戻る<<

この人に聞きたい:バックナンバーへ

この人に聞きたい

071114up

落合恵子さんに聞いた(その2)

ひとつの命を深く見つめて

今回は、落合さんのとても個人的な経験を通して、
社会問題、そして憲法について語っていただきました。

おちあいけいこ
作家。1945年、栃木県宇都宮市生まれ。1967年株式会社文化放送入社。アナウンサーを経て、作家生活に入る。東京・青山と大阪・江坂に、子どもの本の専門店[クレヨンハウス]、オーガニックレストラン、自然食材の市場等と女性の本の専門店[ミズ・クレヨンハウス]を主宰。育児と育自を考える『月刊クーヨン』の発行人。たくさんのひとと「楽しく考える」をモットーに、子どもや女性、高齢者、障がいのあるひとたちの声を、あらゆる角度から追及。書くだけでなく、行動する作家として、活動中。主な近著に、『だんだん「自分」になっていく』(講談社)、『こころの居場所』(日本看護協会)『メノポーズ革命』(文化出版局)、絵本『犬との10の約束』(リヨン社)『母に歌う子守唄 わたしの介護日誌』(朝日新聞社)、『絵本屋の日曜日』(岩波書店)など多数。

パターナリズムは
人間関係を悪くする

編集部

 (その1)では、落合さんが7年間自宅介護をなさってきて、そこからみえた介護の現場の問題や、若者の労働の問題について語っていただきました。
ちょっと個人的な話になりますけれど、お母さまが倒れたのはいつごろですか?

落合

 1998年が最初です。いくつかの病状はあったけれど、その時は元気に戻って。本当に介護が必要になったのは2000年の後半でした。

編集部

 倒れられたときから、意識障害が始まったんですか?

落合

 そこはまだ、しゃんとしてましたね。2001年に6ヵ月間、病院に入院したんですけど、その入院期間に記憶がものすごく落ちていったんです。実は初めの3年ほどは、ずっとパーキンソン病だって言われていて、その治療だけをしてたのね。でもわたしはどうしてもそれが納得できなくて、セカンドオピニオンを求めたけど、その時もパーキンソン病だと言われて。で、サードオピニオンまで辿り着いてようやくアルツハイマーが入ってるって分かったんです。
 医者と患者は、支配と被支配の関係の名残ですね。民主主義じゃないの。言葉だけのインフォームドコンセントが多く、ぽーんと1行か2行ほどの言葉で「これでよろしいですか?」って。そうじゃなくて、充分なる情報を出した上で選択、合意するのが、本来のインフォームドコンセントですよね。3人目の医師でようやくアルツハイマー病だって分かったけれど。そこからは、すべてのたがが外れたように、いわゆる認知症に…。

  アメリカのアフガニスタンへの報復攻撃始まったころはね、時々まだ意識が戻ってたのね、「イヤなのが始まったね…」って。
 うちの母は、ちょうど1945年1月にわたしを出産してるから、戦争の末期の辛さが刷り込まれていて、食べ物がなくておっぱいが出なくなって、配給されるミルク取りにいったら、帰りに爆撃に合ってミルクが坂にバアーって流れていくのを、子どもに飲ませたいと思ったとか。そういう体験をしてるので、戦争は絶対イヤだ、という感情を強く持っていたんでしょうね。その時はハッキリしてましたね。

編集部

 よくいう「まだらな記憶」ですね。

落合

 そう、でもアフガンの時は、ハッキリ言ってた。机の上の勉強した人ではないんだけど、久米宏さんのニュース番組は大好きで、あれを必ず見ていて、それに自分なりに一生懸命反応していましたね。
 母の介護を通して、支配と被支配、パターナリズムっていかに相互の人間をダメにするか、ということが見えてきた。それはもうひとつの“日本のカタチ”です。民主主義とパターナリズムの共存。

編集部

 入院が、病気が進むひとつのきっかけだったんですね。

落合

 長すぎたんですね、6ヵ月。だからその時に、もっと早く、例えばアルツハイマー病について、違った形でも診断がなされていたらよかったんですが。その後もこちらがパーキンソン病だけとは思えませんって、一生懸命本読んでアンダーライン引いて言ってもやっぱりダメなんですよね。これ、似てますよ、政府と国民の関係に。

編集部

 いくらこちらが言ってもね。認められなければそこまで。

落合

 まあ、パーキンソン病もアルツハイマー病も症状はとても似てるので難しいとは思いますが。セカンドでも否定されて。サードでようやく分かったけれども。
政府と国民の関係に似ているなと思ったのは、あの憲法もそうなんですよね、ある時までがんばっていても、ちょっとそうかな〜って立ち止まった瞬間にボ〜ンとやられて、気づいたときにはもう手遅れかもしれない。そういうことを感じた。

ひとつの命をじっくりと
見つめていこう

編集部

 在宅介護ということは、どの辺で決めたんですか?

落合

 最初から思ってました。それは母自身が望んでいたことで、母が祖母を在宅で見送ったことがやっぱり大きいかもしれません。何よりも母がそう望んだっていうことで、決めていたんですよ。

 でもね、イラク戦争の時なんかいろんな集会があって、行きたくても行けない、何が起きるか分からないわけです。午前中元気でも、午後に急変するかもしれないし。そうすると、行けるかもしれないけど行けないかもしれない…って。わたし個人の母のために、大事な場へ行かない自分でいいのか、ということではね、やっぱり悩みましたよね。それでもいろんな悩み、葛藤の最後に出てきたわたしの思いは、ひとつの命を深—く見ていくと、どっか地下水脈で命ってつながるんじゃないか。それから、曲がりなりにも7年間、母を自分の家で看られたっていうのは、表面だけは戦争がない、地上戦がないっていうこの国にいたからできたっていうことを、すごく感じました。

編集部

 おっしゃったように、日本が戦争状態にない、戦争に参加していない、ってことが介護とか医療とか、その現場にもね、ある意味では、充分とはもちろん言えないけれど、ある種の安定をもたらしているということは言えますよね。

落合

 戦後62年間、そうだったと思うんですよ、曲がりなりにもね。で、その言葉自体も問い直しをしなきゃいけないけれども、この国は“繁栄”を謳歌してきた。そのベースにあるのはやっぱり、一応この国の地上で人を殺したり殺されたりという戦闘がなかったからでしょう。それはとても大事なことだと思うんですね。ただ、じゃあ、目の前にないからそれでいいのか? という問いかけはこれからもっとしなくちゃいけないと思うんですけどね。

編集部

 お母様がお亡くなりになったのは、今年8月ですよね?

落合

 そうです……。海の向こうの…、想像力の中でこう重なるんですよね、たとえばイラクにだって母と同じように介護が必要なお年寄りがいて、息子が今朝出てった。夕方まで帰るって言ってたのに帰って来ない。娘も出て行ったきり帰って来ない。爆撃の中に命を落としているかもしれない、とイラクの母親は病床の中、不安におののいている、そういったことを想像してしまう。だから、ある意味でとても命の近くにいたっていうことで、理論などとはまた違う意味でね、見えたものもあったって気がするんです。

 それが母からの、1945年の敗戦の年にあえてシングルで親になろうということを選択した一人の女性からもらった贈り物だなあ、ととても強く思っていることです。

編集部

 亡き母からの、贈り物…。

落合

 それは、憲法とも結びついていますよ、わたしの中で。母は選挙の時はいつも言ってたもの。わたしを抱いて、最初に選挙で投票したときに、桜の花が咲いてたんだって。母が権利を行使したいちばん最初の選挙。それはすっごく嬉しかったって言ってましたから。

 母がシングルでわたしを出産するって決めたときに、母を批判して去って行った人がたくさんいた。これもすごく関わりあると思うんだけど、みんながある方向に流れていくときに、立ち止まって、今まで通りに彼女と付き合ってくれた、本当に僅かな少数派の人たちも、いたのだそうです。わたしたちが憲法を考えるときも同じだよね。みんながある方向に流れていくときに、立ち止まって考えることが出来るかどうか。で、はたと立ち止まって母と付き合ってくれた人は「少数派」っていうことが分かる。世の中に対して、何か変えていくっていうのは少数派、っていうことも、肌感覚というか体感で分かっていく。それが今のおじいちゃんおばあちゃんだったり、ご近所の方だったり。

編集部

 ある意味での遺産ですよね。お母さんが残してくれた遺産に、憲法があるわけですね。

落合

 ありますよ。彼女がシングルで親になるって言ったとき、「恥知らず」「世間体が悪い」「人様にどう顔向けするんだ」って親類縁者から縁切り状が山のように来たんだって。でもそのときに、今まで通りに付き合ってくれた方で、近所の老夫婦がいらっしゃった。そのお二人が機銃掃射の弾が貫通して亡くなるのを、母は少し離れた所から目撃しているんですね。彼女はそれまで、いわゆる軍国少女で、日本は正しいと思ってきたし、日本は負けるはずがないって思い込んできたんだけれど、そう思ってきた自分の中に「なんか違う」ものが芽生えた。明らかな非戦とか反戦とかには行かないんだけれど。

 記憶がどこまで正しいか分からないけど、その機銃掃射を受けたとき、まるで海老が跳ねるようにお二人が飛んだような気がしたって。母は肥溜めに逃げ込んで、その時わたしお腹の中にいたんですが、で、何があったか分からないまま肥溜めから出て、お二人の所に這うようにして行くと、同じ格好して、いつまでもその格好で、触れればまだあったかいのに、お二人が死んでいる。

 戦争が正しいって教え込まれ、みんなを守るために戦争してるんだ、アジアを解放するためだ、とか何とかかんとか言って…、聖戦といわれたことが、「なんか違う」と。でも言えなかった。ましてや自分は少数派を選んだ。これから待っているであろうバッシングを考えた時、何にも言えなくて、天下晴れてそれ口に出来たのは戦争が終わってからだったそうです。でも、あたかも自分はずうっと前からそう思っていたかのようにね、言ってしまう自分がイヤだったって、言ってましたね。その違和感は、彼女の中にずっと強く残っていたのかもしれないですね。

わたしと憲法

編集部

 落合さんはお仕事を続けながら、どのような過程で、憲法の大切さを意識されたんですか?

落合

 ハッキリ意識してないけれど、ひとつはあの憲法が意味するところの、基本的人権、戦争しないということと、わたしの出生・出自ということが、どこかで重なっている気がするのね。それは24条・婚姻の自由、両性の同等の権利、あれですね。

 自分自身が、それはわたしが選んだ事ではないけれど、この社会における、当時の言葉を使えば(差別語ですが)いわゆる「父なし子」、非嫡出子であると。わたしはいつも、冗談じゃない!って。誰が嫡出・非嫡出を決めるんだと。わたしは正当の生まれの子どもだよって。社会制度が非嫡出子に登録をしたことに対する怒りがあって、同時に同情されることに対する拒否感もあって、という意味で、わたしはわたしです、わたし自身を生きていくことに対して、誰にも何も言わせません。そんな思いと、重なっていたような気がするんです。

 いつ頃なんだろうなあ、わたしにその想いが根づいたのは。憲法を最初に習った頃だよね、きっと。わたしたちが小学生、中学生の頃って、戦争が終わって民主主義なんだ、言いたいことが言えるんだって思ってた。トタン屋根の校舎で社会科の先生が熱く語ってくれた。子どもが急に増えたから、校舎が足りなくて仮設の校舎。雨が降るとトタン屋根に雨が当たって、その雨音で先生の言ってることが聞こえないような、そういう大教室で熱く憲法について語った先生の言葉が、今でも記憶に残っていますね。

 でも家に帰ると母が、ある種社会と対峙するような生活を送っているので、どんどんと疲れていっていた。母とわたしは最初、栃木県の宇都宮にいたんだけれど「お前んちは戦争中、兵隊さんを出さなかった家だ」とか「非国民」とか言われ、母は20代の後半だと思うのだけれど、わたしを連れて東京に出てきた。そこで「東中野ハウス」という四畳半か三畳一間のところに住んで、ある会社の経理の仕事を見つけてきて働きに出るんだけれど、まわりの部屋にはきれいなお姉さんたちが住んでいてね、すっごい親切にしてもらって、母がいない間、共同保育みたいにしてみんなが面倒をみてくれた。

編集部

 落合さんの著書『夏草の女たち』にも詳しいですよね。

落合

 そう。彼女たちは、わたしは当時は子どもだったしわからなかったけれど、みんな、戦争に夫や父親をとられ、いろんなものを奪われてしまった女たち。でも明日から生きていかなくちゃいけない。そこでダンサーになったり、にわか芸者さんになったり、その頃、未亡人サロンというのがあったのだけれど、そういう人たちが東中野ハウスの住人だった。彼女たちの誰かは、金髪の外人さんの恋人がいてよく遊びにきていた。だけれども、ある日、その女の人がひどく泣いていて・・・。朝鮮戦争に彼は行ってしまった。だから本当に、戦争の尻尾、それもかなり酷い尻尾の部分が、わたしの子ども時代にはあったんだと思います。

編集部

 それが憲法と関わりを持つ、落合さんのバックボーンなんですね。

落合

 そう。自らの出自、それは大きいと思います。わたし、ベアテさんとお会いしたとき自分の生い立ちの話をしたら、「わたしはあの24条に、婚外子差別を無くすという一行を入れていたのに、後で削られたのが悔しい。あれが入っていれば」と言っていただいたんだけれど、それはそうかもしれませんね。

 バーバラ・リーさんっていう、アフガニスタンへの報復戦争決議にたったひとり反対票を出した、カリフォルニアの議員がいるでしょう。彼女が来日した時、ホテルで集会があって、彼女と公開対談しました。彼女は、「あの時の一票って、自分の政治生命どころか命をかけて反対した。“アフガニスタンの攻撃反対です”って。暴力に対して、軍事力を持ったところで、何ひとつ変わらないのですから」という話をしてくれたので、「いつどこで、あなたはそれを学んだの?」って聞いたら、彼女は、「わたしはアフリカ系アメリカ人です。自分の出会っていない祖先たちが、どれだけ差別をされてきたか。母はわたしを生む時に、“ウチはアフリカ系アメリカ人は駄目”だって、病院をたらい回しにされて・・・産むのが大変になって、鉗子を使って頭をこうやって引っ張られたから、その時の傷がここにほらあるでしょ?」、という話をされたのね。続けて彼女はこうも言いました。

 「だからわたしは、わたしの命と存在をかけて。自分に連なる“前の命たち”の存在にかけて。それから“次の命”に連なる命にかけて。戦争に反対するのです」と。共感しました。出生とか出自は、生まれてきた子が背負うべきものではないのですが、意外と人間に大きな意味をもたらすのだなあ、と思ったわけです。

編集部

 力強い言葉ですね。

落合

 最後に子どもの本の専門店をやっている立場からも言いたいことがあるんだけれど・・・わたしが最近知ったことなのですが、ジョン・バーニンガムという有名な絵本作家がいるのね、その人の作品に、『ガンピーさんのふなあそび』っていうのがあるの。あらすじを簡単に言うと、ガンピーさんっていうおじさんがいるんですよ。とっても穏やかな人で、来るものをおいでおいでって拒まない人なのね。ある日、船に乗ってどっかへ行こうという話になったの。すると「わたしも行きたい、わたしも行きたい」ってうさぎも馬もロバも豚も、みんな全員が手をあげちゃった。そして乗ってくるわけです。ガンピーさんは、「いいよ、いいよ」って。でもみんなが、あんまり乗りすぎたので、ついにその船は沈んじゃうわけ。そうすると、普通だったら大騒ぎになるんだけど、ガンピーさんは、「じゃあゆっくりみんなで渡って行きましょう。渡って、岸辺に着いたら、みんなで美味しいお茶飲みましょう」って。 ただそれだけのストーリィなんだけれどね。

 で、先日、彼の評伝が出たの。それによると、彼は戦争の時、良心的兵役拒否をしているのです。で、彼のお父さんもやっぱり良心的兵役拒否してるのね。納得しました。

 ガンピーさんのように「みんな乗ってけばいいじゃないか」と言う。「後から来たやつ乗せないよ」っていう切り捨てじゃなく、「乗ってこうよ」って。沈んだらまたそこから新しくみんなで行こうよって。そしてみんなで仲良くお茶飲もうよって。ドラマなんてないそんな話なんだけれど、メッセージが伝わるでしょ?「平和」の心を自然に育む、そんな力が「絵本」にはあるって。

編集部

 なるほど。「平和」や「反戦」について、なかなか言いにくかったり、伝わりづらい今だからこそ、「絵本」というすてきなツールをもっと活用したいですね。長時間、ありがとうございました!

落合さんの言葉の一つひとつが、とてもわかり易く心に響くのは、
一つにはご自身の体験をベースに発言されているからでしょう。
私たちも、自分の個人的な体験や問題、悩みを社会の問題とリンクさせて考えてみると、
また違った見え方や答えが導きだされるのではないでしょうか? 
みなさんのご意見、お待ちしてます。

ご意見フォームへ

ご意見募集

マガジン9条