8月10日(日)新宿ネイキッドロフトで行われた、〈マガ9・トークイベント〉の一部収録です。第2部、第3部も順次公開していきます。
瀬口 晴義(せぐち はるよし)1964年生まれ。東京都出身。1987年、中日新聞(東京新聞)入社。宇都宮支局を経て1992年より社会部記者。検察・裁判担当をはじめ教育問題を担当してきた。著書に『検証 オウム真理教事件』(社会批評社)。東京新聞において、戦後60年企画「記憶 新聞記者が受け継ぐ戦争」を担当している。
幻の特攻隊、「人間機雷」といわれた「伏龍」。終戦直前、本土決戦の秘密兵器として訓練が進められ、その厳しく過酷な任務により多くの少年兵の命が海に消えていきました。戦争は特攻隊や人間魚雷(回転)同様に、人間の命をあまりにも軽視し、ただの物や兵器の一部にしてしまうのです。残酷で悲しい特攻と戦争体験者の声を風化させないため、その知られざる事実をまとめた『人間機雷「伏龍」特攻隊』(講談社)の作者であり、東京新聞社会部記者の瀬口晴義さんに、地道な取材によって浮き彫りになった人間機雷「伏龍」の実態と、祖国を守ろうと死を覚悟していた兵士たちの命の重さを語っていただきました。
私は、昭和39年生まれの戦争を知らない世代です。ちょうど東京オリンピックで日本中が沸いた年で、高度成長期の真っ最中に幼少期を過ごし、日本が豊かになっていくのを肌で感じて育ちました。地下鉄サリン事件などを起こしたオウム真理教の幹部たちや死刑が執行された宮崎勤被告とほぼ同じ世代でもあります。
新聞記者になって20年が経ちますが、20代の頃は、8月になると必ず戦争の特集をする新聞に対し、実は違和感というか、へきえきした思いを抱いていました。「もういいじゃないか」「いつまで戦争の特集をするのか」と思っていたのです。「戦後とは何なのか」「かつての戦争をどう考えるのか」と、各メディアが戦争特集をしていたピークは戦後50年の1995年、平成7年の年だったように思います。
その後は、8月になっても戦争と平和を考える企画が質量ともに減り、取材する機会も減ってしまいました。こういう戦争特集の企画は「8月ジャーナリズム」として揶揄される場合もあるのですが、いま、私は思います。「8月ジャーナリズム」でも何でもいいから、この8月の時期にきちんと戦争体験者の話を聞いて、意識して戦争と平和を考える記事を愚直に取材し、紙面に取り上げていくことが大事なのではないかと。後世に伝えていくために戦争企画をやらなければならないと強く感じています。
それはなぜかというと、あと10年もしたら、戦争体験者がどんどん少なくなってしまうからです。実際に戦地に出向いた兵士だった人や、空襲の中を逃げまどった人のほとんどがいなくなってしまうのです。
東京新聞では、6年前から「20代の記者が受け継ぐ戦争」というタイトルで、戦争を知らない世代の記者、一度も戦争体験者の声を取材したことがない若い記者が自分でテーマを選び、主観も交えて書くという戦争企画を続けています。10年、20年と続けていきたい企画です。
・この潜水服姿で海底に潜み若き隊員たちは訓練を重ねた(防衛庁防衛研究所図書館提供)
実は私自身も、36歳になるまで戦争と向き合う取材をしたことはありませんでした。それまでは事件記者としてやっていましたので、社会的に注目される事件を取材できたことは記者冥利に尽きるのですが、いつも心の隅に引っかかっていたことがありました。それは、「つい半世紀前の戦争について、記者としてどう向き合うのか」ということでした。記者になって十年ほど経ってもなお、かつての戦争に向き合い、取材を通じて自分自身の歴史観を構築する機会がないままに時が流れてしまっていたのです。その思いは心の底から消えたことはありませんでした。
戦争に関する取材に腰を据えて取り組めるようになったのは、今から数年前、大腸ガンになり手術を受けたことがきっかけでした。手術前後は会社側が配慮してくれ、事件取材からは外してもらい、リハビリがてら自分でテーマを見つけて取材をしていいということになったのです。そこで心置きなく時間を割いて取材を始めたのが、今回のテーマの伏龍特攻隊でした。
伏龍特攻隊という存在を知ったのはまったくの偶然でした。いわゆる新聞社へのタレコミ情報をきっかけに、東京工業品取引所の間渕直三理事長(当時)に会いに行く機会があったときです。結局その情報は「ガセネタ」だったのですが、間渕氏と雑談している中で、同氏が戦争中、予備学生として海軍に志願し、終戦間際に特攻隊にいたことを知ったのです。
特攻についてはある程度の予備知識はあったのですが、伏龍については初めて名前を聞きました。「潜水服を着て海底に待機し、棒機雷を突き上げて自爆するんだよ。プリミティブ(原始的な)特攻隊だよ」。間渕氏が自嘲気味に語るのを聞いた時、そんな特攻隊が存在していたのかと、耳を疑いました。
(病み上がりだったこともあり、好きな取材をしてもよいということになり)伏龍についてじっくり取材に取り組めました。新聞で連載し、その後も追加取材を地道に続けて、3年前に『人間機雷「伏龍」特攻隊』(講談社)という本にまとめました。
伏龍とは、本土決戦の秘密兵器として考えられた特攻隊です。その名の通り、「海底に伏する龍」。ネーミングはなかなか格好のいいものです。しかし、与えられた任務は厳しいものでした。潜水服を着た兵隊が水中に待機し、敵の船が来ると浮上して、竹さおの先に付けた機雷をぶつけて自爆する。そのように、過酷な任務を背負った海軍の部隊だったのです。本土決戦が回避されたので、実戦では使われなかったのですが、本当に実在した特攻隊なのです。実は訓練中にたくさんの兵隊が亡くなり、その多くは少年兵でした。
伏龍の部隊が正式に編成されたのは、終戦直前の昭和20年8月5日ですが、実際の訓練は、同3月ごろから始まっています。終戦時には横須賀鎮守府の久里浜・ 野比、呉鎮守府の情島、佐世保鎮守府の川棚で、計3,000人近い若者が潜水訓練を受けていました。
このうち、横須賀の部隊(71突撃隊)の訓練拠点だった三浦半島の久里浜、 野比海岸は、最大の根拠地でした。海岸には天幕が張られて住民たちが訓練中の様子を見ていました。今だと、野比や久里浜湾ではサーフボードを抱えて水遊びをする若者たちの姿が見られ、全く面影はありませんが、当時は同じ海岸で、彼らと同年代の少年兵たちが、死と隣り合わせの訓練を受けていたのです。
・伏龍特攻隊の潜水具の数々。見に着ける隊員たちの気持ちを思うと胸が締め付けられる(防衛庁防衛研究所図書館提供)
最前線で指揮を執る士官は、職業軍人である海軍兵学校卒の士官は少なく、いわゆる予備学生出身者が大半を占めていました。予備学生というのは、大学や専門学校に通っていた学生が海軍に志願し、短期間の訓練を受けた後、士官になる制度です。そしてその士官の下で実際に機雷を抱いて自爆する兵の主力は、海軍飛行予科練習生(予科練)の出身者でした。予科練は飛行機の搭乗員を養成する組織です。なぜ予科練の少年たちが伏龍部隊の隊員になったのかというと、戦争も末期になると、もう乗る飛行機がなくなっていたからです。何万人という若者をどんどん予科練生として採用し、あまりにも増えすぎていました。そのため、驚くことに、伏龍は「余剰人員」と化していた予科練生たちを「有効利用」するために考えられたという面もあったというのです。予科練生は日本の軍人として飛行機に乗って敵と戦うために飛行機乗りになろうとしたのに、結局は海に潜って自爆する運命が待っていました。
そのようにして集められた16、7歳の少年たちを待っていたのは、文字通り死の訓練でした。潜水具の構造上の欠陥から、訓練中に殉職者が相次いだのです。
隊員は、(鼻から空気を吸い、口から)はき出した呼気をカセイソーダで浄化する清浄缶を背負って潜水していましたが、物資不足から清浄缶の作りはお粗末でちょっと岩とぶつけただけで水が染みこむようになります。水と反応したカセイソーダは化学反応を起こし、沸騰するほどの高温になり、潜水カブトの中に逆流してきます。沸騰したカセイソーダを飲み込んでしまうと、胃や食道を焼かれ、苦しみながら死んでいきます。また呼吸方法を間違えると炭酸ガス中毒になり、すぐに意識を失ってしまいます。行方不明になる隊員も多かったといいます。毎日のように通夜が続くという、恐るべき特攻隊の訓練があったのです。証言を総合すると、殉職者は数十人になると思われますが、資料の多くは敗戦直後に焼却処分されていたので、全く分からなくなってしまいました。
伏龍の存在が知られていないのは、残念ながら資料が全部焼かれてしまったことと、本土決戦がぎりぎりで回避されたためです。では、この伏龍の構想を考え出したのは誰なのか。取材を進めていると、それは海軍軍令部第二部長の黒島亀人少将(当時は大佐)だったことが分かりました。
黒島少将は昭和16年12月8日の真珠湾攻撃作戦を立案した参謀で、連合艦隊司令長官・山本五十六大将の「懐刀」ともいわれていました。彼が発案した伏龍は、余剰人員と化していた予科練生たちを、「余ったから人間機雷にしてしまえ」という、転倒した発想だったのです。
戦時中、兵隊の命は「一銭五厘」より安いと言われていました。その「一銭五厘」 は兵士を召集する当時のはがきの値段だったのですが、本当のその通りです。伏龍の取材を進めるうちに、日本の軍隊は兵士の命をものすごく軽く見ていたのだと実感しました。
海軍の水雷関係の本を読んでみると、伏龍について「戦争末期のあがきとも考えられる誠に悲しむべき兵器」(『海軍水雷史』)と書かれています。元海軍省軍務局員の手記には「窮余の一策から生まれた最も原始的な竹槍戦術」とありました。
・作家の城山三郎さんと。晩年は、右傾化する日本社会や9条改悪の動きに、反対の声を上げ続けていた。
小説家の城山三郎さん(故人)は、「実はもう少し戦争が長引いていたらこの伏龍の隊員になっていた」とおっしゃっていました。私が著書『人間機雷』を城山氏にお送りしたら、城山氏はある本に感想を書いてくださいました。
「心の中に怒りと嘆きなど燃え上がるものがあって、これまでのように、海を穏やかに眺める気分は、吹き飛んでしまった」、「『ああ、本など読まなければよかった』と、まず思った。」、「彼等を『無縁の死者』として扱いたくなかった」、「彼等は、無縁の死者ではなく、私の中で生き、私を生かしてくれている」、「こうした思いを、一人にでも、二人にでも多く伝えたい」
「戦後茅ヶ崎に住む身となった私は泳ぎ好きで、春の彼岸から秋の彼岸まで1日も欠かさず泳いでいたのに、そこが伏龍特攻隊員の死に場所であったと知ってからは一度も泳いでいない。当時の指導者たちを国民として許しておけない思いがあるが、いかがなものであろう」(『仕事と人生』)
ところで、「特攻の父」と呼ばれた大西瀧治郎中佐は、フィリピンで特攻を始めた人ですが、実は彼が始めた以前から海軍の中では特攻部というものがありました。飛行機の下に爆弾と一緒になったもう一つの飛行機をつけて、攻撃の直前に切り離して飛んで行って自爆する人間ロケットや、モーターボートの先に爆弾をつけて自爆する「震洋」などはフィリピンでの航空機による特攻が始まる以前に構想が出来上がっていたり、部隊の編成が行われているのです。つまり海軍の中では既に特攻の流れができていたのに、唯一、敗戦時に自決した大西中佐にその責任を押し付けていたというところがあったようです。よくよく調べていくと、実は黒島少将がそのほとんどの特攻の道筋をつくっていたことが分かってきました。
本土決戦はギリギリで回避されたのですが、陸軍は本当に本土決戦をやるつもりだったようです。日本軍としてどう戦おうと思っていたのでしょうか―。実は飛行機は本土決戦用に「虎の子」として温存していたので、押し寄せてくる米軍の艦艇に向けて、まずは特攻の飛行機が出ていきます。そしてその特攻機の攻撃をかわした上陸部隊に対しては岩陰にあるモーターボートの「震洋」や回天という特攻兵器、それもかわされると、伏龍が待ち受けているわけです。さらにそれも破られた場合は、今度は海岸周辺の陸軍の守備兵が攻撃を加える。そして時間をかせいだ上で、内陸から戦車などが来るわけですが、それでも撃破されたら今度は何を考えるかというと…。たこつぼに爆雷を背負った兵隊が潜んでいて、敵に向かって飛び込んで自爆するという方法でした。人間地雷ともいわれ、海軍では「土龍」という名前で訓練がされていました。
・靖国神社の遊就館に展示されている「伏龍」の像。全体像がよくわかる。
これは冗談でもなく、本当の話です。そこまでして日本軍は本土決戦をしようとしていたのです。もし本土決戦になっていたら、想像もできないほど恐ろしい状態になったと思います。何百万人という人が亡くなっただろうし、ソ連が侵攻してきて日本が分断されるという可能性もあったでしょう。
伏龍や憲法の取材を続けていく中で、印象に残っている言葉があります。沖縄のひめゆり学徒員を引率した仲宗根政善・元琉球大教授(95年没)、が1970年代の日記に残されている言葉です。
「憲法から血のいろがあせた時、国民は再び戦争に向かうだろう」
憲法は戦争で犠牲になったおびただしい戦死者たちの犠牲の上に立っていました。いわば血塗られた憲法です。憲法9条の改定に賛成する人が増えているのも、戦争体験が遠くなっているからだと思うのです。私たちメディアとして、新聞記者として、戦争体験をきちんと学び、後世に伝えていくという地道な作業がなくなったとき、そして戦争体験者が次々と亡くなってしまったとき、本当に憲法から血の色があせ、戦争に向かっていく可能性があるのではないかと思うのです。
新聞社の役目とは何か―を問うとき、権力の監視などいろいろな面があると思いますが、あえて1つだけ上げるとすると、私は考えます。「二度と戦争を起こさないということ、そのために新聞社が存在するのではないか」。戦争を起こさないために何ができるのかを常に考えながら、地道に戦争体験を掘り起こし、戦争の「記憶」を伝えていくことが、我々新聞記者の使命なのではないかと、つくづく思っています。
トークショーの第一弾は、
「人間機雷」伏龍特攻隊について。
ショッキングな写真と共に、淡々と語られる真実。
改めて、悲しみと共に、当時の為政者への怒りがこみ上げます。
戦争体験は、戦後何年たったから、
もう伝え飽きたということは決してないことだと思います。
瀬口さん、お話をありがとうございました!
引き続き、トークイベントの報告をしていきます。
←『人間機雷「伏龍」特攻隊』(講談社)
戦争末期、各地で秘密裏に組織された「自爆作戦」。人間機雷「伏龍」もその一つである。いかにして組織され、どのような訓練が行われていたのか。徹底取材でそれらが明らかにされている。
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