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自民党と民主党の大連立騒ぎの中、
自衛隊によるインド洋の給油活動再開のための新法制定や、
自衛隊の海外派遣を定める「恒久法」などが話題に上がり、
民主党のアフガン支援対案も提出されるなど、
政治レベルでの「日本の国際貢献や安全保障」の論議がぞくぞくと出てきています。
さてここで原点にもどって、日本が9条のもとで行うべき国際貢献とは何か?
国際社会とどう向き合えばいいのか?について塾長が論じてくれました。
いとう・まこと1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。近著に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)。法学館憲法研究所所長。法学館のホームページはこちら。
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今回は憲法が予定する国際貢献とはどのようなものか考えてみましょう。
始めに、議論の前提をいくつか整理しておきます。まず前提として、憲法を改正してどのような国際貢献まで行うべきかという議論ではなく、現在の憲法の下でどのような国際貢献が予定されているかを考えてみます。また、NGOなどの非政府組織が行うものはここでは問題にしません。たとえ日本国が金銭的に支援していたとしても、個人の責任と資格で出かけていくものについては、ここでは検討対象にしません。憲法による拘束を受ける国家による国際貢献のみを考えます。
国際貢献の内容としては、感染症対策を始めとする医療支援、貧困や飢餓の対策、災害救助などの民生部門における非軍事的な貢献と、平和や治安維持のための軍事的な貢献が考えられます、
前回説明したように、現行憲法の下では、自衛隊が海外で武力行使することは、一切許されないと考えます。
まず、集団的自衛権の行使にあたってしまうような行為は、人的な支援はもとより、給油活動などの軍事物資の補給、食料の供給、資金の提供に至るまで許されません。同盟国が戦争遂行中にその戦争遂行に必要なあらゆる行為に協力することは、法的には日本が戦争当事国と一体化して武力行使に参加することに他なりませんから、これは憲法が許している個別的自衛権の行使を越えた活動として違憲となります。
強盗犯人が犯罪に使うとわかっていて、犯罪遂行に必要な武器や逃走用の車、資金などを提供して重要な役割を果たした者は強盗の共犯となり、実行担当者と同じように正犯として処罰されます(共謀共同正犯理論)。これと同様に考えるとわかりやすいと思います。
少し今回のテーマからはずれますが、こうした観点で考えると日米安全保障条約に基づいて米軍が日本に駐留し、その米軍を日本が財政的に支援しているのは憲法違反となります。
安保条約6条には、「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。」とあります。
安保条約を実質的には合憲と判断したと解される砂川事件の最高裁判決(1959年12月16日)でも以下のように述べて、在日米軍はあくまでも日本の防衛のための存在であるが故に一見極めて明白に違憲無効ではないとしています。
「この軍隊は、・・・外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することとなっており、その目的は、専らわが国およびわが国を含めた極東の平和と安全を維持し、再び戦争の惨禍が起らないようにすることに存し、わが国がその駐留を許容したのは、わが国の防衛力の不足を、平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼して補なおうとしたものに外ならないことが窺えるのである。
果してしからば、かようなアメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは、到底認められない。そしてこのことは、憲法九条二項が、自衛のための戦力の保持をも許さない趣旨のものであると否とにかかわらないのである。」
ですが、現在の在日米軍は明らかに日本の防衛という役割を逸脱した存在となっています。アフガニスタン戦争やイラク戦争は在日米軍基地の存在なくしては成り立ちません。日本は日本の防衛のため以外の理由で、在日米軍を支援し、アメリカが行っている戦争に加担してしまっているのです。これは明らかに憲法違反です。
しかも、全国135の在日米軍施設が存在することによるさまざまな負担、危険、不利益をこれらの米軍施設がある27の都道府県の基地近隣住民の方々のみに負わせていることは、憲法14条の平等原則違反でもあり、またテロの標的になる危険という点では、平和的生存権(前文2項)の侵害でもあります。
さて、以上から、他国の自衛権行使としての戦争に参加することはどのような内容の貢献であっても憲法上許されないことになります。
では、国連決議に基づくものはどうでしょうか。これも前回確認したとおり、国連軍、平和維持活動(PKO)、国際治安支援部隊(ISAF)などを問わず、一切の軍事的貢献は許されないと考えます。そしてその内容は、自衛隊の派遣のみならず、武器弾薬、燃料、食料などの物資の供給、資金の拠出も認めるべきではありません。
憲法の趣旨から、軍事関連の協力は一切しないと明確に意思表示するべきです。1991年の第一次湾岸戦争の際に130億ドルの資金提供しながら、感謝されなかったといって恥じ入っている人がいますが、むしろアメリカなど多国籍軍の戦争資金など一銭も負担するべきではなかったのです。
このときも、血を流さずに金だけ出すというような中途半端なことをするから非難されるのであって、戦争には一切加担しないとはっきりと意思表示するべきでした。
そもそも、感謝されなかったといって悔しがったり、感謝されたいから貢献するという発想を持ったりすること自体、私には理解できません。国際貢献というものはそんな自己満足のためにするものではないでしょう。英米と肩を並べる大国でありたいという政治家の見栄かコンプレックスの現れのように思えてなりません。
さて、ここまで非暴力・非軍事を徹底させると、それで国際社会でやっていけるのかという心配をする人が必ずいますが、その点は後述します。
このように軍事的な国際貢献は、どのような名目のものであろうが、どのような正当化根拠をもってこようが、憲法は許していないと考えます。
では許される国際貢献は何か。それは非軍事的な民生面での貢献につきます。紛争には必ず原因があります。紛争が起こってから軍事的に対処するのではなく、紛争の原因をなくすために最大の努力をしようとするのが憲法の立場です。飢餓、貧困、人権侵害、差別、環境破壊といった世界の構造的暴力をなくすために積極的な役割を果たすのです。現地の人と一緒になって井戸を掘り、学校を建て、病院をつくって医療を提供し、感染症撲滅に尽力し、経済的自立のための支援をするわけです。
また、紛争終結後に道路水道などのインフラの整備、対人地雷除去、灌漑用水設備、必要な生活物資の支給などできることは無限にあります。人の命を奪うことへの貢献ではなく、人の命を救う貢献こそ、現地の人々が本当に求める国際貢献のはずです。
護憲的改憲派の論客である小林節教授は雑誌「週間金曜日」のインタビューの中で次のように発言されています(2007.11.2 677号16頁)。
「軍事的な支援から即刻手を引くべきです。---それでは具体的には何を。----例えば、緊急医療チームを送る。その活動が円滑に進むためには地雷の除去や道路整備、水道施設などが必要となってきます。できることはいくらでもあるんです。戦争で国土や生活が破壊され、途方に暮れている人たちも感謝されるはずで、これ以上の貢献はないはずです。今言った医療、地雷除去、給水整備などは日本が世界の最先端の技術を持っている分野でしょう。なぜそれを使わず、軍事支援なんですか?戦争や武力行使に加担する必要はないはずです。」 教授の意見にまったく同感です。
さて、こうしてあるべき国際貢献を考えてくると、たとえ集団安全保障に参加するとしても、軍事的な貢献はしないということになりますが、他方でこれが自国の防衛と整合するのかを検証しておかなければなりません。 国家の防衛として、個別的自衛権は憲法上も認められると解されています。その内容としてどこまでの実力行使が許されるかは議論のあるところです。つまり、あくまでも非暴力による自衛しか許されないと考えるか、ある程度の実力組織による自衛までは許されると考えるかの論点がありますが、ここではその点には触れません。
個別的自衛権の行使の他に、自国の防衛として、集団的自衛権という方法と集団安全保障という方法が考えられます。いずれも日本が外国から武力行使を受けたときに、他国に武力で助けてもらうことを前提にしています。
しかし、日本の行う国際貢献としては、集団的自衛権も行使できないし、集団安全保障も武力行使には参加できません。つまり、日本に何かあったときには外国に武力によって助けてもらうけれども、自分たちは他国を助けるために武力行使はしませんということになります。
これに対して、それは卑怯ではないか、ただ乗りだ、まさに一国平和主義ではないかという批判がなされるわけです。そんな自分の都合だけしか考えないような国は国際社会から孤立してしまうぞというわけです。
さて、この批判にはどう反論したらよいのでしょうか。 私は、日本は武力による国際貢献をしないとともに、外国から武力による支援も受けるべきではないと考えます。つまり、軍事力による介入はいらない、むしろ不要だというわけです。
そもそも地域紛争に外国軍隊が軍事介入して解決することは不可能だというのが憲法の立場です。少なくとも日本がそうした軍事行動に参加することはしないという立場です。すると、日本にもそうした軍事介入は不要だと言わなければ筋が通りません。
外国軍隊が日本を戦場として戦争をするときに、一番大きな被害を受けるのは日本国民です。もちろん外国には集団安全保障として外交交渉や経済封鎖などに協力してもらうことは当然です。しかし、最終手段としての国連軍による軍事行動や多国籍軍による軍事的な鎮圧を求めるべきではありません。国民の被害が一層拡大してしまうからです。
国連軍の発動などの軍事的な抑止力ではなく、集団安全保障という枠組み自体が大きな抑止力になっています。つまり、日本に軍事侵攻などすると国際社会から孤立してしまい、その国自体が存立していけなくなるという抑止力です。これは軍事的な抑止力よりもよほど大きく現実的なものと考えています。
日本はこうした非暴力による集団安全保障の枠組みで自国の防衛を補強しようとしたと考えることが憲法の趣旨に合致しています。
日本は軍事的な貢献はしないけれども、外国にも軍事的な支援は求めない。これが徹底した平和主義国家日本のあり方です。そして、そのような態度をとったからといって国際社会で孤立するなどということはありえません。これだけの経済大国になった日本が安全で平和に存在することは、どこの国にとっても利益になることなのです。
仮にある国が日本を孤立させようとして、日本との取引を停止したりしたら、むしろその国の方が困ってしまうはずです。日本は世界中の国々との取引で成り立っている国家ですから、日本を孤立させないことが、世界中の国々の利益になっているのです。
これだけの経済大国が一切の軍事力を外国で行使しないし、軍事的な助けも要請しないと宣言することは、一種の開き直りかもしれませんが、こうした開き直りが世界に安心感をもたらし、世界の安定の貢献するのです。
これは確かに世界に先例がありません。しかし、先例のない原爆という非人間的な武器を使われた国であり、キリスト教ともイスラム教とも距離を置くことができる国だからこそできることがあるはずです。
その個性的な国家としてのあり方ゆえに尊敬され、国際社会において名誉ある地位を占めることになるのです。日本は英米のような普通の国をめざすのではなく、個性的な日本らしいあるべき姿をめざせばよいのです。
さて、このように軍事的な助けをも求めないということになると、国防は個別的自衛権の行使と非軍事による集団安全保障に依存することになります。それでは日本国憲法が予定している個別的自衛権の行使とはどのようなものなのかを次は考えてみましょう。
つまり、自国の軍事力によって国を守るのか、ここでも徹底して非軍事による国防を考えるのかという論点について次回は検討してみたいと思います。
「人の命を奪うことへの貢献ではなく、人の命を救う貢献こそ、
現地の人々が本当に求める国際貢献」をしたいと、
私たち国民の多くも願っているはずです。
次回も引き続き、
「憲法が認める国際貢献と自国の防衛、非軍事による国防」
についての検討です。
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