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伊藤真のけんぽう手習い塾(第65回)

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憲法記念日をはさみ、おお忙しだった塾長。
改憲をめぐる世論調査の分析と共に、先週に引き続き、自衛隊のイラク派遣違憲判決から、
平和的生存権についてじっくりと解説してくれています。

いとう・まこと1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。近著に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)。法学館憲法研究所所長。法学館のホームページはこちら「伊藤真のけんぽう手習い塾」から生まれた本です。
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平和的生存権(名古屋高裁判決から考える平和実現の具体的手段)

改憲をめぐる世論調査の変化

 5月のゴールデンウィークの時期は、いつも大忙しです。5月の第2日曜日には司法試験が控えていますから受験生や応援する私たちには休みはありませんし、憲法記念日の前後は毎年、講演で全国を飛び回っています。

 戦前は天長節だった4月29日が戦後、天皇誕生日となり、みどりの日を経て、今は昭和の日となっています。5月3日の憲法記念日も1946年11月3日の憲法公布の日から6ヶ月後に施行するということで記念日になったにすぎません。その11月3日は明治天皇の誕生日(明治節)にわざわざ新憲法公布の日を合わせたものです。あたかも大日本帝国憲法発布の日を紀元節(2月11日)にしたように。

 こうして戦前の天皇制を引きずっているゴールデンウィークですが、例年行われる憲法に関する世論調査ではうれしい結果が発表されました。朝日新聞の世論調査では、憲法9条を「変えない方がよい」との回答が66%にのぼり、「変える方がよい」の23%を大きく上回りました。憲法改正が「必要」とする人は56%いますが、その中で憲法9条改正を支持する人は37%にとどまっています。

 安倍内閣時代の昨年に実施された調査でも、9条に関しては、「変えない方がよい」が49%で、「変える方がよい」の33%を上回っていましたが、その差がさらに広がったわけです。これはまさに草の根のさまざまな市民活動の成果に他なりません。

 ただ改憲を必要とする人たちの中で、その理由としてあげられている第1が「新しい権利や制度を盛り込むべきだから」で42%にのぼります。フランスのように憲法改正をして死刑廃止を盛り込んだり、共和制に移行することを求める人々がこれだけいるのであれば画期的だと思うのですが、どうもそうではなさそうです。

 そして、気になるのは、改正を必要とする理由の中で、「9条に問題がある」とする人が昨年の4%から7%に増えていることです。自衛隊の海外での活動や国際貢献に憲法上明確な根拠がほしいと考える人たちが増えているのかもしれません。

 その点で、日本が果たすべき国際貢献とは何かを再度考えさせられる場が、5月4日から6日まで行われた9条世界会議でした。私もいくつかのイベントに参加しましたが、大変な熱気でした。

 幕張国際会議場の2万人を始め、5月5日の広島は1100人、5月6日の仙台は2500人、大阪は8000人が参加しましたから、3日間に全国でのべ3万人以上が参加したことになります。海外からの参加者も、31カ国・地域から150名以上にのぼりました。

 あるシンポジウムで、実行委員会共同代表の吉岡達也さんが、「日本が支援しなかったら間違いなくイラクの100万人の犠牲者は出なかった。私たちは殺している側に立っている。」「紛争地の人々は日本の軍事的協力を歓迎していない。」「自衛隊を派遣することによる国際貢献論はウソだ。」と主張されていたのですが、世界の紛争地域の現場を知っているからこそ、自信をもって断定できる発言として、とても説得力がありました。

 この会議でもあちこちで、4月17日の名古屋高裁判決の意義が指摘されていました。前回は判決の効力について考えてみましたが、今回は平和的生存権について見ていきたいと思います。

憲法における「平和的生存権」とは?その解釈とは?

 憲法前文第2項の最後に、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」とありますが、これが平和的生存権の規定です。

 前文であっても、もちろん憲法の一部ですから、その変更には96条の改正手続が必要であり、98条1項の最高法規の一部として国会を始めとしたすべての国家機関を拘束する、その意味で法規範性があるという点については異論がありませんでした。

 しかし、これまでの通説的見解では、「憲法前文には法規範性はあるが、裁判規範性はない」と解されてきたのです。ここで裁判規範性とは、裁判所に対してその保護・救済を求め、法的措置の発動を請求し得る規範という意味で、具体的権利性ともいいます。これを否定するのが通説だったのです。

 その理由は、前文は憲法の理想・原則を抽象的に宣明したものであって具体性を欠くからというものでした。そのため、平和的生存権も裁判規範性のない権利であり、裁判所で救済してもらえるような具体的権利ではないと解されてきたのです。

 判例でも、自衛隊の存在を違憲とした長沼事件1審判決が裁判規範性を肯定したのみでした(札幌地裁昭和48年9月7日)。長沼2審では明確にこれを否定しています(札幌高裁昭和51年8月5日)。この点に関する最高裁の判断はありません。

 しかし、最近は、この平和的生存権に具体的権利としての意味があり、裁判規範性を肯定するべきだとする学説が有力となりつつありました。

名古屋高裁の判決と解説

 こうした状況の中で、今回の名古屋高裁はこれを明確に肯定したのです。まず、以下のように法的権利であることを明言します。

「現代において憲法の保障する基本的人権が平和の基盤なしに存立し得ないことからして、全ての基本的人権の基礎にあってその享有を可能ならしめる基底的権利であるということができ、単に憲法の基本的精神や理念を表明したに留まるものではない。法規範性を有するというべき憲法前文が「平和のうちに生存する権利を」を明言している上に、憲法9条が国の行為の側から客観的制度として戦争放棄や戦力不保持を規定し、さらに、人格権を規定する憲法13条をはじめ、憲法第3章が個別的な基本的人権を規定していることからすれば、平和的生存権は、憲法上の法的な権利として認められるべきである。」

次に、裁判規範性(具体的権利性)について以下のように述べます。

「そして、この平和的生存権は、局面に応じて自由権的、社会権的又は参政権的な態様をもって表れる複合的な権利ということができ、裁判所に対してその保護・救済を求め法的措置の発動を請求し得るという意味における具体的権利性が肯定される場合があるということができる。例えば、憲法9条に違反する国の行為、すなわち戦争の遂行、武力の行使等や、戦争の準備行為等によって、個人の生命、自由が侵害され又は侵害の危機にさらされ、あるいは、現実的な戦争等による被害や恐怖にさらされるような場合、また、憲法9条に違反する戦争の遂行等への加担・協力を強制されるような場合には、平和的生存権の主として自由権的な態様の表れとして、裁判所に対し当該違憲行為の差止請求や損害賠償請求等の方法により救済を求めることができる場合があると解することができ、その限りでは平和的生存権に具体的権利性がある。」

そして、国側の主張である否定説に対して次のように明快に批判します。

「なお、「平和」が抽象的概念であることや、平和の到達点及び達成する手段・方法も多岐多様であること等を根拠に、平和的生存権の権利性や、具体的権利性の可能性を否定する見解があるが、憲法上の概念はおよそ抽象的なものであって、解釈によってそれが充填されていくものであること、例えば「自由」や「平等」ですら、その達成手段や方法は多岐多様というべきであることからすれば、ひとり平和的生存権のみ、平和概念の抽象性等のためにその法的権利性や具体的権利性の可能性が否定されなければならない理由はないというべきである。」

民主主義と自由主義。憲法が用意した二つのルート

 このように裁判所によって救済を求めることができる具体的な権利であると指摘されたことは画期的なことです。それは憲法が平和の実現について、予定した構造を正しく示してくれているからです。

 すなわち、憲法は平和の実現を2つの方向から達成しようとしました。民主主義のルートと自由主義のルートです。前者は国会・内閣を通じて達成される政治部門による平和の実現です。後者は裁判所を通じて一人ひとりの個人が行う人権主張による平和の実現です。

 憲法前文1項に、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し」とあります。つまり、国民主権の力、民主主義の力によって政府に戦争をさせない。これを第1の方法としました。憲法は政府に戦争をさせないために国民主権という手段を採用したのです。

 戦争によってもっとも被害を被るのは国民です。その国民が主権者となって政策決定に参加し政府を監視できるようにすれば戦争を防げると考えたのです。しかし、こうした民主主義のルートによる平和の実現はときに失敗することがあります。私たち国民は、誰もが情報操作されたり、ムードに流されたり、目先の利益に目を奪われたりする弱さを持っているからです。

こうした国民の不完全性に着目して、あらかじめ多数決でも奪っては行けない価値を明記したものが憲法だったわけです。それが人権です。つまり憲法はそのときどきの多数意思によっても奪っては行けない価値を人権として明記することで、多数の暴走に歯止めをかけたのです。

 私たちは多数派がなんといおうと、最後の一人になっても人権を主張することができるのです。憲法の本質は国家権力に歯止めをかけることですが、その権力がたとえ国民の多数意思を背景に持つものであっても制限されるべきだ、個人の人権を侵害してはならないという発想が立憲主義に他なりません。

一人ひとりが人権を主張することで平和実現できる

 こうして、民主主義による平和の実現を第1に考えるのですが、それがうまく機能しないときのために、個人が人権を主張することによって平和を実現するルートを確保しておいたのです。それが平和的生存権です。

 つまり、多数派による民主的コントロールによる平和の実現がうまく機能しないときに、一人一人が人権として平和を主張して司法の場において平和を回復する仕組みを憲法は用意しておいたのです。この民主主義による平和の実現とその弱点を補完するための人権による平和の実現の両者が相まって初めて、憲法の平和主義が完結することになります。

 その意味では、平和的生存権に裁判規範性が認められ具体的権利であることは憲法が当然に予定しているものだといえます。それを今回の判決は明確に判示してくれたのです。

 判決の中で例示されているように、仮に国民の多数が戦争準備行為のような9条に違反する国の行為を支持してしまったとしても、それによって個人の生命が危機にさらされたり、戦争の遂行等への加担・協力を強制されるような場合には、一人ひとりの市民が個人として平和的生存権という人権を主張して、裁判所に対し当該違憲行為の差止を請求してこれをやめさせることができるのです。

 私たち市民にはこうした具体的な手段が人権として保障されているのだということをしっかりと自覚しなければなりません。どのような人権であっても、自ら主張し行使しなければ意味がありません。

「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」(憲法12条)という私たちの責任はこの平和的生存権にもあてはまることなのです。

「(この憲法があることで)私たち一人ひとりの人権主張による、平和の実現ができる。
しかしそれは、自ら主張し公使しなければ意味がないのだ」と塾長は指摘してきます。
私たちの権利であり責任でもあるということ、しっかりと心に留めていきたいと思います。
塾長、ありがとうございました!


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