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アフガニスタンでの武装解除を指揮した伊勢崎賢治さんは、現在、東京外国語大学で平和構築・紛争予防講座長を務めています。そのクラスには、世界各国から学生たちが集まっています。学生といっても、紛争地から国費留学でやってきた、国を再建する命を受けている官僚の卵や、国連の元上級幹部など、出身地もバックグラウンドも実に多様。
「マガ9」では、伊勢崎さんをナビゲータとして、学生たちの出身国、出身地の現状について紹介。伊勢崎さんとのやりとりを通して、国際平和を作るために何が求められているのか? 生の声を聞きつつ、日本の現実的で有益な国際協力について考えていきましょう。
伊勢崎賢治 いせざき・けんじ●1957年東京生まれ。大学卒業後、インド留学中にスラム住民の居住権獲得運動に携わる。国際NGOスタッフとしてアフリカ各地で活動後、東ティモール、シェラレオネ、 アフガニスタンで紛争処理を指揮。現在、東京外国語大学教授。紛争予防・平和構築講座を担当。著書に『武装解除 紛争屋が見た世界』(講談社現代新書)『自衛隊の国際貢献は憲法九条で』(かもがわ出版)などがある。
Maja Vodopivec マヤ・ヴォドピヴェッツ● 1974年サラエボ生まれ。ベオグラードの大学で経済学、日本語、日本文学を専攻。2000年よりサラエボの日本大使館に現地スタッフとして勤務。2005年に来日し、東京外国語大学日本語教育学部に入学。
2年間研究生として学んだ後、2008年よりPCS(平和構築講座)に在学中。
──かつて、多種多様な民族や宗教が共生する「理想国家」とも謳われながら、東西冷戦後に各共和国が独立を宣言、いくつもの紛争の末に急速な崩壊の道をたどった旧ユーゴスラビア連邦。今春、伊勢崎さんが担当する「紛争予防・平和構築講座」の博士課程に進学したマヤ・ヴォドピヴェッツさんは、その旧ユーゴの中でも特に激しい争いが繰り広げられた場所の一つ、ボスニアの出身である。
旧ユーゴ連邦に属する共和国の一つだったボスニア・ヘルツェゴビナには、クロアチア、セルビア、ボシュニャク(モスレム)の三つの民族が共存して暮らしていた。しかし1992年、連邦からの独立をめぐって激しい紛争が勃発。かつて社会主義国初のオリンピック開催地となり、その美しい姿を世界中に印象づけていた中心都市サラエボは、戦火にさらされて破壊され尽くした。1995年にようやく停戦が成ったものの、その被害は死者20万人、避難民200万人。第二次世界大戦後の欧州では最悪ともいわれる紛争となった。
伊勢崎 まず、あなたが実際に体験したボスニアでの紛争のことについて、話を聞いていきたいと思います。紛争が勃発した1992年は、まだ高校生だったんですね。
マヤ
そうです。戦いが始まったのが4月で、私は6月には高校を卒業する予定になっていました。結局は、その日を迎えることはできなかったわけなのですが…。
今でも私は、ユーゴスラビアで戦争が起こったということを、どうしても信じられないでいます。
伊勢崎 では、戦争前のボスニア、そして旧ユーゴスラビアのことについて、その歴史も含めて少し聞かせてください。
マヤ
ユーゴスラビアは、とても美しい国でした。古来、いくつもの多くの帝国が生まれては消えていった場所だけに、いろんな文化や民族が混じり合って、だからこそ美しかった。そしてまた、だからこそ破壊されることになったのだと思います。
ユーゴは同時に、非常に成功した社会主義国家でもありました。もちろん、東西両陣営から同盟のメンバーになれといった働きかけはありましたが、それを拒否して、非同盟運動を主導したのです。特に、1948年にチトー大統領がソ連のスターリン書記長に突きつけた「歴史的なノー」(※)のときには、ユーゴはソ連に占領されてしまうに違いないと誰もが思ったはずですが、そうはならなかった。チトーは、非常に優れた戦略家だったのだと思います。
共産党の一党体制ではありましたが、西側諸国に対しても非常に開かれていて、ファッションや音楽についてもとても自由でした。あのころ、周辺の社会主義国家から見れば、ユーゴはまるで「西側」に見えたのではないかと思うほどです。
一方で、アフリカなど自由を求めて闘う国々に対しては、全面的なサポートをしていました。世界各地から留学生が来ていて、特に北アフリカからの留学生が多かったですね。それから、パレスチナ人もたくさんいて、みんなセルボ・クロアチア語(※)を流ちょうに話していた。そうしたことは、ユーゴの人たちにとって大きな誇りだったのです。
※「歴史的なノー」…第二次世界大戦後、スターリン率いるソ連が東欧の共産主義諸国を配下に置こうとする中、チトーは「大バルカン連邦構想」などを掲げてスターリンと激しく対立。1948年、スターリンはユーゴをコミンフォルムから追放し断絶した。
※セルボ・クロアチア語…旧ユーゴスラビアにおける公用語。旧ユーゴ分裂後は「セルビア語」「クロアチア語」「ボスニア語」という別言語として扱われているが、それぞれの間にそれほど大きな差異はない。
——しかし東西冷戦の終結は、そのユーゴをも大きく揺さぶった。1990年、それまで共産党一党制がとられていたユーゴの各共和国で、初の複数政党制自由選挙が実施される。この結果、各共和国で民族主義傾向の強い政権が誕生。このことが、ユーゴを崩壊に向かわせる直接的なきっかけになった。
マヤ
1989年のベルリンの壁崩壊については、「喜ばしいこと」として祝福した記憶があります。でも、実際にはそのとき、ユーゴがかろうじて保ってきたパワーバランスは、もはや崩れようとしていたのです。カリスマ的な力のあったチトーが1980年に亡くなって、さらに東西の力のバランスが崩れる中、自分たちが何も変わらずにそのままいることはできないということに、私たちは気づかないでいたのだと思います。
それでも、民族主義政党が選挙に勝つとは信じられなかったし、戦争が起こるなんて夢にも思っていなかった。それまでの50年間は、経済も発展して、とても平和な時代だったのです。
伊勢崎 そこに、戦争の予兆のようなものは? 当時のボスニアでは、セルビア人とクロアチア人、ボシュニャク人が隣人として暮らしていたわけだけれど、そこの間にもともとの対立を感じることはなかったんでしょうか。
マヤ
ありませんでした。民族が違うとはいっても、言語も人種もほとんど同じだし、互いにとても混じり合っていましたから。私自身、父親はクロアチア人で母親はセルビア人、でも父親の先祖がスロベニアから来たので、名字はスロベニア系。「自分がどの民族か」なんて考えたこともありませんでした。ただ「自分はボスニア出身のユーゴスラビア人」だと思っていたし、今でもそう思っています。
戦争が始まる前に、ある俳優グループがこんなパロディ劇をつくっていたことがあります。ある一つのアパートの中で、住民たちの間に「境界線」が設けられて、人々はそれを挟んで互いに争いあう、というものでした。それを見たときは、のちにサラエボのあちこちでそれと同じような光景が起こるなんて思いもしなかったのです。
ユーゴという国は、多民族がただ人工的に結びつけられたのではなくて、自然と混じり合って暮らしていたし、みんなそのまま一緒に暮らしていたいと思っていた。私は今でもそう信じています。だから、あそこで戦争が起こったということが、どうしても信じられないのです。
伊勢崎 でも、選挙をきっかけに、状況は大きく変わっていったわけですね。
マヤ
人々の間にトラブルが生まれ、対立が深まってやがて争いになる、それがどれほど簡単に起こったかというのは、驚くべきことでした。
私はもちろん、ボスニアの、そしてユーゴの人々の戦争に対する責任を軽視するつもりはありません。中にいた人間が、みんなイノセントだったというつもりもない。でも一方で、争いは外部から力を加えられることによって起こったものだったと、そうも思うのです。
伊勢崎 その「外部の力」の話をする前に、紛争が広がっていった流れを簡単に追っていきましょう。旧ユーゴに属していた6つの共和国のうち、最初に独立したのはスロベニアですね。
マヤ
そうです。スロベニアの独立については、それほど大きな問題はなく、独立戦争も10日間ほどで終わりました。
しかし、それと同時に独立を宣言したクロアチアはそうはいきませんでした。クロアチアは、領内に住むセルビア人との間に大きな問題を抱えていたのです。
——ともに旧ユーゴスラビア連邦に属していたスロベニア共和国とクロアチア共和国が独立を宣言したのは、同じ1991年の6月25日。しかし、国民の90%がスロベニア人であるスロベニアがユーゴ連邦軍との「10日間戦争」で独立を果たしたのに対し、クロアチアの独立をめぐる戦争は実に4年以上、1995年まで続いた。セルビア系住民が多数を占める地域が自治区を形成して独立に反対し、セルビア共和国への併合を主張。セルビア側もこれを支援したことが、その大きな理由である。
伊勢崎 そして、ボスニア・ヘルツェゴビナでも同じ年の10月、ボシュニャク人勢力が中心となって独立宣言をする。
マヤ
しかし、ボスニアに住むセルビア人は、ユーゴ連邦からの独立を望んでいませんでした。そうなれば、ボスニアはボシュニャク人の国になってしまうと考えたからです。それで独立に反対するセルビア人と、独立を望むボシュニャク人、クロアチア人が対立した??といわれています。
でも、実際の状況はもっと複雑でした。ある地域ではボシュニャク人とクロアチア人が一緒になってセルビア人と対立しているけれど、別の地域ではクロアチア人とセルビア人が組んでボシュニャク人と対立していたり、三つどもえの戦いになっていたり。場所によって、その構図はさまざまでした。その意味でも、ボスニアというのはまさにユーゴスラビアの縮図、小ユーゴスラビアともいうべき存在だったのです。
さらに、そこに介入してきたのがユーゴスラビア連邦軍です。この国軍は、かつては「私たちの誇り」として、国民に非常に愛され、親しまれていた存在でした。しかし、戦争が始まった後、ユーゴ連邦軍はそのままセルビア軍になってしまったのです。
伊勢崎 それはなぜ?
マヤ
もともとセルビア人はユーゴ人口の半分を占めていましたし、軍隊に入る人が歴史的に多かったのです。それに、連邦軍の本部はセルビアのベオグラードにありました。もちろん当初はクロアチア人やボシュニャク人の将校もいたのですが、戦いが勃発して以後、彼らは連邦軍を去り、クロアチア軍、ボシュニャク軍といった新しい軍隊をつくってその将校になりました。
私は個人的にはユーゴは一つであるべきだと思っていましたから、独立派を支持していたわけではありません。でも、連邦軍がやったこと──実質的にセルビア軍としてボスニアの紛争に介入したこと──は間違っていたと思っています。
お待たせしました、平和構築ゼミの第3回が開講です。
「ボスニアで紛争が起こるなんて、考えもしなかった」、
そう何度も繰り返したマヤさん。
多大な犠牲を出した争いを生んだものは何だったのか。
引き続きその体験と思いを聞いていきます。
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