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いとう・まこと 1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。著書に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)、『中高生のための憲法教室』(岩波ジュニア新書)ほか多数。法学館憲法研究所所長。法学館のホームページはこちら。
*アマゾンにリンクしてます。このところ、日本の貧困問題がクローズアップされ、25条にスポットライトが当たるようになりました。また「25条と9条をセットで考える」という貧困と戦争の親和性について述べたこの言い方は、とてもわかりやすく「マガジン9条」でもしばしば登場する言い方です。しかし一方で、生活保護下におかれると、様々な自由が制限されるなど、25条を主張しすぎると、個人の自由が侵害されるような印象も受けています。憲法は、どのような権利を言っているのでしょうか?
国家権力が個人の自由に介入しないようにすることを目的として、その権力を法で縛るのが「立憲主義」という憲法の本質です。その一方で憲法は、25条1項で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」として、生存権を保障し、生活保護などを通じて、国家が市民生活に介入することを求めています。生存権などの社会権は、国家に、市民生活への「介入を求める」権利なのです。そうすると、市民生活に「介入しないことを求める」立憲主義と矛盾するようにみえます。
Aもともと憲法は、近代市民革命時に、国家が市民生活に干渉させないために生まれました。この憲法の本質は古今東西、変わりません。その後、市場経済が発達し、産業革命が起こり、巨大資本が現れました。その結果、「もてる者ともたざる者」との格差が拡大して社会的緊張が生まれ、個人の努力だけでは生きることすらままならない状況に至りました。そのような経済的弱者を救済するための人権として、生存権などの社会権が生まれたのです。
個人がどんなにがんばって努力しても生きることができない。そのことを問題視し、あくまでも一人ひとりが自立するための支援を国家に求めるのが、生存権の本質です。国家に依存することをよしとするものではありません。
25条は重要な権利ですが、この権利を国家に依存する権利ととらえて強調することで、憲法の本質を歪めることがあってはならないのです。そうでないと国民は国家の管理下におかれた存在になってしまうおそれすらあります。
そもそも今、問題になっているワーキングプアなどの貧困は、あくまでも、国家によって作り出された貧困です。国家が国民を貧困に導くような理不尽な政策をさせないように、憲法、言論活動、投票行動などを通じて国家をコントロールすることにより防げるものなのです。
25条は、国家に依存して貧困を救済してもらう恩恵的権利というよりむしろ、理不尽な政策や社会構造自体を排除する権利なのです。自分たちが連帯して力をつけ、悪辣な企業に要求して、自らの権利回復をはかる主張を憲法的に支える武器なのです。そう考えれば、生存権は立憲主義と矛盾するものでないどころか、そのような人権として強く主張することを通じてはじめて十分に実現される人権といえるのです。
明治憲法の時代は、国家主義つまり国家が何よりも大切であり、国民は天皇を中心とした国家を支えるための家来(臣民)でした。国全体がかつての家制度のようなもので、家長である天皇が自分の家族または家来である臣民を守ってあげるだから、家来は家長のために命を投げ捨てて戦うという発想です。
普段、生活の面倒をみてもらい、精神的にも守ってもらっているという依存関係があったわけです。臣民は保護の客体であり、統治の客体でした。こうして天皇や国家に依存する精神構造をすべて転換して、私たち一人ひとりが主人公であり、統治の主体である。そして一人ひとりの個人に最高の価値があるとする価値観の転換が行われました。それが現行憲法の国民主権と「個人の尊重」(13条前段)です。
ですから、この国民主権の下、私たちは国に依存するのではなく、自分たちが主体となって自分たちの社会を作り上げていく主体性が求められているのです。何か問題が起こったときに、すぐに行政や国に頼って何かしてもらうのを受け身で待つのではなく、自分たちが主体となって積極的に行動して問題を解決していくことを求められているのです。 25条もそうした私たちの主体性の現れなのです。
憲法第25条)
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
憲法第13条前段)
すべて国民は、個人として尊重される。
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