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伊藤真のけんぽう手習い塾

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自民党の「歴史的大敗」に終わった参院選挙。
ここからこそ、考えなくてはならないさまざまな問題があります。

いとう・まこと1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。近著に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)。法学館憲法研究所所長。法学館のホームページはこちら「伊藤真のけんぽう手習い塾」から生まれた本です。
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第50回:原爆と原発

国民の力が、
暴力的な政治の流れにブレーキをかけた

政治権力者はあくまでも国民から信託を受けて、その信任を得ているからこそ権力の座にいることができます。よって、国民から先の選挙のような審判を受けた人間が、総理大臣として居座っていることは憲法の実質論からすると大いに疑問です。

選挙運動中の自身の発言からも、総理大臣としてやっていくことは知性ある常識人としては考えられないと思うのですが、そこは小泉さん直伝の「鈍感力」で乗り切るつもりなのでしょうか。

ですが、今回の選挙では、国民の力によって、少なくとも暴力的な政治の流れにブレーキをかけることができました。これこそが憲法の力です。主権が国民にあり、選挙権と表現の自由が保障されていて、ほんとうによかったと思う瞬間でした。世界にはまだまだ国民にこうした力が与えられていない国があるのですから、私たちは幸せです。

他方で、たとえ選挙で政治の流れが変わったとしても、自分の健康状態や生活状況はまったく変わらないという人たちもまだまだたくさんいます。これから本当に弱い立場にいる一人一人の生活を具体的に改善することができるかが重要な課題です。そのためにはますます国民が発言し、政治を監視し続けなければなりません。

被爆者の苦しみは、絶えることなく続いている

昨年のこの時期のコラムでは原爆症のことを書きました。ちょうど、広島地裁での全面勝訴判決が8月4日に言い渡されたばかりの時期でした。大阪、広島、名古屋と国は敗訴し続けているにもかかわらず、これらすべてに控訴しています。

今でも大変な苦しみの中にいる原告の方々に対して、国は「原爆とは無関係で単なるストレスからきた症状にすぎない」などと、被爆者に苦しみを与え続けています。国とは何のためにあるのでしょうか。こうした国が愛国心を国民に強制しようとするところに押さえようのない怒りがこみ上げてきます。

6日、安倍総理が、原爆症の認定基準について見直しを検討する考えを示しました。それでも裁判については控訴取下などの具体的行動を約束しているわけでもありません。単なるパフォーマンスに終わらせないで、一刻も早い具体的な救済を実現してほしいものです。

マスコミもそして私も、裁判の判決が出たときや、この時期にしか、原爆症のことを取り上げません。しかし、被爆者の方々は365日、24時間ずっと苦しみの中にいます。戦争や平和の問題もそうです。テレビでもこの時期に多くの特集がくまれ、関心も高まります。

ですが、戦争による加害者としての責任も被害者としての痛みも絶えることなく続くのです。だからこそ、私たち一人一人が平和への思いを持ち続けることが重要なのだとつくづく思います。為政者や国民の一時の決断の誤りがこうして人間の将来をも決定してしまうのですから。

原子力発電が抱える大きな危険性

原爆の被害を思うとき、原子力発電の危険性を常に想起します。原発も原爆もともにウランまたはプルトニウムを燃料としています。一瞬で燃やして爆発させるかゆっくり燃やすかの違いだけです。

7月16日の新潟中越沖地震によって柏崎刈羽原発では施設が大きな損傷を受けました。事前の安全対策の欠落のみならず、地震後の対応のまずさ、情報隠蔽体質など問題はなんら改善されていません。

原子力発電のシステムは極めて複雑、精緻に作られています。数百、数千、数万の機器が複合して制御しています。私たちは原発の安全性を本当に正しく認識しているのでしょうか。

核拡散の危険性やテロリストに悪用される危険、大事故の危険、環境汚染や作業員の被曝の危険、放射性廃棄物という危険なゴミ処理の問題など原発の危険性に関してはさまざまな指摘がなされています。

ですが、現在では日本の電力の35%は原子力発電で作られているなどと聞くと、「しょうがない」と思ってしまう人もいるのではないでしょうか。しかし実は、原発は出力調整ができないために、原発を作った以上はフル稼働させなければならず、それがために火力発電所や水力発電所が電力供給調整のために遊んでいます。

けっして「しょうがない」でかたづけていい問題ではないはずです。久間前防衛大臣の例の「しょうがない」発言にも似た感覚があるような気がしてなりません。

「しょうがない」ですませてはいけないこと

原子力発電システムの開発と販売はとても大きなビジネスになります。国内だけでなくアジアも含めて世界のマーケットが広がれば広がるほど、笑いが止まらない人たちもいるわけです。

これではイラク戦争が始まって、笑いが止まらない死の商人と同じです。戦争はよくないかもしれないけれど、今の世界の現状を見ると「しょうがない」。日本から武器輸出ができるようになるともっとビジネスチャンスが増えるのだから、軍隊をもった普通の国になってもらうと助かる。戦争ほど儲かるビジネスはないのだから「しょうがない」というのと同じ発想ではないでしょうか。

いくら儲かる仕事であっても、人の命や健康に関わることがらであるときには、我慢をするべきです。商売にもやせ我慢が必要なときがあるはずです。金銭的な欲望だけで突き進んでしまう企業に未来はありません。社会的責任を自覚することが企業のコンプライアンスとして不可欠であることは先進企業ならば知っているはずです。

ですが、この言葉は私自身にも返ってきます。暑い夏にクーラーをがんがんかけて生活したい気持ちを抑えて、自分自身が、汗を流しながらも、やせ我慢をしなければなりません。

原爆、原発、環境はつながっています。どれも私たちの生き方にかかわってくる問題です。けっして「しょうがない」ですませてしまっていいものではないはずです。

「しょうがない」で済ませていいことなのか、そうではないのか。
まずは自分自身に向けて、問いかけてみたいものです。
伊藤塾長、ありがとうございました。


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