お久しぶりです。釜石の小笠原です。
最後の便りから2年も経ってしまいました。そして震災から4年が過ぎました。
「果たして被災地の復興は進んでいるのか?」という疑問に対してうまく答えることはできません。答えの出ないまま、正解かどうかという不安を持ちながら、かすかに想像する未来を思い、少しだけ先の日常に対処するために今を生きています。
この時期の変化というものが、最終的に目指す地域の形に向かっていくものだとしても、いまそれ以上に感じられることは、これまでに経験したことのない違和感と慌ただしさでしょうか。
●急激な変化を遂げる釜石の風景
ここ1年で釜石の市街地はどんどん変化しています。震災後、次々と建物が解体され空き地となり、風を遮らなくなった空間は、なにかそっとため息をついているように感じられました。そして今度は、スーっと息を吸い込んで、それを吹きだすように、再度空間に建物を建てているようにも見えます。
昨年の3月、市街地と海の間には、震災以前の釜石では想像もつかないような大型ショッピングセンターがオープンしました。また、全国チェーンのホテルも建設され、ついでこの3月末にも、釜石駅のすぐ横にJR系列のホテルが営業を始めます。市街地には次々と飲食店も戻ってきて、急ぐように店舗を建てて、営業を始めています。
そういった居酒屋や食堂のお客さんの大半は、復興工事関係者、自治体などへの支援に来ている人々です。さまざまな地域の言葉が混じり合い、飛び交っています。釜石は製鉄所があったため、昔から近隣の市町村に比べ、地元以外の人たちが入ってくる割合は多かったものの、現在の釜石ほどではないでしょう。
震災以前の、ほんの数年前の街の残り香を感じる中、交わされるいろいろな地域の言葉は、新鮮さをも飛び越え、日常的となり、ついには近未来っぽさも感じられるほどです。復興に携わる多くの人々が釜石へ来ています。一時的な滞在先となるホテルの需要が増えていく一方、もう少し長期的な住居としてのアパート貸家の需要も飽和状態となるほど増加しています。
土地の高騰と同じく、アパートの賃借料も、都会とさほど変わらないんじゃないの? というほど高額なものとなっています。
土地の高騰に関しては、震災以外にもう一つの要因があります。それは、三陸縦貫自動車道、東北横断自動車道釜石秋田線の建設によるもの。インターチェンジや橋脚の建設のための代替地です。ただでさえ平たい土地の少ない三陸沿岸で、土地利用はなかなか難しいものとなっています。
前述した大型ショッピングセンターの周りの変貌ぶりによって、見えない自分にとって、そこは異質な地域となりました。街を歩いていて、記憶の中で把握できる通りから、新しく区画され、新しい建物の建つ地域へ向かっていくとき、本当に異なる時間、異なる空間へ入り込む感覚となります。ゆるやかなグラデーションは無く、耳に感じる気圧が変わるように、プスッと入っていくのです。
ほかの地域へ行ったときの、全体が初めて感じる街であるという意識とも異なり、身体的にバランスを欠く印象です。迷い込んだような空間では、地面の高低、足ざわり、におい、響く音、そして風の流れに、以前の雰囲気を結びつけることはできません。
一緒にいる人に周りの風景の説明を聞いて、なんとか以前の街と結びつけようとするもののうまくいかず、最後には徒労感が残ります。
一方で見えている人たちは、急激な変化とはいえ、周辺の風景から徐々に変化を感じながら見ていることでしょう。しかしながらインパクトのある風景と、巨大なボリュームの中に入っていくことを繰り返すうちに、以前の風景の記憶はだんだんと失われていくようです。多くの人が、ここにはなにがあったんだっけ? なくなった路地裏って今でいえばどのあたりなの? などなど、本気でわからないといいます。
風景に関しては、一度上書きされてしまうと、それまでの記憶を引っ張り出すことは難しくなるのですね。
これは風景だけなのでしょうか。以前になかった道路ができて、新しい動線が日常となり、身体感覚がそれに追随します。その空間の中では、震災被害の残像を見出すことはなかなか難しいこと。
まだ、がれきを取り除いた空間の状態であれば、そこに震災前の建物を透明なレイヤーとして思い浮かべることができたと思います。そして、建物と風景を津波の大きさと比較でき、思い出さずとも、そこで津波直後、震災当時のことを感じることができたことでしょう。
震災のことを忘れないという意識を持っている中であっても、上書きされる風景と、変化に対応し続ける身体によって、私たち地元の者でさえ思い出せなくなってくる部分も増えていくのでしょうね。
今後、市街地と海の間には、8メートルほどの高さの盛り土がされるとのこと。街の中でも海に近い地域の風景はまだまだ変貌していくのでしょう。
土を盛り道路を整備するために、一時的な、う回路となる道路が作られている地域もあり、数年後の風景を思い描くことは、見えない自分はもちろん、ほかの人でも難しいことだと思います。
もしかしたら、記憶の風景と津波を思い出させる痕跡が消えても、逆にこれから目の前に形を現してくる風景が、この街と津波の関係を強く象徴するものに見えるのかもしれません。
「忘れない」という気持ち、そして「徐々に思い出せなくなる」の両者は、意識せずとも同居し、進行していくものと思います。
市街地中心に現れた大型店舗。ある意味、震災・津波を象徴する存在。
•「震災かたりべ」として体験を話す
一昨年より、地元以外のいくつかの場所で、震災に関するイベントへ参加して、当時の体験を話す機会をいただきました。
見えない自分が、被災地以外の人たちにどのようなことを伝えることができるのか。それは今現在の復興のあれこれよりも、発災直後の自分自身の体験なのではないかと考えました。その部分であれば自分の言葉で伝えることができます。
それは被災地の人たちも、自分以外の人が震災発生直後どのような状況にあり、そこからどのようにして抜け出すことができたのか…ということには、とても興味があるからです。当たり前ですが、人それぞれの体験は様々です。それは今回の震災そのもののデータであり、これからのための大事なソースでもあり、そこから始まります。
ちょうど1年前の2月初旬、視覚障がい者の「震災かたりべ」として、島根県の松江市で、話をしてきました。いただいた時間の中の半分以上、地震の瞬間から津波の襲来直後のことを詳しく話しました。聴いてくださるほとんどは、被災地を訪れたことのない方々。そして視覚に障がいがある方々が主体です。なるべくイメージとして想像できるように、順を追って、なおかつ見えない自分も想像したその瞬間の情景を伝えようとしました。
数十人の前で話すということで、内容は事前に準備をしてのぞみましたが、実際に話し始めると原稿をなぞって話すことはできませんでした。
意識せずとも気持ちの入る部分は詳細な説明となり、またそこで思い出す小さな感情や情景もあります。そう、今でもハッと気づく小さな記憶もあるのです。
「人に伝えること」とは、「物事の結果報告」ではないのですね。
松江での話の中で思い出したものではありませんが、数カ月前に、ふと何かの拍子に頭をよぎったものがありました。震災当日の津波の後、自分たちは静寂の中にいた…と思っていましたが、実は建物の非常ベルが鳴り続けていたのでした。
だれかに震災の話をしていた時、それが何の気なしに浮かんできたのでした。後日、実際に旧自宅へ行った際に確認すると、3階廊下にある非常ベルのスピーカー部分に何枚ものガムテープが乱雑に貼り重ねられていました。それに触れた瞬間、当時の、焦りながらもなんとかこのベルを静めようと、テープを貼った記憶もみるみる思い出されてきたのでした。
上書きされる風景の記憶と同じように、幾度となく震災の話をしていると、話している記憶も固定化され、ほかの小さな記憶が薄れてきているのです。
一方、こうやってまだまだ思い出されていない記憶もあるのだと実感します。伝え合うことによって、言葉を交わすことによって、ほかの人の視点からの問いを受け、答える。震災後、会う人会う人と何度もしてきたことですが、これは大事なことなんだと再確認しました。
•もっと「恐れ」に正直になるべきだった
そういった中で一番伝えたいこと。
自分は津波の襲来直前まで、亡くなった人たちとも一緒にいました。かつて体験したことのない揺れの中で、恐怖を感じながらも、いつもいる人たちと冷静さを失わないようにとしていたのです。今となって思うと、おちついて対処しようとみんなお互いに心の浅い部分では「大丈夫だ、大丈夫だ!」と言い合っていたように思えます。とりあえず落ち着けばなんとかなる…けれど、そこには理由も根拠もありません。
いつも一緒にいる顔ぶれ、家族。異常な状況においても安心感があったのでしょう。というよりも安心を求め合っていたのでしょう。それぞれの気持ちの中には大きな恐怖があったことは間違いありません。しかし、冷静に、と考えてしまったのです。
津波が建物に到来する前、ほんのちょっとのタイミングで私が見たワンセグ放送。そこにはどこかで津波が防波堤を乗り越えたという実況。その段階で自分は改めて恐れを感じ始めたのです。それまでは、恐れを自覚することを避けていた、奥に押しとどめていたのでしょう。恐怖とともに、赤い緊急退避ランプが明滅していました。そして、僕は叔母と一緒に屋上に駆け上がりました。しかし階下に残った叔父たちは津波にのまれてしまいました。
もっともっと恐れに従い、恐れに正直になるべきでした。それがこのような結果になってしまいました。むりやり作ろうとする冷静さ、わずかな安心感。繰り返しますが、もっと恐れに正直になれば、もっとすばやい避難者となれたかもしれないという後悔があります。
自分と亡くなった人たちの間には数秒という時間しかなかったのです。なにも変わりません。ほんの少しの差です。ケータイを開いてワンセグを見ていなかったら、そのまま机の上を片付けていたと思います。自分のどこかで恐れが膨張して、ケータイを開く行動をさせたように思えます。
「緊急時には冷静な対応が必要」。この言葉と今回の津波被害。しっかりと考えようとする度につらい気持ちとなるのです。もちろんですが、冷静に考えたことで的確に現状を把握して、より安全な行動を考え、実行に移すということは理解できます。
では、自分たちはどの時点が分岐で、なぜに時間切れとなってしまったのか…。今まで何度も何度もあの瞬間、建物の中での記憶を再生してきました。まだ思い出していないことはあるか、津波の浸水した階下でどのようなことが起こっていたのか。そして、別れてしまうことになってしまった叔父たちは何を見たんだろう…。散乱した品々を手探りで確かめ、拾い上げるような想像を繰り返しています。
事務所建物跡地。記憶については思い出し切れていないものも含め丸ごと取り出した。それを抱えて5年目へ。
●旧事務所の解体完了に思うこと
昨年の12月、ちょうどクリスマスのころ、その旧事務所の解体が完了しました。建物のあるうちは、その場所へ行くことにより、時間が交差した様々な感情が浮かんできて、あの瞬間にも繋がることができました。不安や後悔とともに、何かしら落ち着くような気持ちにもなることもできたのです。
自分の場合、震災から3年と9カ月の間、大事な場所と過ごす時間があったのでした。今年の夏から、解体工事が開始される秋になるまでの期間、時間のとれる週末は、ほとんど3階にある荷物の整理と搬出をしていました。これまで先延ばしにしてきたこと。期限が決まったことによってのラストスパートです。
津波の残していった砂と埃の中、ほとんどが妻と2人での黙々淡々とした作業でした。時折、子どもたちも含め、家族みんなで行くことがあると、ちょっと違った雰囲気の時間となりました。
めちゃくちゃになった家の中から、持ち帰るものを選別しているときなど、お互いに珍しい、または懐かしいものを見つけるたびに、大きな声をあげて、その品々を見せ合いました。やがて、震災以前の中に戻っていくような静けさになります。あの瞬間を飛び越えて以前の生活を思い、気持ちが落ち着く時間でもあったのではと思います。
それぞれ自分の部屋に入り、静かに思い出のものを拾い上げていました。時間を行ったり来たりしながら、以前の生活と、これからの生活を考える場所でもあったのでした。
その建物がなくなったという2014年12月は家族にとって、3・11についで特別な時期になったといえます。気持ちの戻る場所がなくなったようで、今いる場所だけになったような・・・。現在、海から7キロほど離れたところで自宅を再建し暮らしています。家の中は、運び出してきた荷物がまだまだ整理できずに積み上げられています。使うことはないだろうと思われるものも、捨てられずにいる状態です。
先に触れた、新しい街の風景と同じように、自分たちの建物が解体された後の土地は、なにかよそよそしさが漂います。四角く砂利の敷き詰められた土地は、以前の体積としてのボリュームを失い、その中で生活した時間さえも無くなってしまうような気がします。
自分たちは、これからもあそこでの生活の話をし続け、あの場所での震災のことを考え続けていくことでしょう。そして伝える機会があれば積極的に伝える。それらは震災を体験していない人たちにとり、震災を想像することの材料となることでしょう。今後起こるかもしれない災害、いや、かならず起こる大災害に対して想像力をもつことは大事なことです。
●再び起こりうる大災害にどう備えるべきなのか
この便りでも何度か書いていることですが、震災後、市街地の海に近い地域は大潮の満潮時となると、マンホールから海水が湧き出てきて冠水状態となります。満潮時の数時間とはいえ、深いところでは通常の長靴でも歩けない通りもあると聞きます。
それらを解消すべく、解体された旧事務所跡地には、ポンプ施設ができるとのことです。海抜の低い周辺には、山から国道の下を横切り流れ込む暗渠がいくつかあり、それらが集まる場所でもあるのです。
先日のニュースで、東北沖の震源域となったプレートにかかっている力が、震災以前のレベルに復活しているという研究結果が発表されました。かなりインパクトのあるニュースでしたが、一般的にはさほど話題にならないニュースだったのでしょうか? さほど遠くない未来に大規模な震災が再来するのかはわかりませんが、その時期はともかく、誰もが3・11の震災、津波を想像することはできるし、そして限界があることも知っています。できるだけの対策は進める一方、様々な面において、人と自然の間の緩衝地帯を持つことは必要なのではないかと思います。
2月17日の8時6分、三陸沖で震度4、マグニチュード6.9の地震がありました。釜石の震度は3。野田地区にある事務所の2階で、小刻みで長い揺れを感じました。津波注意報が発令され、久慈で20センチ、宮古で10センチ、釜石では数センチの津波が確認されました。
間もなく岩手県沿岸各地域に避難勧告も出て、釜石では浸水域の5,639世帯、11,643人が対象。大船渡で1,537世帯、3,307人。陸前高田市で317世帯、1,021人となりました。
各地浸水地域に対しての避難勧告ですが、数字で見ると、釜石は改めて多くの人が浸水域で生活していることを実感しました。
自然との緩衝地帯ともいえる浸水域に、1万人を超える避難勧告対象者が居住していること、そして、そこには再び街が戻りつつあることに不安を感じます。
新しく建設された建物の壁には、津波の痕跡はありません。しかし、今となってはそこを見上げて水面の高さを見つめ続けていかなければならないのです。街の風景が変わりつつあり、盛り土や新しい道路の整備によって、以前の海抜レベルも直感的に把握できない中、難しさはあるものの、流れ込む水で町の中を満たす想像は必要なことだと思います。
4年前の2011年3月11日は、何かを思うとき、考えるときの起点です。何度となく指を折ってそこから時間を数えてきました。いま現在とは、3・11から続いている日々であり、これからもそれは同じく続いていく日々なのです。
日々どんどんと変化していく釜石の様子と、そのなかに残された3・11の記憶がくっきりと対比されます。あの日を経験した人にとっては、どれだけ時間がたっても、3・11は起点となり続けるのかもしれません。復興へ、前へ、と進んでいくことも大事ですが、それは、3・11を忘れていくこととは違います。学んだ経験を未来にどう生かして伝えていくのか、いま一度立ち止まって考えなくてはと思います。