080123up
前回までのコラム
「自国の防衛を考える」から出てきた
「軍隊を持つとして、どうコントロールするのか?」について
引きつづき考えます。
いとう・まこと1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。近著に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)。法学館憲法研究所所長。法学館のホームページはこちら。
「伊藤真のけんぽう手習い塾」から生まれた本です。
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引き続き、軍隊を民主的にコントロールするための条件について検討していきます。国会では、ガソリン税の暫定税率撤廃をめぐって与野党の攻防がくり広げられていますが、先の国会では57年ぶりの再可決によって、インド洋における補給支援特別措置法が成立しました。
福田首相は「我が国が「テロとの戦い」に再び参加できることは誠に意義深い」との談話を発表したようですが、テロリストを相手にした「戦争」に参加することがなぜそれほどうれしいのか私にはわかりません。
日本は一切の戦争に参加しないことを憲法で明記しているにもかかわらず、アメリカの自衛戦争に参加するための法律がこうして成立し、再び戦争に加担してしまっています。
海上自衛隊が補給支援することの憲法的な意味や、日本の国際貢献のあるべき姿といった実質的な議論がほとんどなされませんでした。
もちろんこうした論点は議論の余地のあるテーマです。世論もほぼ二分され、日本がどのように行動するべきかはそう簡単に判断できるものではないかもしれません。私にとっては憲法の観点から明確に判断できることであっても、様々な考えがあるわけですから、議論の余地があることは認めます。
重要なことはこうした結論が分かれるようなテーマについては、しっかりと国会で議論するということです。実質的な審議討論の過程という手続きを経ることで、はじめて立場の異なる人々の間に多数決による合意が形成できるのです。これが議会制民主主義に他なりません。
こうした手続保障を重視することは、憲法の観点からきわめて重要です。裁判もそうですし、行政過程も手続の適正を重視することでその正当性が与えられます。
さて、議会の活動が信頼に耐えるもので、正当であるとみなされるのは、十分な審議討論によって議会が手続保障を実践しているからに他ならないとすると、日本の国会はそのような条件を備えていないといわざるを得ません。果たしてそのような議会に軍事力を統制する力があるのでしょうか。きわめて疑問です。
軍隊と市民社会はあまりにもその性質が異なりますが、近代国家は、あえて軍隊を市民社会から分離することで市民の自由を保障しようとしてきました。
少し横道にそれますが、2つの権力体系という東京大学法学部の石川健治教授の整理がわかりやすいので紹介します。そもそも「近代国家は、いわば分離国家である。公法と私法を分離し、国家と教会を分離し、軍と民を分離する。これらの分離主義によって、民間人の自由な空間が確保されるのである。常設の軍隊(常備軍)を市民社会から隔離することにより、市民社会それ自体の風通しがよくなる。
・・君主と常備軍とが直接に結びつくと、市民的な権力とは異なる正統性を有する、軍事的権力体系が独立することになる。その結果、法治主義が支配する市民的権力とその埒外におかれる軍事的権力との、二元主義的な権力の体系が現出するのが常となる。市民的権力体系にとって、軍事的権力体系の存在自体が脅威である。」(論座2007.6 ラオコオンとトロヤの木馬)
軍事的権力体系の存在自体が脅威なのは、市民的権力体系つまり市民社会とあまりにもその性質や目的が異なるからです。
たとえば、市民社会では個人が尊重されますが、軍事組織では個人よりも組織、団体が重要です。市民社会では一人一人の自律性、自主性が重んじられますが、軍隊では命令に服従することが不可欠です。市民社会では人の命を守ることに価値がありますが、軍隊は人の命を大量に奪うことが目的です。
本来は市民社会を守るための軍隊であったとしても、その性質があまりにも違うため、軍隊の存在が市民にとってかえって脅威になってしまいます。そこでこうした軍隊という暴力装置をいかに市民社会がコントロールするかに人類は苦労してきたわけです。軍事力の統制はまさに立憲主義がかかえる大問題であったわけです。
そこでもっとも基本的な統制方法として考えられた手法が、軍隊を市民的権力体系の下におく、つまり文民統制(シビリアンコントロール)です。
日本でも明治憲法時代には、軍政と軍令を区別し、軍隊の規模などを帝国議会の統制下においていました。しかし、『統帥権の独立』という慣行のもとで、結局は議会によって軍隊をコントロールすることに失敗しました。
ドイツでもワイマール憲法時代に文民統制を制度として保障しましたが、ヒトラーによる軍隊の悪用を議会が止めることはできませんでした。
ドイツでは第二次大戦後、ナチズムへの深い反省から憲法の敵には自由を与えないという『闘う民主制』を採用し、議会による軍事力統制を強化するなかで再軍備を進めました。前回、指摘したように、議会による徹底した民主的統制をはかって市民社会への脅威を最小限にしようと努力しています。
さらに軍事組織の中に市民的自由を取り込んで、市民社会との違いを少しでもなくそうとしています。「軍人には人間の尊厳に反する上官命令に従わないことが認められ」、「軍人は制服を着ているだけで、市民としての基本権を持っていることを明確にし、政府の政策に批判的な意見をいうこともできる」(世界2007.4水島朝穂「自衛隊はどう変質しつつあるか」より)のです。
こうして軍隊を民主的にコントロールする方法で市民社会への脅威をなくす努力を選択したドイツに対して、日本は、こうした軍事組織自体を持たないことによって、市民社会の自由を守ろうとしました。それが憲法9条です。
この9条の選択を改めて、ドイツのように議会によるコントロールの方法に乗り換えるのであれば、それだけ議会に対する信頼が厚くなければなりません。国会における審議討論が実質的に行われ、議決に至るまでの手続的保障が確保されて初めて、軍隊の存在を認めることができるはずです。
今回の給油法案の成立過程を見ても、日本ではこの選択はきわめて危険であること、つまり、文民統制の前提が成り立っていないことが明らかになったといえます。
かくも議会制民主主義が未成熟な日本において、軍隊に対する文民統制が可能だと考えることは、かなり楽観的な判断なのではないでしょうか。よく9条堅持の立場は理想主義的すぎると批判されますが、9条改憲派の方が今の日本の議会政治に対してあまりにも楽観的であり、理想主義的すぎるように思われます。
絶対に間違いが許されない軍隊の統制であるがゆえに、過去の自分たちの経験に照らして、より現実的に考えるべきです。
まったく肩すかしだった先の国会での「補給支援特措法」成立を巡る議論。
塾長が指摘するように、「憲法的な意味」や「本来の国際貢献」のあるべき姿
について、議論が深まる良いチャンスだっただけにがっかりです。
こんな人たちに、文民統制など絶対に無理だと思うのですが、
みなさんは、どう考えますか?
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