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畠山理仁●はたけやま みちよし/1973年愛知県生まれ。早稲田大学在学中の1993年より週刊誌を中心に取材活動開始。1998年、フリーランスライターとして独立。興味テーマは政治家と選挙。米国大統領選、ロシア大統領選、台湾総統選など世界の選挙も取材。大手メディアが取り上げない独立系候補の活動を紹介した『日本インディーズ候補列伝』(大川豊著・扶桑社刊)では取材・構成を担当した。 昨年9月18日、記者クラブ加盟社以外にも開放された外務大臣記者会見で、フリーの記者として日本で初めて質問。今年1月22日には、東京地検からの事情聴取直後に開かれた小沢一郎・民主党幹事長の記者会見を、iPhoneを使ってゲリラ的にインターネットで生中継し注目される。twitterでは、 @hatakezo で日々発信中。
「記者会見」とは“公の場”である。それが世界の常識だ。
ところが日本における「記者会見」は、ちょっと様子が違う。日本には世界に類を見ない「記者クラブ制度」があるため、記者会見の場に「立ち会える人間」と「立ち会えない人間」の二種類が生まれているからだ。
たとえば首相官邸での総理大臣記者会見。この会見には記者クラブに所属する記者以外は参加することができない。でも、記者クラブがこの事実を報じることはない。そのため知っている人はほとんどいない。
また、昨年の政権交代を機に、外務省、金融庁、法務省、総務省など、一部の省庁では記者会見のオープン化が進んだ。しかし、このニュースも記者クラブの構成メンバーである新聞・テレビなどの大メディアがほとんど報じないため、あまり知られてはいない。
政権交代前、民主党の鳩山由紀夫代表は「民主党が政権を取ったら政府の会見はすべてオープンにする」と“約束”していた。そのため私は政権発足直後から、首相官邸をはじめとする全省庁に「記者会見のオープン化」についての問い合わせを続けてきた。オープン化は「国民の知る権利」に資すると思っていたからだ。
外務省は、岡田大臣が就任後の会見でオープン化を明言したため「参加できる」との回答を寄せた。金融庁は、亀井大臣がオープン化に抵抗する記者クラブに対し「(記者クラブは)頭が古いので自分でやることにしました」と発言。記者会見室で開かれる従来の記者クラブ向けの会見とは別に、大臣室でフリーや雑誌の記者に向けた「もう一つの記者会見」を開きはじめた。
しかし、オープン化を約束をした張本人・鳩山総理のいる首相官邸の返事は「No」。私は首相官邸の門前に行き、「政権交代前の約束通り、記者会見に入れて下さい」と頼んでみたりもしたが、驚くほどあっさり断られている。鳩山総理はいまだに約束を破ったままなのだ。
自分で自分のことを書くのは恥ずかしいが、ここで私の「記者」としての経歴を振り返ってみたい。
私は大学二年、二十歳の時に記者の道を志した。記者業に没頭するうちにいつの間にか大学生ではなくなり(除籍)、さまざまな雑誌に原稿を書くことで生計を立ててきた。
雑誌記者だけにテーマはさまざま。子育て、教育、社会問題や殺人事件、Hなテーマや芸能、スポーツ、科学技術、戒名やお墓…。文字通り“ゆりかごから墓場まで”幅広いテーマで取材をしてきた。
この道17年。その間、海外での取材も経験した。アメリカ、ロシア、台湾、ドイツ、そして独裁国家と言われたフセイン政権下のイラクでも「記者」として取材を重ねてきた。それなのに日本ではいまだに参加できない「記者会見」がある。だから私は日本ではいまだに「自称・記者」のままだ。
私が海外取材を通じて感じたのは、海外で行われる記者会見は例外なくオープン化されているということだ。日本のように「記者クラブ加盟社以外は取材できない」という奇妙な国はない。なぜなら世界のジャーナリズムには「フリープレスの原則」(報道に携わる者は誰もが自由に取材できる)という常識があるからだ。
私がそのことを強く実感したのは2000年。当時、“女性初の大統領候補”と噂され、ニューヨーク州上院議員選挙に立候補していたヒラリー・クリントン(現国務長官)の選挙を取材した時のことだった。
他の記者たちから「お前が同じ“記者”と名乗るのは恥ずかしい」と責められるかもしれないが、興味深いエピソードなので紹介したい。
「日本から来ました。私は記者です」
私がヒラリー・クリントンの選挙集会会場の報道受付で名刺を差し出すと、受付の男性が私を金属探知器の前へと案内した。会場内の安全を確保するため、参加者は一人ひとり金属探知器を通ってカバンの中身をチェックされるのだ。
その時、私のカバンの中には“危険物”が入っていた。手榴弾などの爆発物ではない。その日の昼間、お土産用にと買っておいたシリコン製のマスクとTシャツである。
マスクのモデルは、当時、セックス・スキャンダルで評判を落としていたビル・クリントン大統領。言うまでもなくヒラリーの夫だ。そしてTシャツには葉巻をくわえたクリントン(葉巻が意図する皮肉、わかりますよね?)が、スキャンダルの相手であるモニカ・ルインスキと2ショットで微笑むコラージュ写真がプリントされていた。
「ホテルに置いてくればよかったかな…」
私が少し後悔しながらカバンをあけると、警備にあたるシークレット・サービスの男性がマスクとTシャツを見つけ、眼光鋭くこう言った。
「ヘイ、You、これは何だ?」
私:ビル・クリントン大統領のマスクです。
「こんなもの、どうするつもりだ?」
私:日本へのお土産です。持ってきたらマズかった?
「爆弾や刃物などの危険物ではないから、持って入るのは自由だ」
私:そうですか。でも、もし私が会場でこのマスクを被ったら、ヒラリーがこっちを向いたカメラ目線の写真がバッチリ撮れるよね(笑)。
「ちょっと待て。会場内ではマスクを被ってくれるなよ」
私:どうして? まあ、被らないとは思うけど。
「ビル・クリントンは大統領だ。もしお前がこれを被ったら、オレ達シークレット・サービスはヒラリーよりも大統領、つまりお前を守らなくちゃいけなくなる。それだけは勘弁してくれ(笑)」
さすがはエンターテイメントの国、アメリカだった。シークレット・サービスまでもが真顔でジョークを飛ばすとは思いもしなかった。
しかも驚いたことに、彼らはこんなふざけたお土産品を会場に持ち込む私を「記者」として認めている。そして私に会場内での自由な取材活動をしっかりと約束したのだった。なぜだか隣にはずっとシークレット・サービスが張り付いていたけれど。
昨年12月24日、鳩山由紀夫首相は都内のホテルで自らの「故人献金問題」について釈明する記者会見を開いた。故人献金の原資がゼネコンからのものではなく、マザコン的(母親から毎月1500万円もの“子ども手当”(寄附)を受けていた)なものだと説明する記者会見は、「オープン化」という観点から見ると画期的なものだった。
なぜならこの会見が従来のような「記者クラブ主催」ではなく、「衆議院議員・鳩山由紀夫」個人の主催で開かれたからだ。そのためフリーランスやネットメディアの記者が「記者クラブから排除」されることなく、現職の総理に質問できる異例の会見となった。
その会見の席上、記者クラブに所属していない記者から、鳩山総理に対してこんな質問がぶつけられた。
「鳩山総理はかつて『民主党が政権についたら記者会見をフリーやネットメディアにも開放する』と言っていながら、全く実現していない。この先、総理がいくら綺麗な言葉を並べても、世の中は『あっ、また鳩山さんが嘘をついてる』としか思わない。総理ご自身の言葉の軽さについてお答えください」(日本インターネット新聞・田中龍作記者)
それに対して鳩山総理はこう明言した。
「記者会見の開放に関しては、来年(2010年)からもっと開放されるように、やるようにと申し伝えているところでございます。どうせ信じていただけないかもしれませんが、私の決意は変わっておりません」
正直言って、私はある時期、「記者会見のオープン化はこれ以上無理だろう」と諦めかけていた。だが、総理がそこまで言うんなら、こっちも乗りかかった船だ。総理の言葉を全面的に信じるわけではないが、この結末を見届けよう。そう思った私は、首相官邸での会見がオープン化されるまで、一部オープン化が実現している霞が関、永田町界隈の記者会見に出続けることを決めた。
この連載は、私のTwitter上でのつぶやきと連動しながら進めていきます。最終的には、政治家、メディア、そして政治の現場の“生の空気”をみなさんにお伝えできればと思っているので、どうかお付き合いを。
追記:ちなみに2004年当時のイラクでは、「記者という職業はスパイとほぼ同義だった」とイラク秘密警察に拘束された大先輩のジャーナリスト氏から聞いた。私はそこで「記者」と認められちゃったのね…。
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この連載は、フリーライターの畠山さんが
首相官邸主催の記者会見に「記者」として参加できるまで続く予定です。
ということで、サブタイトルは「首相官邸への道」。
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