『個体と状況について〜改憲と安倍政権〜』と題されたこの講演は、状況批判ではなく、きわめて根本的な主題を扱った哲学的な内容のものとなりました。それは題名にある「状況」への批判よりは、一方の「個体」について徹底的に掘り下げ、検証するものでした。しかしこれは、生の根源へと遡行することで、むしろ権力への批判を徹底し、生の普遍性の核を掴み取る試みなのだ、とも受け取れるものでした。とりわけ副題にある現政権の首相に関しては、名前さえ口にしたくないと言っていました。同感です。
今回の講演で、キーワードをひとつあげるとすれば、それは「単独者」であるといってよいと思います。普段はルーチン化した日常の淵に眠りこけているが、人の生から決して滅却することのできない「個体」としての単独者について、まさに単独者として語ること。それはおのれの「内心の声」に真摯に向き合うことを意味します。容易なことではありません。
しかし、そのような体内の奥深くから届く声に耳をそばだて、自分の身体を通して発せられる言葉こそが、「不快な時代を堪えていく道筋」になると辺見氏は言います。そのとき言葉は、あるいは他者とのコミュニケーションはいったいどういうものであるのか、それがテーマであったと思います。
書きたいことは多くあるのですが、しかし、ここは「マガ9」のレポートですから、「改憲」に関連したことを簡単に述べるに留めます。
辺見氏は憲法に関して次のように語りました。自分は護憲論者ではない。自分は改憲論者である、ただ特異な改憲論者である。むろん9条は死守する。しかし天皇について書かれた一章は必要ない、自分はそのような改憲論者である、と。というのは、何よりもそれが、天皇の戦争責任を曖昧にしてしまった証左であるからです。そのことで、天皇の戦争責任どころか、国民一人ひとりの主体的責任をも曖昧にしてしまった。集団的にそうしてきたのだ、と。
戦後民主主義はいったい何を崩壊させたのか、彼はそう問います。この国で失ったものは、完膚なきまでに崩壊させてしまった「主体性」ではないのか。彼がこの事実に注目するのは、それによって、言葉そのものこそが決定的なダメージを受けたと考えるからです。ここに戦後民主主義の欺瞞的な言説、文化が成立してしまった。つまり思想における破廉恥なダブル・スタンダードがまかり通るようになってしまった。このことを彼は「恥辱」という強い印象を与える言葉でたとえました。この恥辱という言葉は、ドイツ語のSchande(シャンデ)から来ています。それは単なる羞恥ではありません。「岩のように重く闇のように暗い恥」なのです。生涯隠し続け、できれば墓の奥底にまでいっしょに持っていき、この世から跡形なく消してしまいたい、そのようなもののことです。一方、ドイツ語で単なる恥はScham(シャーム)と言うそうです。
彼がこの言葉をあえて使ったのには、文学者としての主体性(彼の言葉では単独者)への強い責任感があるからだ、と僕は思います。ところで、辺見庸は、この「岩のように重く闇のように暗い恥=Schande」を、どこから採ってきたのか。ドイツのノーベル賞作家ギャンター・グラスのある告白からです。彼は今年の夏、あるインタヴューで17歳の頃、自分はナチスのSSであった、と告白します。「ドイツの良心の番人」とまで言われた大作家が78歳にもなって、自らの過去をそのように言ったというのです。この告白はドイツでスキャンダルとなりました。だが…と、辺見氏は問います。翻って、この国でそうしたことがスキャンダルになるだろうか。おそらく現在の日本で、ある作家がかつて自分は特高警察の一員だったと告白したとして、いったい誰が話題にするだろうか、と。
一方で護憲、リベラルを装い、他方で文化の日に天皇からの授勲にのこのこ出向く二枚舌の「文化人」たち。この国の病的なまでの無責任さは、昭和天皇だけにあるのではない。この国の人々における主体性の欠落は、言葉をスポイルし、記憶を破壊して、恥を感じる生の深いものを侵してしまった。この国のどこにSchande=恥辱の意識はあるのか、と。
確かに、現憲法に書かれた矛盾が、戦後民主主義に対する複雑なもつれを産み出してしまったことは、今や明らかだろうと思います。自らの手で一度として民主革命を起こしたことのない民主主義の国。米国への隷属と国家主義が手を結ぶ深い欺瞞。現今の社会状況は、その脆弱な民主主義ゆえの問題点が炙り出されているといってよい。
しかし私は、この炙り出しが、悪しきナショナリズムによって、この国の民主主義に潤いを与えていたものを蒸発させている、そのようにも見えるのです。言うまでもなく、この潤いが蒸発してしまった後に残されるものは、単なる干涸びたカスの集まりでしかありません。
「規制緩和」や「自由化」、そしてあの「民営化」の名の下に振興したのは、実際には経済破壊、地域破壊、教育破壊、景観破壊、人間破壊であることは、今や明らかです。このような破壊、貧困、差別の四面楚歌となった現今においてはじめて、憲法が問われているとも言えます。国家は今、国民を落すところまで落として絶望させ、その諦念の最中に国民の大切な権利まで奪おうとしているかのようです。それには抗わねばなりません、普遍的な民主主義者として。
それゆえに、この国の民主主義における特有のもつれを解き、それを超えていくには、僕たちが、辺見氏が言うような主体的な「言葉」を獲得することが、やはり必須です。
「手段となった言葉などは雑草です」、「内奥への沈黙の核へ向かって集中的に向かってゆく場合のみ」「言葉はそれ自体の純粋を通して、人を神的なものへ導く」。講演冒頭で、辺見氏が引用した1930年代の思想家ヴァルター・ベンヤミンの言葉です。存在をリスペクトする言葉の力を取りもどすこと。そのことを痛感した講演でした。
本講演の元になった原稿は、来年毎日新聞から出版が予定されている著作『記憶と沈黙』に収録される論考で、第一章「言葉と記憶と死」、第二章「SchandeとSchamについて」、第三章「単独者とは何か」。第四章「role-playing gameあるいは永遠の諮問」から成っているといいます。しかし今回は、辺見氏の体調や時間の都合上、一部を抜粋したものとなってしまいました。
でも、彼がトレードマークのキャップを深めにかぶって、ステージ左奥から左足を引きずりながらゆっくり舞台に現れ、まるで隣にいる人に語るような穏やかな口調や様子は、暗澹たる時代の最前線で、文字通り身を削りながら権力と戦ってきた老兵の趣きがあって、講演内容が予定通りに進行しなかったことなど、どうでもいいことのように感じました。むしろ、講演内容は、辺見氏自らの声と共にあることによって、根源的な力を得た、そのように感じられるものでした。おそらくキャップの下の眼差しは、射抜くような鋭さで光っていたことでしょう、以前のままに。