夏休みを利用して、沖縄&広島をまわって来ました! 青い海と泡盛とライブを楽しんだ沖縄報告は、後日にするとして、まずは、終戦記念日を広島で迎えた話を紹介します。
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広島市街地の中心にある、広島平和記念公園には、世界遺産に指定された原爆ドームをはじめ、原爆死没者慰霊碑や平和の鐘、被爆した樹木など、実に70以上の建物や慰霊碑、塔、像が建てられ、また残されているている。公園は、上空600メートルで原爆が爆発した爆心地でもあり、その場所に立つことにも何か意味があるように思えた。
この場所を、夏に訪れてみたいと考えたのは、ここには、日本政府のスタンスとはまた別の、日本に住む市民たちが持つ、平和への思いや希望が、力強く世界に向かってメッセージを投げかけているのではないか、それが体感できる場所ではないか。そう漠然と考えてきたからである。
そして公園内にある資料館についても、その展示方法、内容、メッセージに強い関心があった。なぜならここに「行って、見て、変わった」という声を、しばしば聞いたことがあったからだ。人間が原子力爆弾によって被爆したことについての膨大な資料は、世界でもここと長崎にしかないはずだ。
友人の新しい父親になったアメリカ人は、「原爆は戦争を終わらせるために必要だった」といってゆずらなかったが、その友人のすすめでこの資料館を訪れた後、「原爆投下は過ちだった」とその考えを一変させたという。「オレはアメリカで伝える」と。また「原爆症認定訴訟」の弁護団の一人、徳岡宏一郎弁護士は、学生時代この資料館を訪れた際、強い衝撃を受け、弁護士への道を歩む大きな原動力になったと語っていた。「人生には、見てしまった、知ってしまったがゆえに、素通りできないことがある」と。
太陽の光は、沖縄に負けず劣らず強烈でまぶしい。あの日もこんなに暑かったのだろうと、自分の体で感じることができる。資料館は想像以上の混雑であった。家族連れ、カップル、団体客、子どもから老人まで、ごったがえしているといってもいいほどの多くの人たちが、資料館に並ぶおびただしい数の、写真、遺品、証言、被爆者が描いた絵に熱心に見入り、メモをとり、小さな声で感想をもらしあう。
小学1年生ぐらいの女の子が、被爆者が描いた当時の状況の絵を見て言う。赤い炎の中でゆがむ顔。ガレキの下に挟まれて血を流す人。「おかあさん、みんなみんな苦しそうだよ。どうしして?」。小学5年生ぐらいの男の子が、全身火傷で変形した少年の写真にうめく。「めちゃくちゃだ。アメリカは、ひどいんじゃないのか」
ここには十分すぎるほどの資料が揃っていたが、さらに私の想像力を補ってくれたのは、広島に来る前に聞いた、89歳の被爆医師であり、今回の原爆症集団訴訟認定の証言者として、近畿、広島での全員勝訴への大きな役割を果たした、肥田医師の被爆体験である。ここに、その時聞いた話と、著書から一部抜粋して紹介しておきたい。
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28歳のとき、広島陸軍病院の軍医として勤務をしていた私は、1945年8月5日の夜、たまたま広島郊外の村で急患往診をした後、その農家で寝て8月6日の朝を迎えた。目覚めた直後にこれまで体験したこともない、せん光、爆風、衝撃で叩きつけられ、起きあがって広島の空を見上げたら、市内を踏み敷くようにそびえたつ巨大なきのこ雲が見える。
これは広島が大変なことになっている、とっさに自転車に飛び乗り、市街地へ向かった。途中、ふいに出会った人影に、私は息をのんだ。それはもう人ではなかった。人の形をしていたが、全体が異様にふくれあがり真っ黒で裸の胸から腰にボロ布がたれさがり、前につきだした両手から、黒い水がしたたり落ちている。焼けただれた頭には一筋の髪の毛もない。その影が私にゆれながら近づいたてきた。ボロ布だと思ったのは、人間の生皮で、したたりおちる黒い水は、血液だった。男とも女とも市民とも兵士とも見分けることのできない、焼けこげた肉塊が、引きはがされた生皮をぶらさげ、そこにあったのだ。私を見てうめき声をあげ、ばったりと倒れてしまった。駆け寄って脈をとろうとしたが、乾いた皮膚はその手首には残っていなかった。唖然と立ちすくむ私の前で、その人は、ひくっと痙攣して動かなくなった。これが私がはじめてみた被爆者であった。
その後、市街地に近づくにつれ、顔を失った裸の群れ、息絶えた死体の山に出会う。小さな子供の変わり果てた姿も多く見た。医者としてこの地獄の中でいったい自分に何ができるのか? 答えを出す間もなく「ここでお前のできることはない。すぐに村にもどって負傷者の手当てをしろ」と軍からの要望があり、今きた戸坂村に引き返したが、村は足の踏み場もないほどの負傷者で溢れかえっており、息をのんだ。
そこで急ごしらえの治療所で、日夜休む暇なく応急手当に追われることになる。火傷、創傷の治療、止血、縫合、つきささったガラス破片をとりのぞく、傷口を消毒する・・・その繰り返しを続けていく原爆投下から4,5日経たそんな中、これまで見たこともない容態の急変に次々と出会うことになる。高熱が出て、扁桃腺が焼け、紫斑が出る、髪が抜ける、鼻、口、目、あらゆるところから出血がはじまり、大量吐血、下血で死んでいく。
例えば、火傷の傷が回復し、なんとか故郷に帰れるまで元気になっていた夫婦がいた。出発のある朝、突然、異変がはじまり、あっという間に夫婦ともに死にいたる。
聞いたことも見たこともない、教わったこともない、医学書にも書いていない、そんな症状で次々と人が死んでいく。そのうち、呉の海軍から「使用したのは原子爆弾」だとアメリカの放送があったと伝えてきた。まったく新しいタイプの爆弾だと聞いても、どんな治療法があるのか、わからない。人は、急性症状をおこし、死んでいく。これには医師として、本当に衝撃を受けた。そのうち「ピカ」に遭った人は、早い遅いはあっても、直接受けた火傷や傷だけでなく、急性症状を引き起こして、死んでいくものが多いということは、なんとなく理解するようになっていった。
しかしその後、さらに驚くことがおこった。8月6日には広島におらず、3日後に救援活動のために入市した人が、原爆に合ったのと同じ症状で死んでいったのだ。体のどこにも傷も火傷もなく、衣服にも破れや焼けこげはない。「俺はピカにはあってない。なのになんでじゃ」と訴えながら死んでいった。同じようなケースは他にもあった。夫を探すために、1週間後に広島に入市した夫人が、やはり発症し死んでいった。なぜ、広島にいなかった人が、ピカに合ったのと同じような症状で死んでいくのか? この時の漠然とした疑問が、次々と大きくふくれあがった。これがその後、60年間、私が生涯をかけて取り組むことになる「内部被爆」だったのである。(参考資料/『内部被爆の脅威』(ちくま新書))
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資料館には、原爆被害についての、爆風、熱線、初期放射線、残留放射線による被害が、それぞれどんなものであったのかを、詳しく説明している。そして、今なお、その被害に苦しむことがいる人たちのことを示している。それは、広島・長崎だけにとどまらずに、世界各国に広がっているのだとブースは続く。
平和記念資料館は、1955年8月に、原爆による被害の実相を世界に伝え続けるために作られた。一日中いても見切れないほどの充実した資料館にして、入場料は大人個人50円。子供個人30円。平和学習には是非、家族で訪れたい。館内展示案内の音声ガイドの一部を、吉永さゆりが担当している。
太平洋戦争終了後、世界は核時代に入り、アメリカとソ連は対立から核開発、実験が加速する。その後、核実験が地球を汚染し、人間の健康や生態系に悪影響をおよぼすとの認識が広まり、核実験禁止条約や核兵器削減条約が結ばれ、東西冷戦が終結し、世界は核軍縮へ向かっていたが、1998年、インド、パキスタンの相次ぐ核実験の強行あった。
現在はアメリカ、ロシアを筆頭保有国として、中国、フランス、イギリス、インド、パキスタン、そして正式公表はしていないが、イスラエルで、核弾頭を保有しているといわれている。
資料館の展示にはこう書かれている。「強大な核兵器によって敵国をおどし、戦争の意図を押さえ込むという核抑止論は、第二次世界大戦後から約40年間、核軍拡競争を支えてきたが、インド、パキスタン両国の核実験で、改めてその脆弱さを露呈してしまった。核抑止論は、核戦争を決して押さえるものではなく、核軍拡競争や核拡散の引き金になっている」。
そして今、北朝鮮やイランの核兵器開発疑惑は消えることなく、そして、日本でさえも近隣アジア諸国の脅威を理由に、「核武装」を言い出す政治家がいる。そしてそれを支持する国民も。
核実験が行われるたびに、日本は唯一の被爆国として、広島市長が抗議電文を打ち続けている。588通を超えるその電文のコピーが、展示会場には貼り付けられているのだが、その量の多さに改めておどろく。これでは、世界はどこへ行っても放射能だらけじゃないか!
ほぼ爆心地に作られたこの平和記念公園は、元はたくさんの家が立ち並び、人々の生活があった場所である。たくさんの一瞬にして奪われた命がこの場所に眠る。私は、61年前の悲惨な戦争を語り継ぐことは大切だが、61年前という枠組みに入れてしまって語られることではないという思いをこの場所で強くした。世界も日本も、今だ戦争のただ中にあるのだから。
私は帰京したその足で、肥田先生のお宅に行き、3時間、話を聞き込んだ。先生は、61年前のあの悲惨な体験を繰り返し語るのではなく、50年、100年先の世界を見つめていた。それはまた、私たちに新たな目を見開かせてくれる話であった。
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