*
小笠原君、ご無沙汰しています。いかがお過ごしですか。最後の手紙をいただいてから、もう随分の時間が経ってしまいました。書けずにこれだけの月日が過ぎてしまったのだから、いっそ返事はやめてしまおうとおもうこともありました。むろん6年前の東日本大震災を忘れたことはありませんし、同じくこの往復書簡もずっと片隅にあって気掛かりでした。何を書けばよいのかわからないから書けなかったというのなら理解してもらえるのかもしれませんが、そうではなかった。書くべきことがわかっているとかえって書くことができない。そんなもどかしさを抱えていました。返信がこうして遅延してしまったのはそうした理由によるものです。怠惰をどうかお許しください。
●3・11からこれまでのこと
この期間、私たちは、この公開書簡の他に、ケイタイやメール、ツイッターで交信してはいたものの、ほとんど会うことはありませんでした。被災地には2011年5月に一度訪ねて以来、行くこともありませんでした。3・11の影響は次第に東京に暮らす私にも及んで、その頃携わっていた仕事のいくつかを失っていきました。新しい仕事にはなんとか就いたものの、慣れない仕事に戸惑うばかり。カフカの小説の主人公Kではありませんが、役所と事務所と現場を行ったり来たり。複雑怪奇な作業のくりかえしで無駄に労力を費やし、疲弊していました。
そのことに加え、もうひとつ出来事がありました。2012年11月に母が入院したのです。ステージⅢの大腸癌でした。それ以来、母はなんども手術をし、抗がん剤治療の入退院を繰り返していました。けれども癌は大腸から肝臓、そして肺、全身へと転移し、2015年になると延命処置を諦めました。同じ年の6月に余命半年と告げられたことを機会に、病院からホスピスへ移ることになりました。
3・11からそれからのことは、こうして私の生活も変えていったのです。
●再会
その日、2015年10月11日は、岩手県釜石市に君を訪ねて以来、およそ4年半ぶりの再会の日でした。用事を済ませた私は、君が宿泊する高田馬場駅前のホテル・サンルートへ向かい、ホテル正面のエスカレータに乗り、2階のロビーで待っていました。しばらくして二人の子供たちに付き添われて君が降りてきた。震災から2か月後に会った時と変わらない。訪ねた時には学校の行事で会えなかった一番下の子にはこのときはじめて会い、長男はあれからしっかり育った様子で、視力を失った父を気遣うしなやかなふるまいが自然に感じられました。一心同体というのはこういうことをいうのですね。
私たちは再会を祝して酒を交わすつもりでしたが、子供たちもいるので近くのビルの地下のとんかつ屋で定食を食べることにしました。ちょうど夕刻時のこともあってとんかつ屋は満員。前に並べて置かれた椅子に腰かけて待っていたそのとき、兄から電話があったのです。
母の容態がよくない。前日、お昼を過ぎた頃から、父が声をかけてもまったく起きなくなり、眠ったままだと。兄も夕方ホスピスに寄ってきたが、状態は変わらない。先程ホスピスから電話があって今晩、身内の誰かが付き添って欲しいといわれているけれど、今日は疲れて眠りたいので行けるのなら代わってほしい。連絡はそうしたものでした。
私は君との再会の旨を伝え、二つ返事で行くとは答えませんでした。2日前に面会したときには声は聞き取れないほどか細くなっていたとはいえ、それでもまだ話せましたし、君との再会は、ぼくにとって大切なことでもあったからです。
それからみんなでとんかつ定食を食べて、子供たちを先にホテルへ返し、私たちは居酒屋で酒を交わしながらしばらく談笑したのでした。ところが君との会話が頭に入ってこない。経験したことのない大きな波のようなものが全身に押し寄せ、息苦しくなって居ても立ってもいられず母のことを打ち明けました。君をホテルまで送ると、すぐにホスピスへ向かったのです。
●ホスピス
都心部近郊のホスピスは、武蔵野平野の一端に位置する静かな町にあります。病院の町で、結核患者やハンセン病、重病の小児を診る大規模な施設等がいくつも並んである。私はその町で生まれました。広大なこの区域一帯は、かつては深い緑に覆われていて、通った小・中学校もこのエリアにあった。余命幾ばくもない母にその地へ帰ろうと提案したのは私でした。もう一度懐かしい場所へ親子連れ立って還ることを、最期にすべきことだと思えたのです。
いつだったかホスピスに母を見舞っていたとき、なぜこの町に土地を買い、自分たちの家をはじめて建てて住むことにしたのかを聞いたことがありました。疑問に感じていたからです。両親が上京して最初に暮らした場所は文京区の白山でしたから。すると意外な答えに驚きました。堀辰雄の『風立ちぬ』や大岡昇平の『武蔵野夫人』などを読んでいて「武蔵野」という地域に憧れていたの、と云ったからです。
『風立ちぬ』は「結核文学」で、サナトリウムが舞台でした。母が入所したホスピスもかつては結核患者のサナトリウムだった。皮肉な偶然というべきなのかもしれませんが、つまり母は、二重に懐かしい場所へ還ってきたのだといえるでしょう。
●個室
東京の一部とはいえ都心部から1時間ほどいった、急行も止まらない小さな病院街の日曜日の夜は、駅前なのに辺りはすでにすっかり暗く静まり返っていました(21時を少し過ぎた頃と記憶します)。バスターミナルで本数の少なくなったバスを待つ。このときほど夜の深さが堪えたこともない。しばらくして乗車したのも私ひとり。実際の環境が引き金となって精神の奥へと引きずり込まれていく。これまで行ったことのない場所へ連れていかれる。そんな感覚です。ところが、それにもかかわらず、しばらくバスに揺られていると、奇妙にも私は落ち着きを取り戻したのです。抵抗の選択などはじめからこれっぽっちも用意されていない、避けることのできない物事に対して、人はこうした気分になるものなのかもしれません。
バスを降りるとホスピスの、渡り廊下を抜けて光を落した母の個室へ。起きているのか眠っているのか、確かにもうわからなかった。糸のように細くなったひとつながりの息だけが生きている証でした。
看護士に尋ねると、患者さんは最期まで耳は聞こえると言われているので近くで不安になる言葉を口にはしないでくださいと忠告され、看護士は、30分ごとに様子を見に伺うとのことでした。
母が以前、そうして触れられるととても落ちつき症状も和らぐというので、抗がん剤の後遺症でハムみたいに膨らみ固まってしまったふくらはぎを何度かさすったことがありましたが、同じように、私は母の髪を撫でることにしました。どれくらいの時間が経ったのか、多分それほど長くはないけれど、深い時間が過ぎていきました。
●満面の笑み
しばらくそうしていると、母が、眉間に皺を寄せた苦痛の表情を浮かべながら、重い瞼をなんとか開こうとしている。目を覚ましはじめたのです。そしてついには目覚めて、虚ろにゆっくり私を見つめました。私はもう大きな声をかけたりゆすったりもせず、髪を撫でたまま、ただ顔を近づけて微笑みました。すると、母は口角をあげて目尻いっぱいに皺をよせ満面の笑みを私に見せたのです。
私は静かに母に語りかけました。今日ね、小笠原君に会ってたんだよ。岩手から出てくるというので、子供たちを連れて。連絡があってね、会おうって。長男の自転車を買いに来たんだって。元気そうだった。子供たちも震災のとき会ったよりも立派になっていたよ。
私はいつもそうしてきたように、普段となんらかわらない日常の出来事を話しました。母もそれを望んでいると思ったから。「頑張って、しっかり、大丈夫」、そういった言葉なんて最期に交わしたくはないだろうと。
その話を聞いて、母は、満足そうに再び目を閉じていきました。いくつになっても少女のようにおしゃべりで、好奇心旺盛な人でしたが、もうしゃべることはできない。きっと心の中で私にいろんなことを語りかけてくれていたことでしょう。最後の別れの言葉も添えて。
●永遠の感覚
哲学者鶴見俊輔の講演やインタビューの映像記録がYouTubeにいくつかアップされています。その中のひとつに『永遠の感覚』と題された7分ほどのものがあります。私がこの映像記録を知ったのは、母がホスピスに入所してから2か月ほど経った頃でした。
鶴見はこのインタビューの中で、物事に価値観を入れたときに人は永遠という感覚を持つと云います。「子供の頃、虹を見たときに心が跳ね上がった気持ちは、ヨタヨタした老人になっても変わらなくある」「その感覚はいくつになっても欠片として残っている」「永遠の感覚というのは、最後の一息の中にもある」と。
あの夜、酒を交わしたこともあってか午前2時を過ぎた頃、私はうっかり眠ってしまい、母の「最後の一息」を受け止めることはできませんでした。そのことをずっと後悔していたのです。
母が亡くなって1年が過ぎ、この手紙を書くにあたりもう一度『永遠の感覚』を聞き直してみました。久しぶりに聞いて、以前とは異なる感触を持ちました。確かに、息を引き取る最期まで付き添うことはできなかった。けれど、このインタビューで鶴見が云う「最後の一息」とは、母があの夜浮かべた「笑み」のことではなかったのかと。その笑顔こそが「虹」だったのです。そんな思いに至りました。
●終わりに
母が生きた「戦後」も今、終わろうとしています。新たな時代を迎えねばなりません。3・11は、自然がこれを私たちに告げたのです。この国がどのようなカラクリで成り立っていたのかを白日の下に晒したのです。近年、それを裏付けるに価する光景を私達は充分すぎるほど見てきました。パンドラの箱はやはり開けられた。豊かな「戦後」は瓦解したのです。
その“豊かさ”の中で、私たちは、過去を知ることも未来を見通すこともできない “現在”という名の記憶喪失に陥っていました。堆く積まれた大量生産品の壁と氾濫するイメージの檻の中に閉じ込められていたのだと云ってもいいでしょう。
しかし翻ってみると、あの惨劇は、私たちをこの呪縛から解き放ちもしたのではないか。 “夢”から覚めたわけです。私たちはどこからやってきて、どこへ歩もうとしているのか。ほんとうは何者なのか。虚像に惑わされずに未来を描くには、過去へ遡り記憶を回復させていかなければなりません。
君との再会と母の死がピタリと背中合わせに貼り付けられたあの一夜は、私にとり、この6年間を圧縮した一夜だったのであり、過去と未来を行き来するための重い扉みたいなものなのかもしれません。開く扉の軌跡は美しい曲線を虹のように描くでしょうか。それとも錆びついて軋む音が悲鳴みたいに鳴りひびくだけでしょうか。
瓦礫はいまだ、散らばったままの状態にあります。
2011年5月より不定期連載で掲載してきた「〈釜石-横浜〉往復書簡」は、今回で最終回となります。3・11から6年という月日は、二人をとりまく社会状況の変化だけでなく、それぞれの身の回りの環境もまた大きく変えていきました。ちらばったままの瓦礫を、この社会は、日本は、どうしていくのか。それは私たち自身にも、問われていることではないでしょうか。