学工場の化学物質の垂れ流し、対チェコ国境のエルベ河畔に乱立する化学工場からの廃液がこれに拍車をかけた。今でも旧東ドイツを車で通ると、真っ白い、一見不気味な白い山々が見える。これは廃棄物の山であり、褐炭の採掘跡でもある。また泥炭の掘られた跡がいたるところに見える。
ドイツ統一前の1989年から1990年にかけて東ドイツで結成された自然保護団体「同盟90」が、ドイツ統一とともに緑の党と共闘したが、議席がとれず、やっと1993年になって、「同盟90/緑の党」となり、1994年には7.3%に達し、ドイツ連邦議会の議席を獲得した。
緑の党、政権与党から野党へ
1994年に飛躍的に伸びた「同盟90/緑の党」は議会で49議席も獲得した。1998年の総選挙では47議席を保持し、ドイツ社会民主党(SPD)との連立を組み、初めて「緑の党」は、ヨシュカ・フィッシャーを副首相ならびに外務大臣として送り出し、環境大臣や保健大臣のポストも得た。
2002年には、緑の党は得票率8.6%で議席を55へ伸ばし、自由民主党(FDP)を抜いて第3党となった。これは、部分的にはアメリカのアフガニスタン侵攻についての討論が他の党よりもオープンに公開されていたからだ。エネルギー再生法やゲイ・レズビアンのレジスタード・パートナーシップ法の成立も、さらに緑の党への支持を集めた。2003年に入ると、緑の党と社会民主党の双方はイラク戦争への反対の立場を取ったために票を伸ばした。失業問題などで社会民主党(SPD)が議席を減らしたものの、連立政権は下院でわずかに過半数を得て、第2次内閣を発足させ、ヨシュカ・フィッシャーが外務大臣に再任、消費者保護・栄養・農業大臣や環境大臣も再任された。
2005年9月の連邦議会選挙では党勢を維持はしたが、連立相手の社会民主党(SPD)が敗北し、キリスト教民主同盟(CDU)と大連立を組んだため、緑の党は政権与党の座を失い、現在は自由民主党、左派党に次ぐ、第5勢力の地位に甘んじている。
緑の党の光と影
緑の党は自然保護の立場から、アウトバーン建設に反対、原子力発電の中止を求めた。また一貫して戦争反対、ドイツ軍の派兵反対の立場を通した。これらは多くの支持を獲得した。核保有の反対、アメリカのアフガニスタン侵攻や、イラク戦争への反対を鮮明にしたが、移民規制への反対、妊娠中絶の禁止への反対などで、なんでも反対という印象を与えてしまったことは否めない。こうして、多くの影の部分も残った。また、消費者保護・栄養・農業大臣のアンドレア・フィッシャーが後に狂牛病問題で辞任してからは、全体に活力がなくなったように見える。
新エネルギー問題では苦慮している。原子力発電の禁止はいいとしても、それでは新エネルギーをどうするのか。風力発電は確かに歓迎されたが、希少な猛禽類が巨大な風車に巻き込まれるといった問題や、風車の風を切る騒音で乳牛がノイローゼになり、牛乳の量が減るといった酪農農家への深刻な影響も出ている。これらにどう対処するのか、明確な政策はまだない。
太陽電池は日本を抜いてドイツが世界一になったものの、コスト高は否めない。
新エネルギーの議論になると、緑の党は「原子力発電は禁止」というが、それは石油の高騰を招き、バイオマス・エタノールなどは食糧危機に通じ、石炭は公害を生む。「ではどうするの」と尋ねたら、党員の1人が「家庭のソケットに電源を差し込めばいい」と答えたという笑い話が人々の口にのぼっている。
緑の党のこれからの問題点
ドイツが環境先進国と言われるようになったのは、緑の党の活躍があったからこそだ。それは評価されるべきで、今後の問題は年金や社会保障、環境にどのように具体的に取り組むかであろう。新エネルギーについても、もっと実現性ある政策が打ち出されないといけない。環境問題では若者(緑の党青年部会のメンバーは6,000名)をターゲットに多くの宣伝を行い、最近では、ハンブルク市議会でCDUとの連立政権ができた。これをバネに、地方からの飛躍が期待される。
政治学や環境問題だけでなく、
ヒトラーから障害者を救った牧師に関する著書
(『福祉の町ベーテル』)もある橋本先生からは、
「日本だけではなく、地球の人々が安心して住める環境を次の世代に残したい」
というメッセージもいただきました。
橋本先生、ありがとうございました。
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