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保守派の論客として活躍中の中島岳志さんは、今日混迷する日本の政治思想や、
ゆがめられた政治理念を見極め、冷静に考え修正するためにも、
「左右の“バカの壁”を崩し、もっと対話を」と呼びかけています。
左右両方の固定化された歴史観に対するアンチテーゼとして
『中村屋のボース』を執筆したとも言います。
まずは、保守とは?革新とは?という大前提となる理念や政治思想、
今日までの大きな流れについて、お聞きしました。
なかじま・たけし
1975年生まれ。北海道大学准教授。専門は、南アジア地域研究、近代政治思想史。著書に『ヒンドゥー・ナショナリズム』(中公新書ラクレ)、『中村屋のボース−インド独立戦争と近代日本のアジア主義』(白水社)、『パール判事 東京裁判批判と絶対平和主義』(白水社)、西部邁との対談『保守問答』(講談社)、姜尚中との対談『日本 根拠地からの問い』(毎日新聞社)など多数。「ビッグイシュー」のサポーターであり、「週刊金曜日」の編集委員を務めるなど、思想を超えて幅広い論者やメディアとの交流を行なっている。
昨年末には麻生政権の支持率がついに3割を切るなど、半世紀にわたってほぼ与党の座にあり続けた自民党が、まさに「崩壊直前」ともいうべき状況を迎えています。
中島さんは、南アジア地域の研究とともに近代政治思想史をご専門とされていますが、ここに至るまでの日本の戦後の政治、思想の流れをどう見ていらっしゃいますか。
戦後日本の政治思想史においてもっとも特徴的な構図は、「保守と革新の対立」でしょう。その中でまず押さえておきたいのが「ナショナリズム」についてです。今はナショナリズムというとすぐに「右だ」みたいな反応になりますけど、基本的には戦後、「愛国」は革新のものだったんですよ。小熊英二さんが著書『〈民主〉と〈愛国〉』でも描いていたように。
今の「革新」のイメージからは、考えにくいですね。
でも、政治学的にナショナリズムの原理、初発を考えれば、それと結びつくのは「主権と平等」という概念なんです。これは、フランス革命から考えると非常に分かりやすい。フランス革命というのは、簡単に言えば絶対王政を倒して、国家は国王のものじゃなくて国民のものだという主張をしたということ。そして、この国家の領域に住んでいる住民は、平等な主権者であるという主張を持った新しい国家体制=国民国家をつくった。それがフランス革命というものの形であり、初発の、政治的なところから立ち上がったナショナリズムです。
つまり、ナショナリズムは「平等な主権者」という概念と、そもそもは深く結びついた概念だということなんです。
そう考えると、戦後の革新がなぜナショナリズムの問題を考えたかがよく分かると思います。つまり、「上からのナショナリズムを下からのナショナリズムに取り戻せ」ということだったんですね。
なるほど。主権者である民衆の側に立ったナショナリズムを、ということですか。
たとえば、丸山眞男(※1)は一貫したナショナリストです。彼は「超国家の主義の論理と真理」という有名な論文で、いわゆる軍国主義がどういう原理で成り立っていたのかを説き、行き過ぎたウルトラナショナリズムを批判しました。と同時に、「陸羯南(くがかつなん)——人と思想」という論文で、明治の自由民権運動や立憲主義から出てきたナショナリズムは極めて健全なものであるとも言っている。
陸羯南(※2)は『日本』という新聞を出していたジャーナリストで、国粋派と言われたりしますが、一方で「ナショナリズムは西洋において、主権要求として下から立ち上がってきた近代的現象として捉えるべきだ」ということを、はっきりと書いていた。丸山はこういうナショナリズムを信頼し、それがなぜ上からのナショナリズム、ファシズム的なものに利用されたかという視点を持ったわけです。
それと同様の問題意識を持ったのが竹内好(※3)ですね。彼が60年安保のときに何度も言っていたのは、ナショナリズムの重要性でした。彼は「民主か独裁か」というテーゼを掲げて安保闘争に加わっていきました。つまり、これは単なる日米安保の問題ではない。岸信介の強行採決というのが、民主的なプロセスを経ずに、しかも議会民主主義を踏みにじる形で行なわれた。それこそが問題の核心部分であるとしたわけです。そしてまた竹内は、「日本にも抵抗の主体がようやく現れてきた。これを日本に定着させるためには、愛国という問題を避けて通ることはできない」と主張したのです。抵抗の主体を日本に定着させるためには、主権の土着化が必要だというわけです。そして60年安保と同時に、「近代の超克」論(※4)、そしてアジア主義の再検討を始めます。
『近代の超克』で彼がはっきりと書いているのは、次のようなことです。「思想が創造的な思想であるためには、火中の栗をひろう冒険を辞することができない。身を捨てなければ浮かぶことができない。・・・戦争吟を総力戦にふさわしい戦争吟たらしめることに手を貸し、そのことを通じて戦争の性質そのものを変えていこうと決意するところに抵抗の契機が成り立つのである」。つまりみんなが避けているファシズムというものの中にあった、ある種の下からのナショナリズムみたいなもの、そんな原石を掘り当てるためには、“虎穴に入らずんば虎児を得ず”という感覚が必要だと。
全面的な戦前の否定というものは、何も生み出さないというが、竹内の情念だったわけです。そういうところからも、彼は丸山とも親しく、愛国という問題をナショナリズムとして捉えています。
※1 丸山眞男(1914〜1996):政治学者、思想家。1950年〜71年まで東大教授。戦後民主主義を代表する思想家とされ、「丸山学派」「丸山思想学」との言葉も生まれた。
※2 陸羯南(1857〜1907):明治時代の新聞記者、ジャーナリスト。明治政府の欧化政策に反対して「国民主義」を掲げ、1988年に新聞「東京電報」を発刊(翌年「日本」と改題)、社長兼主筆を務めた。
※3 竹内好(1910〜1977):中国文学者、文芸評論家。60年安保闘争において、岸内閣による安保条約強行採決に抗議し、東京都立大学教授の職を辞した。
※4 「近代の超克」:日米開戦翌年の1942年、雑誌『文学界』誌上に掲載された、文学者や科学者など各界の知識人13人による座談会のタイトル。欧米の支配に対抗する「大東亜戦争」は、これまで欧米支配によってなされてきた「近代」を終わらせ、「超克(乗り越える)」する歴史的な転換点なのだ、との主張がなされた。竹内は1959年に「近代の超克」と題する論文を発表し、その再検証を行った。
60年安保の頃は、革新側にまだそういった思想があったのですね。
竹内だけではなく、50〜60年代前半の日本の革新勢力は、抵抗のナショナリズムによるアジアの連帯ということを考えていました。冷戦構造の中で帝国主義はなお続き、日本も沖縄をアメリカに取られているし、アジア・アフリカの各地で反植民地闘争が継続している。そんな中で、アジア諸国それぞれの独立闘争ナショナリズムと、日本の反帝国主義ナショナリズムが手を結び、新たなナショナリズムとアジア主義によって新たな世界像をつくっていくべきだという主張がなされたんです。それがたとえば、1955年のアジア・アフリカ会議への期待だったり、ネルー、周恩来の「非同盟」への共感だったり、という形で表れてきたわけですね。
もう一方の保守勢力のほうはどうだったのでしょうか?
それについては、僕はまず、日本に保守政党、保守勢力というものが、どこまで存在したのだろうかということ自体に疑問を持っています。
どういうことですか? 自民党は保守政党じゃないんですか?
これは、左翼の定義から考えたほうが分かりやすいと思うのですが、左翼というのは、基本的には人間の理知的な側面、人間の努力によって平等社会がつくれる、進歩が可能だとする考え方です。これが左翼の大枠の合意としてあって、あとはその平等社会をどうつくるかという手段の問題になる。
一つは国家を通じてつくろう、国家が金持ちからたくさん税金をとって弱い立場の人たちに再分配することが必要だ、という考え方。今なら有力なのは社会民主主義や福祉国家論ですね。かつてなら国家社会主義や共産主義です。一方、やっぱり国家というものはどうしても抑圧する側・される側という二分構造をつくってしまうから、個人ベースの連帯でやろうと考える立場もある。その極端な例がアナーキズムということになります。
しかし、保守というのはこの左翼の前提の合意部分をどこかで疑っているんです。つまり、人間の理知的な側面によって人間が進歩した社会を設計できるのかといえば、無理だろうと考える。つまり、人間には嫉妬ややっかみ、エゴイズムといったマイナス感情を捨てきれないし、たとえば生まれ育つ場所や母語、親を選べないとか、さまざまな限界があります。もっと言えば、誰でもいずれ死ぬわけだから、「身体」「生命」という限界もあるわけです。
であれば、その「無限の理性」を信じるのではなく、「人間の限定性」ということから考えて、人知を越えたもの——伝統や慣習や経験値、良識、あるいは神といった形而上学的なものに依拠したほうがまともな社会になるんじゃないか、と。その上で時代状況に合わせた、漸進的な改革をしていくべきだというのが保守の合意なわけです。
だから、簡単に言えば保守というのは過去も未来も全面的には信じていないんです。人間が限界を持つ不完全な存在である以上、過去においても人間社会は不完全だったし、未来においても不完全なまま推移せざるを得ない。その中で、時代状況に合わせて漸進的な改革をしていこう、という考え方であって、過去の一点に戻れば理想社会になるとも、未来に理想的な社会をつくれるとも考えない。そういう立場を保守というんだと、僕は考えているんです。
そうすると、日本の保守政党、保守政治家というのは、どうなるんでしょうか? 55年体制で、自由民主党と日本社会党が二大政党として政治を行なっていた時は、保守対革新という構図ができていたんじゃ、ないのでしょうか?
55年体制成立の後、自由民主党は揺れるんです。吉田茂のあと鳩山一郎になって、鳩山は吉田からの距離を考えていたので、アジア・アフリカ会議に積極的だったりした。アメリカから一定程度の距離をとろうとしたわけです。しかし、外相の重光の反対などもあり鳩山自身が参加できない。その後に首相になったのが石橋湛山(※5)。かれは、非常に「リベラルな保守」を目指したのだと思うのですが、病気の問題で、首相としては短命に終わる。その後、出てきたのが岸信介です。
この岸という人は、彼は戦後に社会党に入ろうとしたりもしていますが、大学時代に一番影響を受けたのは北一輝(※6)なんですね。その著書である『日本改造法案大綱』に惹かれ、革新官僚(※7)として満州に行って、理想的な世界を設計的につくろうとした。そんな人が、55年体制の中で自民党の総裁になり、首相になるわけですが、彼が抱いたような発想をそもそも持たないのが保守だと僕は思うんです。
また岸だけでなく、その周辺の人たちが保守だったのかというと疑わしいと僕は思うんですね。つまり、55年体制で保革の対立があったという前提に立って僕らは話をするけれども、それそのものが果たして本当にあったのかということが、僕にはよく分からないんです。
※5 石橋湛山(1884〜1973):政治家、ジャーナリスト。戦前から新聞『東洋経済新報』で社長・主幹として活躍し、戦後に政界入り。1947年にはGHQによる公職追放令で追放を受けた。1955年に自民党が設立されるとこれに入党し、翌年の総裁選に出馬して当選。第55代内閣総理大臣となるが、脳梗塞のためわずか2か月で退陣した。
※6 北一輝(1883〜1937):昭和初期の思想家。中国で革命運動に参加したのち帰国し、国家主義を掲げる運動体「猶存社」の設立に参加。1936年の2・26事件で実行犯の将校らを扇動したとして逮捕され、翌年に死刑となった。「天皇の大権によって憲法を停止し、戒厳令を敷いて臨時政府をつくる」として、華族制の廃止や私有財産の制限などを訴えた『日本改造法案大綱』(1923年)は、事件に参加した将校たちに大きな影響を与えていたとされる。
※7 革新官僚:戦前・戦中の日本において、物資動員などの計画立案を担った機関「企画院」を拠点に、戦時統制経済の実現を狙って活動した経済官僚のグループを指す。「企業は利潤を追求するのでなく、国家のために生産性をあげるべき」などと主張し、のちの国家総動員法制定にもかかわった。
中島さんは、保守派の政治家として石橋湛山については、高く評価されていますね。「今こそ、石橋湛山のような政治家の登場を望む」と、コメントされてました。
はい。彼は、たとえば日中戦争のときには、「この戦争は拡大しちゃいかん」と言っています。最終的には、「植民地は放棄すべきだ。あんな広大な土地を、日本が支配して本当に支配できるのか、財政的な裏づけがあるのかよく考えろ」と主張して、民衆の熱狂を冷まそうとしている。さらに、「帝国主義の時代はもう終わろうとしていて、アジア諸国はいずれ間違いなく独立する。今帝国主義のまねごとをやったって最終的には恨まれるだけなんだから、今植民地を捨てたほうが賢い」とも。彼は、自分を愛国者だと思っているがゆえにこうした提言をした。彼なりの保守ナショナリストとしての選択だったんです。
そして戦後は一転、アメリカに迎合する日本政府に対して非常に厳しかった。アメリカの言うことになびいてはいけない、独自の外交、独自の財政の考え方を持ってやっていくべきだと主張しています。そのために公職追放に遭ったりしたわけですが、まっとうな発想ですよね。つまり、彼は革命も、強力なファシズムも、どちらも間違っていると思っていたわけです。
保守派はアジア太平洋戦争に対して肯定的である、といったイメージもあるように思いますが、決してそうではなかった、と。
戦前、戦中を生きた保守派には、「自分たちは20世紀最大の設計主義と闘った」という自負があったと思います。そしてそれは、一つは共産主義だったけれど、もう一つはファシズムだった。彼らは大東亜戦争に対して、非常に厳しい態度を取っています。
たとえば、福田恆存(※8)は戦争中、「こんなバカなことはやってられん」と、公職を全部放棄して自分の家の庭に防空壕を掘っていたし、田中美知太郎(※9)は著書の『時代と私』を読んでも分かるように、軍国主義をひどく嫌って「なんでこんなに大きすぎるファシズムが生まれてしまったのか」と嘆いていました。
一方で、大政翼賛会に勇んで入っていったのは無産政党(※10)であり、それを支えたのは設計主義(※11)の革新官僚でした。もちろん共産党は反対しましたけどね。僕は、どちらかというと左派的な思考が、大東亜共栄圏のような理想主義を導いたんじゃないかと思うし、当時の保守主義者にはそれに徹頭徹尾迎合しなかったという自負心があったと思います。
※8 福田恆存(1912〜1994):劇作家、評論家。シェークスピアの戯作翻訳などでも知られる。
※9 田中美知太郎(1902〜1985):哲学者。ソクラテス、プラトンなどギリシャ哲学研究の第一人者。
※10 無産政党:戦前の日本で、合法的に結成された社会主義政党を指して使われた言葉。労働者や農民など、無産階級の利害を代表する政党、との意味合いがある。
※11 設計主義:もともとはオーストリアの経済学者で哲学者のハイエク(1899〜1992)が用いた言葉。ハイエクは、福祉国家や社会主義国家を「政府が社会を合理的に“設計”しようとしている」として批判した。
そうなってくると、今一般に言われる「保守」とか「右派」「左派」のイメージとは、むしろ逆のようにも思えます。
だから、これまでの勝手な「右」「左」の括り、戦争に反対したから左とか、右だから大東亜戦争肯定とか、そういう枠組みを離れて思想というものを見てみたほうがいいんじゃないか、と思います。そうしたときに、より石橋湛山という人がクリアに見えてくる。なぜ彼は戦争に批判的でありながら、戦後、保守政党の中心人物になっていったのかということです。
僕自身も、保守であるがゆえに大東亜戦争をそう簡単には肯定できません。一方で、全面的な否定はしないし、アメリカが「リベラル勢力の勝利だ」と言ったのもバカげている、東京裁判は茶番劇だとも思います。でも、基本的にはやっぱりおかしな戦争だと思う、それが保守というもののまともな立場であって、保守だから大東亜戦争肯定論になるとは到底思えないんです。
その意味で、僕は保守も革新も、その真意をちゃんと示さないまま対立構造だけができてしまったために、両陣営が単なる「アンチの論理」だけで動くようになってしまったというのが、戦後日本の政党であり言論界だったんじゃないかと思うんです。
「アンチ◯◯」は、わかりやすいですからね。
つまり、基本的に左翼は「自分たちはマジョリティではない」という感覚を持ってきました。それは政権政党がずっと自民党だからだし、農村に行けばまだまだがんじがらめの村落社会がある。俺たちマイノリティは頑張ってこんな社会を倒さなくちゃいけない、と考えてきたわけです。だから保守勢力を批判するというのがそのアイデンティティだったんですね。
一方で、保守もまた自分たちをマジョリティだとは思ってこなかった。言論界や教育界はすべて左翼に牛耳られていて、自分たちは脇に追いやられているという感覚を持っていて、だから左翼に対する「アンチ」を示すことが、保守なり右なりの証明だと思ってきたわけです。
だから、安保闘争を革新勢力がやるとなれば、「アメリカにくっつけ」と主張するのが保守である、ように見えた。また「9条を守れ」と左が言えば、「改憲」と言うのが保守だとか、わけのわからないことになっているわけです。アンチの論理でやっているうちに、根本的な自分たちの依って立つ理念とか、政治思想の筋とは何なのかというのが見えなくなっちゃってるんですよね。だから「右だ」「左だ」というのが罵倒用語になっているわけで。
そもそもの「革新」とは、「保守」とは、という思想や理念はどこかへ行ってしまって、「相手に反対する」ことだけが重要になってしまっている、と…。
本当に、わけが分からないですよ。安倍元首相は、保守だと言われてましたが、「レジームチェンジ」と言っていましたよね。そんな言葉を、まともな保守なら絶対に使わない。フランス革命に対して、近代保守主義の祖であるエドマンド・バーク(※12)は「レジームチェンジだなんて、そんな急進的なことはろくな結果をもたらさない」と言った、それが保守の原点なんですから。
安倍さんの『美しい国へ』という本がありましたけど、あれに書かれているのは、「いかに自分が中学・高校時代に左翼教師に不満を持ったか」といういらつきだけ。まさに「アンチ左翼」でしかないんです。そういうのが結局は、戦後ずっとこれまで日本で続いてきた構造だったんじゃないのかな、と思います。
※12 エドマンド・バーク(1729〜1797):アイルランド生まれの政治家、哲学者。著書の『フランス革命の省察』(1790)は、「保守主義の聖典」と称される。
実は最近、新自由主義が出てきてくれたおかげで(笑)よく分かったと思うんですが、保守主義と社民主義というのは、ある意味ではそんなに大きくは違わないとも言えるんですよ。
えっ? どういうことですか。
今の経済状況の中では、保守主義も社民主義も、小泉時代に始まった構造改革に対してもう少し「大きな政府」にしようとしているわけですよね。富の再分配をきっちりしなくてはいけない、と。こういう言い方をすると同じです。
ただ、保守というのは小さすぎる政府を批判するかわりに、行き過ぎた大きな政府も批判して「中くらいの政府」を考える。それに対して社民主義はより「大きな政府」を求めるわけです。
たしかに、そういう見方をするとかなり違いが微妙になってきますね。
そして、社民主義が主張する「大きな政府」においては、スウェーデンがそうであるように税金が高くならざるを得ません。この仕組みが成り立つ前提は何かというと、実はナショナリズムなんですよね。
先ほど「戦後革新はナショナリズムを主張した」というお話がありましたが、やはり今の「社民主義」という言葉と「ナショナリズム」は、なかなか結びつかないのですが…
だって、金持ちが再分配のためになぜ自分の資産を出すかといえば、ある同じ共同体に住んでいる人たちに一応は同胞愛や愛着、信頼感を持ち、そこに安定的な秩序をもたらさなくてはならない、と考えるからです。事実、スウェーデンは非常にナショナリズムの強い国ですよ。つまり、社民主義が健全な形で機能するためには、やはり戦後革新が考えてきたようなナショナリズムが重要な側面になるんだと思うんです。
もちろん、ナショナリズムが行き過ぎれば、外に対する排他性や内に対する同一化といった問題は起こりますが、物事に100%正しいというものはありません。ナショナリズムにも正と負の側面があって、負の面があるから全面的に否定するというのでは、それによって別のもの——ここでは再分配の機能を崩してしまう可能性があります。必要なのは、ナショナリズムを全否定することではなく、それをどう賢く飼い慣らすのかという知恵なのではないかと思うんです。
次回、お話は憲法9条について。
「保守派」として、中島さんは9条をどう見るのか?
さらに、中島さんが注目する歴史上の人物の1人だという、
マハトマ・ガンディーの思想についてもお話を伺っていきます。
お楽しみに。
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