080312up
ここで、一言お断りをしておく。
私は、JCJ(日本ジャーナリスト会議)出版部会のHP(『出版・ろばの耳』)で、「活字の海を漂って」というコラムを連載している。月に一度のペースでの緩やかな連載だが、長い間出版に携わってきた人間としての、活字についてのさまざま思いを、気の向くままに書かせてもらっている。
実はそのコラムで、先日、『死刑』(森達也著、朝日出版社刊)という本に触れ、そこから「裁判員制度」に文章が及び、「あなたは『死刑』を宣告できますか」というタイトルの一文を書いたばかりだ。
同じテーマになってしまうけれど、どうしてももう一度、このことについて書いておきたいと思う。もし、「活字の…」コラムをすでにお読みになっている方がおられたら、なにとぞご容赦を…。
さて、「裁判員制度」だが、これが適用されるのは、刑事裁判のうちの重大犯罪に限られる。例えば、殺人罪、強盗傷害致死傷罪、放火罪、傷害致死罪、身代金目的誘拐罪など、聞くもおぞましい大事件の裁判に関与することになる。
ここで大きな問題となるのは「量刑」についても、私たち司法素人の「裁判員」が関与しなければならない、という点である。
つまり、扱うのが重大犯罪である以上、私たち一般の裁判員自身が「死刑判決」を下すかどうかも、大きな争点にならざるを得ない、ということなのだ。
だから、こう問うておかなければならない。
あなたは「死刑」を宣告できますか?
アメリカなどの陪審員制度では、州によっても違うらしいが、ほとんどが「有罪か無罪か」のみを決定するのが陪審員の役割である。だから、何年の刑にするかなどの「量刑」は、判事(裁判官)が下す。陪審員は量刑へは関与しない。
しかし、私たちが参加することになる日本の裁判員制度では、「有罪か無罪か」、そして、「死刑か無期懲役か、それとも懲役25年か」などという刑の重さを決める「量刑」まで、裁判員が判断しなくてはならない。
つまり、私たち自身が、「死刑を宣告するかどうか」の局面に立たされる可能性があるということだ。
アメリカのリーガルサスペンス小説や映画で描かれる裁判劇における陪審員たちは、「ギルティー・オア・ノットギルティー(有罪か無罪か)」をめぐって、延々と議論を重ねる。
その古典的名作映画とされるのが『十二人の怒れる男』(シドニー・ルメット監督、1957年、米)である。
主人公のヘンリー・フォンダは、11人の陪審員たちが「有罪」を主張する容疑者の若者に対し、その証拠の曖昧さを指摘し、最後には11人の陪審員たちの有罪意見を覆していく、という濃密なディベート劇であり、息づまる密室劇なのだ。
この映画のヘンリー・フォンダは、たった一人で残りの陪審員全員を敵に回し、それでも屈せず次々と説き伏せていく。そして最後には、若者の無罪を勝ち取る。まさに英雄である。
しかし、日本の裁判員制度の実際の場面で、こんなことが可能だろうか。 私は考え込んでしまうのだ。
さらに、鳩山邦夫法務大臣の登場により、処刑人数も大幅に増加している。なにしろ、「ベルトコンベア式か、乱数票を用いて自動的に死刑を行えるようにすべき」という、物凄い発言をする人が法相なのだ。
この流れは、鳩山法相の前任・長勢甚遠法相からのものだ。なにせこの甚遠大臣、安倍内閣で法相に就任するやいなや、わずか1年足らずの間に計10人の死刑囚に、次々と処刑のサインをし、絞首台に送り込んだ人物だった。
その跡を継いだのが鳩山法相。この人も、何のためらいもなく次々と処刑書類にサインをしていく。
鹿児島県志布志市での選挙違反の冤罪事件について「あの事件は、冤罪というべきではない」と発言、批判を浴びるや、「もう私は、冤罪という言葉は使わない」と、ほとんど開き直り。
こういう人が司法のトップにいることも、死刑判決の多発に影響しているのだろうか。
「厳罰主義」に拍車をかけているのが、TVワイドショーを筆頭とするマスコミ報道である。とにかく、容疑者の残虐性や非人間性を、これでもかこれでもかと煽り立てる。まだ「容疑者」である段階であるにもかかわらず、マスコミは容赦なく断罪する。
「疑わしきは被告人の利益に」とか「推定無罪の原則」という、司法のイロハは、完全に無視される。
そして、ひたすら被害者家族の悲しさ、悲惨さに寄り添う。
視聴者は、犯人(容疑者)を憎み、被害者に限りない同情を寄せる。それが、厳罰化への後押しになる。まさに「復讐せよ!」と言わんばかり。さながら西部劇のリンチの手法。
しかもそれに輪をかけるのが、コメンテーターと称する一部の“テレビ文化人”たちである。
その典型例が、現大阪府知事の橋下徹氏だった。彼は、テレビ番組で「山口県光市母子殺害事件」の被告人弁護団について、「みんなで弁護士会へ、懲戒請求を行おう」と呼びかけたのだ。
「被告人は残虐非道、無反省。その被告人への弁護団の弁護方法は間違っている。被害者家族の人権が守られていない。弁護人は懲戒されてしかるべき」という論法だった。
「被害者(家族)がかわいそう」ということで、被告人の弁護方法すら批判される。これが、現実である。
最近の司法は、世論(というより、メディアの動向)を、とても気にする。こんなテレビ番組が、厳罰主義の後押ししているのは確実だろう。
ここからは、私のまったく個人的な想いである。
私は、「死刑判決」を下したくはない。たとえ被告がどんなに悪逆非道な人間であったとしても、その人間に「お前は死ね」とは言いたくない、いや、言えない。
自分の意志で、他人の死を決定する。そんなことは、私にはとてもできそうもない。これは、「死刑制度を支持するか否か」という議論とは、根本的に違う。
自分自身への、「お前は、他人の死を自らの意志で決定できるのか」という問いかけなのだ。その決定を「裁判員制度」という枠の中で、自分自身の意思に反して、むりやり行わなければならない、ということへの、どうしようもない違和感なのだ。
むろん、「悪い奴には死を」とはっきりと割り切れる人はそれでいい。だが、私にはできない。そういうことだ。
ある人が、私をこう批判した。
「お前の家族が無残に殺されても、その犯人への死刑判決に反対するのか」と。
私は、こう思った。
<あなたの家族が「冤罪」で死刑を宣告されたとしても、死刑に賛成できるのか>
立て続けに大きな「冤罪事件」が起きている以上、挽回不能な死刑制度への疑問は、やはり消えない。
しかし、ここで私が言いたいのは「死刑制度」そのものへの疑問でもなく、反対論でもない。
もし、私が裁判員として死刑判決を下したとすれば、他人の死を、私自身が決定してしまったという事実が、以後ずーっと私の心の中に、澱のように淀み続けるだろう。それをすぐに忘れてしまえるほど、私は強い人間ではない…。
夢の中に、私が死刑判決を下した被告人が、恨みがましい顔で現れるかもしれない。イヤだ。
それならば、『十二人の怒れる男』の主人公のように、裁判員全員を敵に回してまでも、私は死刑判決に反対できるか。それも、自信がない。
テレビの中で橋下氏が厳罰を煽るような風潮の前で、それでも死刑判決不同意を貫けるだろうか。
情報が溢れる現代、ある裁判員が死刑にどうしても同意しなかった、という情報は、すぐにネットなどを通して知れ渡るだろう。いかに情報漏洩を禁じたとて、漏れるのは避けられまい。
そうなったとき、何が起こるか。この映画の時代(1957年)とはまるで状況が違うのだ。
その裁判員に対する凄まじいバッシングが燃え盛ることは、想像の範囲内だろう。それも覚悟の上で、死刑不同意を貫けるか。
繰り返すが、私には自信はない。
ただこの一点で、私は「裁判員制度」に、疑問を持つ。
正しい殺人というものが、あるのだろうか。
やはり、同意できない。
(鈴木 耕)
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