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ところで、最近、そのコメント欄で盛り上がっているのが、「日の丸君が代問題」のようです。お玉さんの「国歌は自由に歌いたい、国旗は自由に掲げたい」という意見に対し、さまざまな反響が寄せられて大盛況です。
その多様なコメントを読んで、私が感じたのは「へえぇ、こんなにも“強制されたがっている人たち”がいるんだなあ」ということです。「自由に」というお玉さんに「日本人である以上、日の丸君が代を尊重するのは当然。それを拒む者は処分されても仕方ない」というような意見の方たちが大勢、反論を寄せています。
強制されることに抵抗感を持たない人がこんなにいる、ということに、私は少々驚いたのです。
私はお玉さんと同じく、「歌うことも歌わないことも自由」であってほしいと思っています。というよりも、私自身「強制されたり脅されたりすることが、とてもイヤ」なのです。
むろん、「君が代」を歌うことは自由です。でも、その歌詞の内容に反発を覚え、歌いたくないと考えることもまた、自由であるべきです。「日の丸」を誇らしく感じる方もいるでしょう。しかし、その旗の下で、日本という国家がかつて行った戦争を連想させられるゆえに、「日の丸」を肯定できないという人がいることもまた、事実です。
どちらも、考え方の一つとして認めるべきだと、私は思います。それを、ある一つの方向へ強制し、「従わないなら処分する」と脅迫することは、国家として行うべきではないと考えます。
「いまだにあの戦争のことを言い立てるのか。いつまで謝り続ければ気が済むのか」と、反論する人がいます。
けれど、やってしまった行為には、それなりの責任を取り続けるべきでしょう。ことに、あの戦争の被害者がなお生存しており、その家族や関係者にも悲惨な記憶が残っている限り、その謝罪は続けなくてはいけないのが道理というものではないでしょうか。
ドイツのメルケル首相は、3月18日、訪問先のイスラエル国会で、ナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)について、「ドイツ国民全体が恥じている。犠牲者、生存者に対し私も深く頭を下げる」と謝罪しました。
ドイツ首脳としては、00年にラウ大統領(当時)が、05年にはケーラー現大統領が、同様にイスラエル国会で謝罪演説を行っています。
これが、国家としての当然の態度だと、私は思うのです。このような真摯な反省を示した上での「国旗国歌の尊重」であるならば、それはひとつの見識です。
「いつまで謝罪を続ければいいのか。もう十分謝ったではないか」などと威丈高にならずに、被害を与えた相手国や人々へ、真摯な態度を示し続けるのが、戦争を起こしてしまった私たちの国がとるべき道でしょう。
しかし、文科省や教育委員会(特に東京都)の方向性は、そのようなものとはほど遠い。3月28日付で、文科省は「小中学校の改訂学習指導要領」を告示しました。
やはり、出てきました。
総則に、「我が国と郷土を愛し」という文言が入り「君が代を歌えるように指導する」とも明記されたのです。さらには「我が国の安全と防衛」に加え、「国際貢献について考えさせる」と、自衛隊の海外活動を想定した文言も増えました。
これらは、先の「改定教育基本法」に添ったものでしょうが、保守系国会議員らからの強い圧力で、このような指導要領改訂に至った、との指摘もあります。
東京都教育委員会の異常とも言える「国歌国旗強制」が、これによってさらに強まり、従わない者への処分も多発することになるでしょう。
処分をちらつかせて服従を迫る。そんなことを政府が行う。これではまさに、「脅迫政治」ではありませんか。
このところ、こういう国民を脅すような「脅迫政治」が横行しているような気がして、仕方ありません。
例えば、「ガソリン暫定税率」です。これが期限切れで、ガソリンが4月1日から25円、軽油は17円ほど値下がりしました。(もっとも、ガソリンは旧価格がしばらく続くスタンドもあります。蔵出し税という事情のせいです)。
政府与党はしきりに、「もし暫定税率が撤廃されれば、国民は大混乱する。地方財政も破綻し、国民生活に甚大な影響が出る。それでもいいのか」と主張しました。これも、ある意味では国民に対する「脅迫」です。
しかし、一部で多少のゴタゴタはあったようですが、政府の言う「大混乱」など起きてはいません。むしろ、石油高騰に悲鳴を上げていた運輸業者や、移動手段を車に頼るしかない地方在住の人たちは、大歓迎しているではありませんか。
政府与党の「脅迫」は、功を奏さなかったのです。
無駄な道路造りだけが地方活性化ではないということが、はっきりしたのです。
地方首長たちの「暫定税率維持」の主張は、いったい何だったのでしょうか。あの東国原宮崎県知事を筆頭に、暫定税率維持を訴えた首長たちは、いまどう思っているのかを、明確にする必要があるのではないでしょうか。
国民を脅して政治を行う手法。考えてみれば、ほかにもたくさん目につきます。
あの「新テロ特措法」も、まさにそんな「脅迫政治」の典型でした。
外務省や自民公明の与党は、「もし、アメリカ艦船へのインド洋での自衛艦の給油活動をやめてしまったら、日本は国際社会で孤立し、世界中の物笑いになる。そうなったら、いったいどうするのか」と国民を脅しつけ、衆議院での3分の2条項まで使って、今年1月、強行採決しました。
しかし、“給油法”は昨年11月一杯で、一旦は期限切れ。そのため給油は昨年の11月から4ヵ月以上も中断していました。で、どうなったでしょう。
世界中のどこからも、物笑いになどされなかったし、ましてや、孤立して国益を損ねる ような事態も起こりませんでした。
それどころか、当のアフガン国民の大部分は(カルザイ大統領でさえ)、日本がアメリカに油を献上していたことなど知らなかった、ということまでバレてしまいました。
「脅迫政治」の結果がこれです。うかうかと脅迫に屈してはいけません。数百億円の私たちの税金が使われたあげく、バカをみたのは、結局、私たち国民でした。
そういえば、日銀総裁問題でも「もし、日銀総裁が空席になったら、世界中から笑われて、日本経済にも深刻な影響が出る。それは国民生活を直撃するが、それでもいいのか」と、脅迫じみた主張を繰り返したのが、政府与党でした。
自らの経済政策の失敗で、株価暴落を招いたにもかかわらず、それを日銀総裁問題に転嫁して国民を脅す。手法は同じです。
この傾向は、中央政府だけに限りません。
東京都という巨大都市で、尊大を絵に描いたような「脅迫政治」を続けるのが、石原慎太郎知事です。
石原知事が、自ら率先して作り上げたのが「新銀行東京」でした。ところがこれが大失敗。すでに1000億円超の赤字を出し、さらに400億円もの都民の税金をつぎ込むという惨状です。
当然、反対の声が起こります。増税や物価高騰にあえぐ庶民の税金を、みすみす1000億円以上も無駄にし、さらに400億円も追加するのですから、怒らないほうがどうかしています。
しかし、例によって傲岸不遜、人を小バカにするのが得意技の石原知事、「もし放置したら、余計に負担増となる。そうなったら、困るのは都民だ」と、都民を恫喝して、開き直る始末。
あげく、
「わたしがやっていたら、もっと大きな銀行になっていた」
「悪いのはすべて旧経営陣」
「その経営陣を推薦してきたのは経済界。わたしのせいじゃない」
「わけも分からないのに、いまから批判するんじゃない」
「成果は必ず出してみせる。黙って見ていろ」
悪いのはすべて他人のせい。自分は一切悪くない。
「責任は?」と問われると「わたしにも責任は、あるだろう」と言うだけ。
「ではどう責任を取るのか?」には、明確な答えはない。
自分の失敗の責任はウヤムヤのまま、「このままでは、都民よ、困るのはお前だぞ」と脅して逃げてしまう。
まさに「脅迫政治」の典型例です。
沖縄で、横須賀(あのタクシードライバー殺人事件の容疑者?は、いまだに米軍基地の中)で、ほかにも米軍基地の街で、アメリカ兵による犯罪が続発しています。
「せめて、日米地位協定の見直しぐらいは、日本政府がアメリカ側に迫るべきではないか」と、住民たちは日本政府に要求します。けれど、いつでも政府の言い分は決まり文句。
「日米同盟堅持のためには、現在の日米地位協定はそのままにしておくべき」の一点張りです。日本国民の被害よりも、アメリカ側の意向のほうが優先されているのです。むろん、住民の怒りは収まりません。当然、怒りの決議を突きつけます。
すると、またもや脅し文句です。
「日本有事の際、アメリカ軍が日本を守ってくれる。もし地位協定などで協議が難航し、アメリカ軍が引き揚げたら、いったい誰が日本の安全を守ってくれるのか。有事の際、攻撃を受けて、日本が甚大な被害を出してもかまわないというのか」
ここでも「脅迫」です。
しかし、軍事評論家の田岡俊次さんが繰り返し述べています。在日米軍が日本を守ってくれている、などというのは、まったくの虚構だというのです。むしろ、自衛隊が在日米軍を守っている、というほうが当たっているとのこと。
現在、日本国内に展開している米軍の規模や配置を考えれば、日本を守る、などという状況にはほど遠いというのです。
そうであれば、「誰が日本を守るのか。日本が被害を受けてもいいのか」という脅し文句も、意味をなさなくなります。
ここでも「脅迫政治」が行われている…。
最後に、とても気になることを付け加えておきます。
映画『靖国』をめぐる出来事です。
これは、日本在住の中国人監督リ・イン氏が作った、靖国神社を主題にしたドキュメンタリー映画です。
この映画に対し、自民党の若手議員たちが集う「伝統と創造の会」会長の稲田朋美氏が、「この映画には文化庁が助成金を出しているが、それが適正かどうか」という疑問を、文化庁側に投げかけたことから、問題が始まりました。
稲田氏らは、公開前に試写会を開くよう要求したのですが、映画制作会社は「一方的な意見の人たちのみへの試写会には応じられない」として拒否。結局、文化庁が仲介し、全国会議員を対象にした試写会が行われました。
この試写会後も、稲田氏はやはり映画には批判的で、「助成金交付には問題がある」とする一方で、「決して事前検閲を意図したものではない」とも釈明しました。
こんな事情があったためか、一部週刊誌やネットなどが、例によって「反日映画」と批判。上映予定だった映画館は、抗議や嫌がらせを受ける事態となり、すでに5館が上映中止を決めたというのです。理由は、あのプリンスホテルと同じ。
「問題が起きれば、ビルのほかのテナントや、周辺住民に影響が出かねない」。
ある種の脅迫に屈したということです。
むろん、稲田氏側には上映中止に追い込もうなどという意図は、なかったでしょう。
上映中止という事態を受けて稲田氏は、
「日本は表現の自由も政治活動の自由も守られている国。一部政治家が映画の内容を批判して上映をやめさせるようなことは許されてはいけない。(中略)上映中止という結果になるのは残念」(朝日新聞4月1日付)と語ったということです。
しかし、自民党議員という権力中枢の人間が、公開前に自分たちのためだけの試写会を要求する、ということは、絶対にしてはならないことだったはずです。
稲田氏は弁護士でもあります。言論思想表現の自由ということについて、じっくりと考えた上での行動だったのでしょうか。本人の意図はともかく、結果として、映画の上映中止という事態を招いたことは事実です。
試写会後の議員たちの感想としては、「別に思想的な偏向は感じなかった」とか「力作であり、靖国に賛成反対両者のどちらにも与しているようには思えなかった」などが多かったと、報じられています。むろん「イデオロギー的だ」との感想もあったようですが、見方はそれぞれでしょう。
しかし、上映中止は、その感想を持つ機会すら奪ってしまうわけです。映画を観ることなしに、上映に抗議したり嫌がらせしたりする。それによって、上映が中止される。これでは、自由な社会とは言えないでしょう。
稲田氏らが「助成金交付には疑問がある」と訴えることは自由です。しかし、それが上映中止につながることは、絶対に避けなければならないはずです。
法律家として、国会議員として、当然です。
稲田氏らは、いますぐにでも<声明>を出すべきです。
「表現の自由は、絶対に守られるべきであり、従って、上映の自由は確保されなければならない。そのために、上映館に中止の圧力をかけたり、嫌がらせをすることなどは、決して行ってはならない。もし、そういう行動をしようとする団体や個人がいるのなら、即座にその行動をやめてほしい」という声明を。
それが、心ならずも(かどうかは分かりませんが)、こんな事態を招いてしまった国会議員としての、最低限の責務ではありませんか。
もし、それをしないなら、稲田氏らの行為もまた「脅迫政治」の類いだと言われても仕方ないでしょう。
このコラムは、ほぼ1年間の連載でしたが、今回で終了します。
また何か、新しいコラムが、近々始まると思いますが、
それまで、しばらくのお別れです。
1年間のご愛読、ありがとうございました
(鈴木 耕)
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