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いとう・まこと 1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。著書に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)、『中高生のための憲法教室』(岩波ジュニア新書)ほか多数。法学館憲法研究所所長。法学館のホームページはこちら。
*アマゾンにリンクしてます。来週5月21日からスタートする「裁判員制度」。新聞やテレビでは、特集記事が組まれていますが、今だにピンときません。ということで、塾長に質問!です。2回連続での掲載です。
私たちの間で争いごとが起きたときに、これまでの日本社会では、その解決方法として裁判が用いられるのはごくわずかでした。ほかに、政治決着、行政指導、泣き寝入り、暴力団など闇の組織に解決を依頼することさえ少なくない。司法は全体の2割しか役立っていないではないか、これでは2割司法だと揶揄されていました。
それでも、争いごとがそれほど増えなかったのは、行政が市民生活に介入し、事前規制・調整を行ってきたからでした。しかし、こうして行政による事前規制に頼るのでは、90年代に推進された規制緩和政策の流れに逆行します。
また、紛争が起こらないように行政によって事前に調整しておいてもらおうということは、「お上依存」の統治客体意識であり、これは変えなければなりません。争いごとが起きたときには、透明なルールのもと、裁判を通じて自分の権利を守るほうが公正です。そういう社会を目指す案が政府の司法制度改革審議会から提案されました(2001年6月)。
その骨子の1つに、市民が司法に参加することを通じて、司法の国民的基盤を確立することが掲げられています。いままでのように、裁判官、検察官、弁護士の法曹三者だけで裁判を行っていたのでは、裁判が市民から縁遠いままでしょう。そうではなく、市民が裁判に参加し、そこに多様な国民の感覚が活かされれば、市民は裁判を身近に感じ、安心感、信頼感が醸し出され、紛争解決方法として裁判を利用するハードルは下がることでしょう。このような司法に対する国民的基盤を確立するために、裁判員制度が導入されたのです。
A12 上部に書いたところまでが「司法の市民参加」を説明する公式見解です。
しかし、本当のところはどうなのでしょうか。当初、司法の市民参加に検察、裁判所は猛反対していました。それが今は推進役をやっています。なぜなのでしょうか。実は、現在の刑事裁判のあり方についてのまったく相反する評価がこの問題をわかりにくくしているのです。
従来から、刑事裁判が現在、十分機能していると肯定的に評価する裁判所、検察庁など官の側と、否定的に評価する研究者・刑事弁護士などの民の側との大きな対立がありました。平野龍一博士(刑事法学者で元東大総長)などは、取り調べの際の自白強要やえん罪の多発など多くの問題を抱えている「日本の刑事裁判はかなり絶望的である」と述べられていました。
こうした現状を打破するには、陪審制などの市民参加しかないという判断の下で、日本弁護士連合会などから司法の市民参加が提唱されたのです。ここで、なぜ市民参加が必要なのかは、刑事裁判の目的が理解されないとよくわからないかもしれません。
そもそも刑事裁判は、推理小説のように、真犯人を見つける場所ではありません。検察の起訴事実に間違いがないかどうかをチェックするためにあります。1人たりとも無実の者を処罰してはならない。そのためにこそ刑事裁判があるのであり、刑罰という国家による最大の人権侵害を防ぐのが裁判官の仕事です。
もし真犯人を処罰したいだけなら、警察、検察だけでいいのであって、何も裁判所という国家機関を別に設ける必要はありません。警察・検察の誤りをチェックするために裁判所という中立的な機関を設ける意味があるのです。
ところが、99%の有罪率に象徴されるように、この裁判所によるチェックはうまく機能していない、そこで市民が司法権の監視という観点で参加して、さらにチェックしようというのが司法の市民参加の意味なのです。
検察官の起訴事実に、合理的疑問が1点でもあれば無罪判決を出して、無実の者が処罰されないように裁判員が市民感覚でチェックする必要があると考えたわけです。だからこそ、刑事裁判、しかも重大事件における市民参加が必要だということで、裁判員制度も刑事の重大事件から始めようとしたのです。
現在の刑事司法はうまくいっていると考える、検察、裁判所という官の側が、こうした司法の市民参加に反対するのはむしろ当然でした。ではなぜこの制度を推進することにしたのでしょうか。
刑事裁判に問題があるという理由をあげることはできません。そこで、司法の民主化を持ち出したわけです。つまり民意によって自分たちがやっている刑事裁判を正当化しようというわけです。これまで判決を批判してきたマスコミもこれからは市民による判断だということで批判しづらくなることでしょう。
こうしてみてくると、司法の市民参加つまり、司法の民主化の要請は、まったく違う2つの意味で使われていることがわかります。現在の刑事裁判を否定的にとらえる民の側からは、司法権という権力を批判し監視するための司法の民主化です。それに対して、現在の刑事裁判を肯定的にとらえる官の側からは、現在の司法権という権力行使を正当化するための司法の民主化なのです。
司法権という国家権力に対峙する民主化か、司法権を正当化するための民主化かというわけです。
裁判員制度の創設にあたってはこうした根本問題を棚上げにしてしまったため、何のための制度かが国民にわかりにくくなってしまいました。また、民主化の要請だけが一人歩きしてしまい、被告人の人権、裁判員の人権という視点が欠けてしまいました。その結果さまざまな問題を含んだままのスタートとなる危険があります。
A13 裁判員として出頭を求められたときに、「人を裁きたくない」という理由で出頭を拒むと、10万円以下の過料に処せられます(裁判員法112条)。
裁判員は、有罪か無罪かだけではなく、刑の重さ、すなわち量刑も判断します。「人を裁きたくない」と思う人にとっては、もちろん有罪か無罪かの事実認定だけでも避けたい仕事でしょうが、それにとどまらず、人を死刑にするかどうかまで判断させられるのです。それがいやで出頭しなければ、10万円を払わされるわけです。これは、憲法の保障する思想および良心の自由を侵害するおそれが濃厚です。
従来から、真摯な内心的理由で裁判員になることを拒んでいる人には、辞退を認めるべきだという意見が少なくありませんでした。しかし、2008年1月に閣議決定された政令でも「身体上、精神上、または経済上の重大な不利益が生ずると認めるに足りる相当な理由があれば辞退できる」とされるにとどまっています。思想良心を理由にした辞退は最後まで明記されなかったのです。
むしろ、「重大な不利益」という文言を見るかぎり、単に「人を裁きたくない」というだけでは、辞退を認めないと読むことができます。憲法違反になるかどうかは、これからのそれぞれの裁判所の運用をみる必要がありますが、憲法が保障する人権を守ろうとするならば、思想的理由による辞退を明確に定めておくべきです。
特に一般市民に死刑の判断までをも積極的にさせるような制度は世界に例をみません。良心的兵役拒否という言葉がありますが、それにならって、良心的裁判員拒否権を認めるべきだと考えます。
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