前回このコーナーに掲載した記事に登場したO(小笠原拓生)さんより寄稿いただきました。ここに紹介します。
小笠原拓生(おがさわらたくお)●1967年岩手県釜石市生まれ。東京の美術学校を卒業後、カメラマンを目指し美術専門学校で働いていたが、1990年、難病のベーチェット病を患い、1994年失明。帰郷し地元で家業の清掃会社を継ぐ。2011年3月11日、東日本大震災によって被災。現在は、妻、3人の子どもと釜石市の借り上げ住宅に暮らしている。
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2012年2月、1年というスパイラルの輪のひとつをぐるりと回り、あの3月へ近づこうとしています。高さの異なる視点から昨年の3月を見つめ、寄り添う時期に入るのですね。
季節が移り変わり、時間は過ぎましたが、揺りやまない不安定な大地が、疲れた心や身体に「終わっていない3・11」を絶えず感じさせます。低い地鳴りが海の向こうからやってきて、揺れとともに抜けていく。一時のなにごともなかった安心感。しかし、次の揺れはそれと同じとは限らない。地面のうなりを感じると、あの3・11のギアがシフトアップしていくような先を必ず想像してしまうのです。加えてここ最近の余震の多さ、何かがまた始まろうとしている予感がします。幾度となく繰り返される揺れは、今なんとかようやく立ち続けている気持ちにまとわりつき、ストレスとしてたまり続けています。
四季の美しいこの三陸で、季節のめぐりを感じながらも、私たちはいままでに経験したことのない1年を過ごしてきました。異なる生活サイクル、新しい時間の流れ、住居、職場、体に馴染む日常が少しずつ増えてきています。しかし、一方で、3月に近づくにつれ、なにか例えようのない無力感のようなものを感じています。まだまだ変わらない事柄や風景に対峙するとき、その無力感がせりあがってきます。これから未来に対しての不安もありますが、それ以上にこの1年の経過に対して、自分がどうしようもなく無力だったのでは・・・という気持ちなのかも知れません。
被災地では変化する部分と、置き去りになり取り残された部分とが急激に離れていきます。仮設住宅を含めた新しい住居、部屋の中に置かれた新しい家電や家具、それらの中での生活。そして、あるとき唐突に触れる震災当時そのままの半壊した住居、凝固した泥など。
自分を間に、その両極はどんどんと離れていきます。どちらの時間にも密接に関わっていかなければなりません。今を生き、これからを思案し、1年前のあの日を忘れ落とさないようにしっかりとつかむ。それでも、気持ちの中に積もっていく戸惑いの距離と時間はどんどん増えていくのです。そんな時間に飲み込まれるような感覚を感じているのは自分だけではないように思えます。
釜石は、昨年末に復興の基本計画案をまとめました。湾口防波堤の再生、防潮堤の整備。市街地においては、海と街の間に延ばす6メートルの緑地帯のマウンド、地盤沈下による冠水地帯への盛り土。これらの多重防御により、浸水した地区の多くの場所をできるだけ再生しようと計画しています。10年間の復興計画の最後には、浸水地域への市庁舎再建も計画されています。
単純に(単純ではないけど)同じ地域に町を構築してよいのか? この気持ちは拭いきれません。この1年、釜石の市街地の中でも前述した時間間隔が実際の風景となり具体化してきていると思われます。隣り合う建物の一方は修繕され新しくなり、もう一方は震災直後の時間の中にある。短いけれどこの1年の中で二つの建物の間にはなんともバランスの取れない時間が漂っているように思えます。
浸水地域の中、震災前と同じ場所で店舗などの再開を決断する人、さまざまな理由で再開を保留している人。地域の土地利用に対して、人それぞれの事情や展望がさまざまで、そのことについて人と話し合えば、互いの気持ちは理解できるものの、交わらない部分も多くあるのです。同じ地域でも道路を隔てた向かいとこちらでも、とりまく状況は変わります。
私たちの事務所のある地域も盛り土する計画はあるものの、まだ具体的なことは決定していません。現在の細かなニーズと中長期的な計画とが、うまく整理できません。これもまた両者の時間が離れていく感覚です。速さを求めすぎた後、場あたり的な風景だけの釜石になってほしくない。
津波の再来という逃れられない可能性の中での復興。今回の震災により、というか、過去の津波でも同じであろう人々の思考は、忘れることを繰り返しているようにも思えます。しかし、そろそろこのサイクルを変えなければなりません。この考えもやはり今まで何度となく先人の心に刻まれたことだと思われます。
この1年、津波を含め震災の再来はありませんでした。まだ1年、たかが1年といえど、その事実は残りました。その結果、わずかずつ人々の震災への恐れも薄らいでいく・・・という変化がないとはいえません。この「被災した地域ですら」であってもです。これからの年月、その気持ちはどのように変化していくのでしょう。
復興・前進というプラスの言葉の眩しさの影で、本当に忘れてはいけないものが徐々に見えにくくなっていくことにならなければいいなと思っています。眩しさを感じつつも、ハレーションの背後にある現実もきちんと見て考え続けていかなければなりません。
今年の釜石は例年に比べて気温が低く、積雪も多い冬となっています。先日も半壊した事務所の3階から取り出すものがあり、建物の中に入りました。部屋の中の瓦礫や、使えなくなった設備や家具、崩れた石膏ボードの壁などはある程度整理してきました。そのがらんとした事務所の中に粉雪が風で流れ込んでくると、その空虚な空間が身体を冷たく包みます。建物の中ではあるものの、ガラスのない窓やあるべき壁が破壊された状態では、耳に感じる圧力も、これまでのものとは異なったものとなるのです。
自分の位置関係を確認して、そこにあったであろう風景、事務所の中の配置などを記憶の中から取り出します。壁にある照明器具のスイッチのあたりに、いままで幾度となく繰り返した慣れた動作で触れてみました。震災前の事務所の中をしばしの間、思い出す・・・。
立ち位置を変え一歩二歩と歩くにつれ、部屋を意識する感覚が不安をともなう違和感とともに力なく外へ吐き出されるようです。周りを捉えようとする感覚が壁に当たって戻ってくることなく、風に押し流されてしまうのです。
目の見えない自分、思考は映像を呼び起こし、今と過去の風景を何度も行ったりきたりします。手を伸ばして机に触れようとする。空虚・・・過去の風景の中で伸ばした手は、スカッと振りぬけて行き場を失い、今の風景の中にぶらさがってしまいます。
まだ、ここにはあの日が残っているし、それ以前の日々も残っています。この感覚は、街の風景に対しても同じです。周囲の建物が少なくなった事務所の前に佇むと、音や風の抜け方がいままでとは違う・・・。1年を経たとはいえ、身体感覚は、まだまだ過去の状態のまま残っているのです。
1月の半ば、ようやくオーディオCDを洗い始めました。昨年の5月、Kさんが釜石を訪れたとき泥の中から引き上げてくれたものです。被災した自宅の2階には簡易なオーディオルームがありました。そこへ置いていた700枚近くのCDの一部です。
癌のため入退院を繰り返していた父が、退院したらなんとかいい音で音楽を聴きたいといって、2010年の1月に整えた部屋でした。父はその年の8月に他界しましたが、それまでの半年、そこでジャズを存分に楽しみました。私も震災直前までそこで父の思い出と一緒に音楽を聴いていました。その思い入れのある部屋から拾い集めてきたCDです。
倉庫に保存していたダンボールの中から取り出したCDは、震災時の海の細かい砂と泥がこびりつき、加えてカビのニオイが鼻をつきます。ここでもまた震災直後の時間に触れることになりました。癒着したようなCDのケースをこじ開けCDを取り出した後、ぬるま湯で洗うという作業を繰り返しました。あの3月11日がお湯の中で再度溶け出します。
Kさんの言葉、「これから」に向き合っていく姿勢=「そんなぼくらの姿を未来の他者がじっと見つめているはずです」。私も同じように思います。さまざまな思考のあと、思うことは次の世代のことです。復興計画において、浸水地域で再建するということは、震災のリスクや先送りされた難問を次世代が受け継ぐということになります。
放射性物質に関わることも同じことではないでしょうか。この地上において最も危険なものを作り、生み出し、それらを不安定な状態のまま、後世に押しつけていかなければなりません。そして現在ですらそんな危険なものを作り出そうとしているのです。震災についても、原発についても「今だからできること・できないこと、できなくすること」を大胆に考える時期だと思います。
3・11以前の生活、その後の非日常的な生活。1年が過ぎ、その非日常が日常になりつつあります。思い出深い平穏な日々は、もはや夢の中でしか再生されません。しかし、今となってはそれまでの日常が手放しの平穏な日々とは思えなくなったのも事実です。そこにも光の影で動いていたものがあったのですね。
Kさんもそんな気持ちで「谷間の空中未来都市渋谷」を見ていたのでしょうか。見ていながらも見えていない、まるでマスキングされたような不自然な風景をそれとなく見るように。渋谷駅のことを読んで、東京で暮らしているときのことを思い出しました。銀座線に乗り換えるときに階段を駆け上る自分。あのときの違和感は不安とは異なりました。むしろ不思議な出来事のように楽しんでさえいたと思います。
しかし、あのときとは違う視点をいまの自分たちは持っているはずです。今、多くのことに気づいた私たち、さまざまなことを見直すことは引き返すことではありません。気づいたときにとるべき手段は、わかりやすく単純で当たり前なもののようにも思えます。
釜石では仮設住宅のある地域に隣接した、これもまた仮設の集合店舗がオープンし始めました。災害対策本部のある鈴子地区にも、名物だった呑ん兵衛横丁を含めいくつかの店舗が再開しています。さまざまな思いを抱え、歩き出していく釜石を感じさせる風景なのでしょう。
もちろん、変わらない当時のままの風景、2度目の季節の中でみるそれら、「早急に処理すべきもの」という視点だけでみることはできません。それらもこれからのためにきちんと見つめるべき風景なのです。また釜石へ来てください。一緒に釜石を見つめ、話をしましょう。