090708up
15年近くにわたって、野宿者支援などの活動に携わってきた湯浅さん。
その経験から考える、「市民社会のあるべき姿」とは?
今春に始まった「活動家一丁あがり!」講座についても伺いました。
ゆあさ・まこと
1969年、東京都生まれ。1995年より野宿者(ホームレス)支援活動に関わり、「反貧困ネットワーク」事務局長、NPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」事務局長などを務める。主な著書に『反貧困』(岩波新書)、『貧困襲来』(山吹書店)、『正社員が没落する——「貧困スパイラル」を止めろ!』(角川oneテーマ21/堤未果さんとの共著)、最新刊に『どんとこい、貧困!』(よりみちパン!セ)などがある。
前回、現在の平和運動について、戦争体験者など「過去の運動の遺産」に乗っかっている部分があるのでは? という指摘がありました。そのほかに、いわゆる「護憲運動」を見ていて、感じることはありますか?
貧困問題もそうなんですけど、ずっとこうした活動というのは「辺境」に追いやられてきてしまっていたんですよね。「そんなことを言うやつは左翼だ」みたいな。重要なのは、いかにそうしたレッテルをはがして、問題を普遍化していけるかということなのかな、と思います。
「レッテルをはがす」ですか?
たとえば、僕はずっと野宿者の支援などの活動をやっていて、2007年に生活保護基準額の引き下げがあったときにも、その反対運動をやりました。そうすると、そもそも政治家が会ってもくれないんですよ。与党の自民・公明だけじゃなくて、民主党も。要は、「共産党がやってること」みたいなレッテルを貼られてしまっていたわけです。あの手この手を使って、「共産党員だけがやっている運動じゃないんですよ」ということを分かってもらうところから始めるしかなかった。
もちろん、別に共産党が悪いというんじゃないですよ。ただ、そうしてレッテルを貼られちゃうと、何も話を聞いてもらえない。「何を言ってるか」よりも、「誰が言ってるか」のほうが重みを持っちゃうんです。本当はおかしいけれど、実際にはそういうことは常にあるんですよね。
だから、そうして貼られた「レッテル」をはがして、いかに国会の平場で普通に議論できるテーマにするかが重要なんだと思います。そのための接点はこちらから見つけていかないと、向こうは絶対に見つけてくれない、見つける気なんかないんですから。
接点というのは、たとえば自民党の中でも、9条改憲はよくないとか、武器輸出三原則の緩和はよくないと思っている議員を探してみるとか、そういうことですか?
それもそうだし、あとは話の切り口ですよね。たとえば、ただ「自衛隊はよくない」というんじゃなくて、自衛隊があることによる経済効果はどうなのか、という話し方をするとか。
貧困の問題も、いろんな切り口で話しますよ。もちろん人権の問題、25条の生存権が脅かされているんだという言い方もできるけど、コスト論で話すときもあります。以前NIRA(総合研究開発機構)がやった調査結果ですけど、このまま行ったら就職氷河期世代の77万人が生活保護を受けることになって、18兆円かかる。それでいいの?ということですよね。その場その場でいろんな切り口を使いながら、議論の土俵にいかに乗せられるか、乗せてもらえるかということだと思います。
これは僕の好きな言葉ですけど、ノーム・チョムスキーが「魔法のボタンは存在しない」と言ってますよね。何の活動もそうなんですけど、「これをやればいい」という王道なんてどこにも存在しない。一歩一歩、常に広げ続けていくしかないんだと思うんです。
一昔前の左翼運動なんかだと、たとえば「民主党なんて元自民党なんだから」みたいな言い方をして、見下してつきあわないみたいな感じがあるでしょう。だけど、その人たちが賛成してくれなければ、どんな法案も通らないわけです。そういうところも、もっと泥臭くやっていくべきなんじゃないかと。世論を味方につけて、あの手この手で協力してもらえる人を増やしていく、それしかないんじゃないかと思います。
さて最後に、湯浅さんが今年の5月からPARC自由学校で担当しておられる、「活動家一丁あがり!」講座についても伺いたいと思います。「社会にモノいう初めの一歩」というタイトルで、「労働組合運動の現場を見よう」「ロビイングのイロハ」「イベントに参加してレポートを作成」など、ユニークなカリキュラムが並んでいますね。そして最後は「活動家一丁あがり!活動家総決起集会決行」。
こうした講座を立ち上げられようと考えられた経緯をお聞きしたいのですが、そもそも湯浅さんが定義する「活動家」って何なんでしょうか?
今、とりあえず考えている定義は「市民の中の市民」ですね。で、市民って誰?というと、「ものいう人」。社会に責任を持つ人、という感じかな。 国民は「国家の中にいる人」、子どもや親は「家族の中にいる人」、生徒や教師は「学校の中にいる人」。じゃあ市民ってどこにいる人だろう? と考えると、多分「社会」かなと思うんです。
「ものいう人」の市民がつくる「市民社会」のイメージは、今の日本社会に比べればもうちょっとものが言いやすい、言える社会。そして、ほかの人を巻き込んで、そういう雰囲気をつくっていくのが「活動家」だということですね。
その「活動家」を育てる講座をやろうと思われたのは?
まずあるのは、「活動家」の定義し直しをしたいということなんです。「活動家」のイメージって、私くらいの世代では非常に悪くて、「ナントカ主義者」で「どこで爆弾つくってるんですか」みたいな感じなんですよね(笑)。もうちょっと若い世代になれば少し違うんでしょうけど、全体としてあまりイメージがよくない。
で、それは言ってみれば、学級委員長はクラスで人気がないというのと同じなんじゃないかと。つまり、言ってることが間違ってるわけじゃないけど、「いつも正しい」のが気に入らない。煙たがられるのは主張する内容が悪いからじゃなくて、独善的な雰囲気とか、「これに賛成しないやつはみんな悪人だ」みたいな決めつけぶりとか「俺のやってることがおまえにわかるか」みたいな尊大さとか(笑)、そういうところが駄目なんじゃないかと。
そういうところをもう少し転換したい。そうできれば、もうちょっと「活動家」に対して抵抗の少ない社会になるだろうし、もう少し生きやすい社会になるんじゃないかと思うんですね。それで「一丁あがり」を始めたんです。
その「一丁あがり」講座、想像以上の応募があったそうですが、顔ぶれはどんな感じなんですか?
今回はとりあえず20代、30代の方に限定させてもらったんですけど、44人の応募があって。6〜7割が女性ですが、学生さんもいれば働いてる人もいるし、労働組合に勤めてるという人もいるし、いろいろです。こんな「普通」の人たちが活動家になりたいなんて、すでに社会がだいぶ変わってきてる証拠じゃないかなと思って、非常に期待してます。この間の講座では、「活動にだってファッションが大事だ。みんなもっと綺麗な格好をしなきゃ」なんて議論が出ていましたね(笑)。
すでに自分で何か活動をしていた人たち、というわけではないんですか?
してたという人もいるし、そうでない人もいます。それもいろいろですけど、ただみんな何となく息苦しさを感じているんだと思いますね。ものを言うと何か、かえってヤブヘビになるみたいな雰囲気があって、自分も何も言えないしみんなも言わない。そういう状況に対して、「もうちょっと何とかならないか」という感覚自体は、多くの人が持っていると思うんです。ただ、そのことと「活動する」ことがすごく遠くなってしまっているのが不幸なんですよね。それがもうちょっと近くにあっていいんじゃないか、と。
今、駅前でギターを弾いている人って珍しくないでしょう。あと、スケボーやダンスの練習をしてるとか。でも、10年前にはああいう人たちはほとんどいなかった。最初はすごく奇異に感じられたはずなんです。だけど、そこからデビューしてのし上がって、みたいな人も出てくる中で、社会的な認知ができて、それも一つのあり方だという感じになってきた。うまい人ばかりじゃないし、うるさいといえばうるさいんだけど、みんな何となく許しちゃってるんですよね。
だったら、その中にアメリカやヨーロッパの公園によくある「スピーカーズコーナー」、みんなが勝手に自分の意見を言う場所みたいなのがあってもいいはずだと思うんです。今はハードルがすごく高いけど、もうちょっとみんなが普通にやり始めれば一つの「風景」になるはず。そこへ引っ張っていくのが「活動家」だと思うんですよね。
今回の講座は1年間、来年5月までですが、その先は何か考えてらっしゃいますか?
「フツー」の人たちが、「声をあげる」のが当たり前の社会。
今よりずっと風通しのよさそうな、そんな社会を想像すると、
なんだかワクワクした気持ちになります。
湯浅さん、ありがとうございました。
「一丁あがり」の今後も楽しみです!
ご意見募集