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今年初めての原稿です(って、もう2月ですね)。この連載もようやく9回目ですが、ブログ等で紹介してくださっている方もけっこういて、本当にありがたいかぎりです。ゆっくりペースは変わらないでしょうが、いましばらく「ガンダム」を通して「戦争」について考えて行きたいと思います。
今回は「ガンダムにおける戦争と子ども」の第2弾として、戦時下での「犠牲者としての子ども」について考えてみます。
以前も書きましたが、ガンダムには、戦争によって親を亡くしたり、家族と離れ離れになったりした子どもがたくさん登場し、一般市民が犠牲になる生々しい場面が第1話から描かれます。主人公アムロ・レイ(15歳)の幼馴染みの少女フラウ・ボゥ(15歳)の母と祖父は、戦闘に巻き込まれて彼女の目の前で亡くなります。第2話では、そのフラウ・ボゥが逃げ遅れた人たちを探すために街中を車でパトロールするシーンがあるのですが、自分の家の前を通り過ぎるとき「夕食には帰るのよ」という生前の母親の声が頭の中で蘇り、彼女は思わず涙ぐみます。ほんの数秒のわずかなシーンですが、自分の意思とは関係なく突然始まった戦争によって親を奪われた少女の悲しみが伝わってきます。
フラウ・ボゥはアムロと共に軍艦ホワイト・ベース(WB)で従軍することになるのですが、親を亡くした彼女の悲しみはその後も描かれていきます。例えば、第8話のこんなシーン。
地球に降り立った軍艦WBのサブブリッジに3歳前後と思われる男の子とその母親がいます。泣いている子どもに向かって、父親の話をして励ます母親の姿を見て「母親って、みんなあんなもんかな」とつぶやくアムロ。その横で、フラウ・ボゥは「アムロはお母さんにずっと会ってないのよね。でも…」と片づけの作業を続けます。
「でも」のあとの言葉は途切れてしまいますが、「遠くに離れていてもアムロのお母さんは生きている、それに比べて自分の母親は…」という、親を亡くした心の傷が癒えない少女の複雑な気持ちが読み取れます。
連載第7回で、ジオン軍のスパイの少女ミハルとその妹弟について触れましたが、彼女たちにも親はいません。妹たちを食べさせるためにジオン軍のスパイになり、地球連邦軍側の情報を探るミハルは、ある日軍艦WBに潜入することを命じられたため、幼い妹と弟に「しばらくの別れ」を次のように告げます(第27話)。
ミハル「姉ちゃん、仕事に行ってくる。今度はちょっと長くなるかもしれないけど、お金は少しずつ使うんだよ。置き場所は誰にも教えちゃいけないよ。(2人を抱き寄せて顔をつけ)この仕事が終わったら、戦争のないところに行こうな3人で。辛抱するんだよ。2人は強いんだからね」
弟「うん、大丈夫」
妹「姉ちゃん、姉ちゃん、母ちゃんの匂いがする」
ミハル「(涙を浮かべ)思い出させちゃったかね(と抱き寄せる)」
その3人の遠く向こう側では、砲弾の音や光がやまない。
このシーンは、ガンダムの数ある名場面の中でも特筆すべき場面だと私は思っていますが、単に感傷的に言っているのではありません。生活のためにスパイとして働かざるをえない少女とその妹弟たちのこの姿こそ、最も弱い存在を踏みにじる戦争の本質を表しているように思えるのです。
今回の原稿を書くにあたって私は、戦争によって親を亡くした方たちの手記等を読みましたが、このミハルたちきょうだいと、ある方のエピソードが重なりました。以下、紹介します。
昭和14年、牛乳販売店を営む家庭で6人きょうだいの3女として生まれたYさんは、5歳のときに父親が戦死し、12歳のときに戦後の苦境のなかで母親が病死します。きょうだいがバラバラに親戚に引き取られて暮らすのは嫌だと、子どもたちだけでの生活を始めますが、その様は極貧そのもの。電気は止められ、水は隣の家からもらい、ロクな屋根もないため雨の日は容赦のない雨漏り。長男は会社に勤め、病弱な長女は家の中の世話をし、次姉と2人の弟は新聞配達、Yさんも牛乳配達をして、みんなでやっと食べていくだけの生活を送っていました。
中学生のYさんは、まさに着の身着のままで、毎日同じ擦り切れたスカートに穴のあいた靴を履いて登校。学校では「おかずなしの弁当だ」とバカにされ、弁当を持って行けない日は給食の時間になると家に帰って水を飲んで空腹を我慢しました。
中学卒業を控え、就職活動をするYさんですが、両親がいないことを理由に様々な会社に断わられます。その時の思いをYさんはこう言います。
「戦争で父が死に、その心労がもとで母親が死んだのです。私だって好きで両親がいないのではない。『親なし子』『貧乏人の子』『浮浪児』とののしり、何かなくなれば泥棒扱いにする大人たち。今また、ここで門が閉ざされようとしているのです。どこにこの怒りをぶつけたらいいのでしょうか」
中学校の先生が会社に対して「一切の責任を持つ」と約束することでYさんは就職できました。初月給の日にYさんが買ったのは10個の大福。それを一人で食べたときに、生まれて初めての満腹感を味わったと言います。Yさんはその後結婚し、4人の子どもの親となりました(注1)。
(注1)『孤児たちの長い時間(とき)』(第三文明社)の中の体験談を引用・要約。
『孤児たちの長い時間(とき)』 創価学会婦人平和委員会編(第三文明社) 戦争孤児となった方たちの証言と共に、戦中・戦後の「戦争孤児」に関する新聞報道のあり方なども検証。※アマゾン等で購入可能。 ←アマゾンにリンクしてます。 |
ガンダムに登場するミハルたちも、両親がいなくても周囲の大人に頼ることなく、子どもだけで何とか生き抜いてきました。連載第7回でも書きましたが、ミハルの妹と弟が硬くてまずそうなパンと水だけの食事をするシーンからも、このきょうだいたちの困窮ぶりがうかがえます。
戦争で、親など直接の保護者を失った子どもを「戦争孤児」と呼びます。ガンダムにおけるフラウ・ボゥなどはまさにそうですが、先の大戦によって日本でも多くの子どもが戦争孤児となりました。1948年(昭和23年)に発表された「全国孤児一斉調査結果」(厚生省児童局企画課)によれば、その数は12万3511人にものぼり、以下のような内訳になります(注2)。
戦災孤児 2万8248人
引揚孤児 1万1351人
一般孤児 8万1266人
棄迷児 2647人
(注2)空襲等で親や保護者を失った「戦災孤児」、満州や朝鮮などの「外地」で親と死別または生き別れになって帰国した「引揚孤児」、戦後の混乱で孤児となった「一般孤児」、そして捨て子や迷子を「棄迷児」と分類。ただし、同一人物でも時期によって他の呼称に変わるなど「戦争孤児」の呼称をはっきりと定義することは難しいようです。
この調査によれば、広島(2541人)、東京(2010人)、兵庫(1453人)、大阪(1140人)、愛知(1019人)など、原爆が投下された広島を筆頭に、大規模な空襲を受けた大都市でより多くの子どもが孤児となっていることが分かります。
また、年齢別では8~14歳が全体の半数近くになりますが、これは昭和19年から始まった学童疎開が大きく関係しているようです。つまり、子どもたちは都会を離れて安全な地方で生活していたものの、都会に残された親が空襲等で亡くなり、孤児になったというわけです(注3)。
(注3)孤児の名称やデータ等については、『焼け跡の子どもたち』(「戦争孤児を記録する会」編)や新聞記事などを参考にしました。
『焼け跡の子どもたち』 戦争孤児を記録する会編(クリエイティブ21) 戦争孤児14人の証言を収録するほか、先の大戦でどのようにして戦争孤児が生み出され、戦中・戦後にどのような国の対策がなされたのかなどを資料やデータなどと共に詳しく解説。※アマゾン等で購入可能。 ←アマゾンにリンクしてます。 |
「戦争孤児」の悲惨な体験は、親を亡くした後の生活にあるわけですが、前記の調査によると、孤児たちの「その後」は次のようなものになります。
親戚で養育 10万7108人
施設に収容 1万2202人
保護者なく独立 4201人
この数字を見ると、少しでも縁のある「親戚に預けられた孤児」が10万人以上もいることにホッとするかもしれません。しかし、前掲書『孤児たちの長い時間』や『焼け跡の子どもたち』ほか戦争孤児に関する書籍や新聞記事などでも指摘されているように、親戚をたらい回しにされ、預けられた家では満足な食事も与えられないなか「単なる労働力」としての扱いしか受けず、義務教育さえ受けられなかった子どもが数多くいたのです。
さて、ガンダムにおいて「戦争孤児」を語るとき、ある3人の子どもを取り上げないわけにはいきません。サイド7から避難民として軍艦WBに乗り込んだ、カツ(男8歳)、レツ(男6歳)、キッカ(女4歳)です。この3人の無邪気な振る舞いは、時には微笑ましい存在として映りますが、いずれも戦争孤児です。
戦争孤児の面倒をみる地球連邦軍の施設「育児センター」に、この3人を預けるべきかどうかが大きなテーマとなる第30話の前半で、アムロとフラウ・ボゥの間でこんなやりとりがあります。
アムロ「(前略)それよりキッカたちは?」
フラウ・ボゥ「面白い遊び場がいっぱいあるからって、育児官の人に説得されて行ったわ。でも、あの子たち、ここ(育児センター)にいて幸せになれるかしら?」
アムロ「幸せ? どこでもおんなじだと思うけどな」
フラウ・ボゥ「本当にそう思うの?」
アムロ「置いて行くしかないだろう。仕方ないよ」
フラウ・ボゥ「でも…」
アムロ「小さい子が人の殺し合いを見るの、いけないよ」
フラウ・ボゥ「……そうかもね」
やはりここでも戦争孤児のフラウ・ボゥと、離れているとはいえ親が生きているアムロとの考え方に大きな差があるように思えます。戦争孤児であるフラウ・ボゥの孤独感が、同じ境遇にある3人の子どもたちに対する優しさとして表れているとでも言いましょうか。ガンダムでは、フラウ・ボゥと3人の子どもたちが一緒に行動する場面がたびたび描かれますが、「戦争孤児」という同じ境遇であることも関係があるのかもしれません。
この回の後半でも、3人の子どもの行く末をアムロたちが話し合う場面がありますが、私がガンダムを初めて見たとき「えっ、こんなことを言わせるの!」と驚いたセリフがあります。少し太った、いかにも気の優しそうな中年の女性育児官が、子どもたちを安心させるためにこう言うのです。
「ここにいれば安全であることは間違いない。それに、子どもたちは連邦軍の未来を背負う者として大切に育てられるんですよ」
「連邦軍の未来を背負う者」として大切に育てる、つまり将来の「連邦軍の戦力」になるように育てるということ。優しそうな中年女性が、親切心から当然のように言っているのが、かえって怖いですが、実際の戦争中でも「戦争孤児は将来の貴重な戦力」という考えが根強くあったようです。
昭和20年5月6日付の『朝日新聞』に「どうする戦災孤児」と題された記事が載っています。「当局は戦災孤児の処置についてもっと親身になってほしいものだ」という文で結ばれていて、孤児の将来を気遣う内容にも読めますが、その文章のすぐ前に「子供も立派な戦力である」と書かれています。「子供も立派な戦力なのだから、もっと当局は親身になれ」ということであり、ガンダムにおける女性育児官と全く同じ発想です。
同じ年の6月9日付『毎日新聞』にも、戦争孤児を戦力として考えていることが露骨に表れた記事が載っています。 「この孤児(戦争孤児)は普通の孤児とは異なり『親の仇』があるのだ。(中略)国家機関により育英補助をうける子供こそ『親の仇討』を目指す強力な次代を担う国民になることは間違いない」(新聞記事はいずれも『孤児たちの長い時間』より引用、カッコ内は筆者注)
戦争で親を殺されて敵に対する憎しみを持った子どもこそ、将来の強力な戦力となるという発想自体も異常ですが、こんな記事が平気で載ってしまうことにも戦争中の狂気を感じざるをえません。
先のガンダムのシーンでは、育児官に対してアムロが「連邦軍の未来って…。この子たちが生きている間にジオンも連邦軍もない世界だって未来だってくるかもしれないでしょ」と言うのが、せめてもの救いと言えます。
自らの意思や行動とは全く関係なく、突然始まった戦争によって孤児となった子どもたちは戦争の最大の被害者と言えますが、戦後、国からの金銭的な補償を受けられなかった人は数多くいます。
日本では、1953年に「軍人恩給」が復活したことで、元軍人には最大で年間800万円以上が支払われ、戦死者の遺族にも平均300万~400万円支給されましたが、戦争孤児を含む空襲被災者への国からの補償はありません(09年12月12日付『朝日新聞』ほかを参照)。日本と同じ敗戦国であるドイツが軍民の区別なく補償をしているのとは大違いです。
昨年12月14日、東京地裁である判決が下されました。昭和20年3月10日の東京大空襲の被災者や遺族ら131人(うち55人が戦争孤児)が、「被災者を援助せずに放置してきた」として、国に謝罪と損損害賠償を求めた裁判の判決です。
裁判長は「国民のほとんどが戦争被害を負っており、裁判所が救済の対象になる者とそうでない者を選別するのは困難だ」として請求を棄却。同様の理由で補償を求めた「名古屋空襲訴訟」でも、最高裁は「戦争損害は国民がひとしく受忍しなければならない」と補償の必要なしという判断を87年に下しています(09年12月15日付『読売新聞』ほかを参照)。
前記のYさんは同じ手記の中で戦争孤児に関する不条理をこう言います。
「なぜ、私たちだけが戦争のために、このような苦労をしなければいけないのか…。(中略)犠牲者は戦死した父のみならず、その妻に、そして残された子供たちにも及んだのです。幼い子供にとっては、親を奪われ、生活を奪われ、生存の権利すら脅かされ続けたのです。いったい、誰が、どのようにして、この責任を負うべきなのでしょうか」
これに対して、前記の判決と同じく「そういう人は、ほかにもたくさんいる」「戦時下で特別なことではない」という考え方はあるでしょう。しかし、だからこそ、戦争について論じるときには、最も弱い存在であり、最も被害を受ける子どもたちのことを常に考えなければならないのではないでしょうか。イラク戦争やアフガン紛争を論じるとき、ついつい国際社会の力関係や国内政治の話などが優先されますが、甘いと言われようとも、「子どもたちの被害を防ぐには何をすべきなのか」、そんなことを常に考える必要があることを、この原稿を書いていて私は改めて感じました。
今回触れた以外にも、ガンダムでは「犠牲者としての子ども」の姿が随所で描かれています。主人公の活躍や派手な戦闘シーンだけを描くことなく、戦時下で最も弱い存在である子どもについて、ここまでしっかりと描写していることも、ガンダムの「奥深さ」の一つではないでしょうか。
(氷高優)
東京都千代田区にある「昭和館」をご存知ですか。アジア・太平洋戦争中の市民の暮らしなどを伝える資料館で、戦中の映像や写真、関連図書10万冊などを収蔵しています。同館の大きな特徴は、戦時下を生きた市民から提供された1万8千点の資料(常時約700点を展示)で、当時書かれた絵日記やおもちゃなど、子どもたちの暮らしぶりが分かる現物も展示されています。一度は訪れてほしい場所です。→「昭和館」http://www.showakan.go.jp/
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