被災地とつながる

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前回このコーナーに掲載した「O君への返信@横浜」(北川裕二)の記事に登場したO君(小笠原拓生)より寄稿いただきました。ここに紹介します。

 震災から半年が過ぎました。いろいろなメディアでこの言葉が毎日毎日聞こえてきます。
 復興に向け動き出している部分、動きたいけど動かせない部分、そしてどういった対応をとればよいのかが不明な部分が混在しています。
 思い出せば、震災直後は今とは比べられないほど混沌とした状況にあったにもかかわらず、シンプルな思考で動いていました。とにかくその瞬間にやらなければならないことがあり、時間がかかっても、どんなことをしてでもそれにたどりつき処理しなければならない…という時期でした。小さいとはいえそれらのことが完了すると、達成感や満足感を持つことができ、次へ向かう力となっていました。
 半年が経ち、おぼろげなりにも、先のことにイメージを向ける際、やはりまだまだ決定できないことが多く、震災直後とは異なる焦りと不安が充満しています。
 津波の浸水地域に半壊の自宅がある自分にとり、今後の区画整理を含む都市計画が打ち出されないこの時期、どの方向へベクトルを向けていけばよいのか…と焦燥感にまとわりつかれてます。

 現在の、釜石の市街地では、住宅の取り壊し、商店街の歩道に設置されていたアーケードの撤去作業が進められています。被災した後の街とはいえ、見慣れた風景が、金属のきしむ音とともに解体されていくのに非現実な今を強く感じています。
 そのすぐ横では二つのビジネスホテルや、いくつかの飲食店が営業を始めました。メディアでは復興がかなり進んだイメージのニュースが多く報道されています。もちろんそれも事実で、素直に嬉しいことでもあります。
 しかし、さまざまな人たちがいて、異なる側面・問題をもち、まだまだ始まったばかりか、立ち上がれていない部分も多くあるのです。
 未だに家族が見つかっていない方々、死亡届を出せない心境。仮設住宅での冬越えに対しての不安。またその先の住まいの問題。
 今後、より具体的な方向性が定まってくれば、それに向かっていけるのかもしれないが、今現在していることは次へ繋がるのか? どこかの時点でそれが無駄となるのか。そういう悩みの中にあります。

 現在この原稿は、我が家=県の民間借り上げアパートで書いています。2段ベッドの下段スペースが自室。下段ということで、座るにも十分な高さがなく、仰向けになって腹にワイヤレスキーボードを載せてタイプしています。それでも自分の空間があるということは大事なこと。小さなことなのですが、身体に近い部分から環境を整えていくことは、着実に手ごたえがあります。

 この、いわゆる“みなし仮設”へは6月頭に入居しました。
 4月の半ばころより、民間物件への自力入居にも補助を適用…という報道がされ、仮設にも希望も出しつつ、自力入居の手続きも進めていました。
 この制度を利用しようと動き始めたころは、県と市町村との連携がとれていない状態で、物件のめどはついていたものの、手続きにはかなりの不満と不安がありました。県の制度が発表され、メディアで報道されても、実際それらの手続きをする市町村にはその説明が届いておらず、体制が整っていなかったようです。

 どうなるかわからないながらも、手続きを進めていこうとなんだかんだやっている時期、仮設住宅の当選連絡がありましたが、それをキャンセルして自力入居をすすめました。
 結果、しばらくして市の窓口の体制も整い、入居することができたのです。
 我が家は6人家族。自分たち夫婦、小学校・中学校の子供3人・そして私の母。この家族構成だと、仮設に入居する場合、2つの世帯に分かれてしまう形となります。もちろん仮設住宅の場所は同じ地域ですけど。しかし、玄関が別々の家に分かれて住むということに対して、毎日の生活を送るのに、不便な部分をまず初めに想像してしまいました。
 というかこの時期、なかなか完成しない仮設を待つより、なんとか早く自分たちの落ち着く場所がほしいという気持ちが先立っていました。

 旧自宅から持ち出すことができた家具や、2カ月半の避難生活の支援物資などで3DKのアパートはすぐにいっぱいとなりました。新しい住居で生活するにあたり、工夫した点の一つは、ロフトベッドの利用。いわゆる2段ベッドの下段が机となっているもの。子供たち3人はこれを使うことによって、布団1枚分のスペースの中で、立体的な自分の部屋を確保することができました。相変わらずすぐに乱雑な空間となっていますが。
 この時期だからこそ、自分たち家族の空間、そしてもっとパーソナルな空間というものが、とても貴重と感じられます。

 そうやって、新しい生活の場で、新しい日常もできてきたいま、少しの安らぎや安定を得ることはできました。
 しかし、人によってはこの「安定」という言葉の周りに「孤独・不安」が降り積もってくることもあります。どうしようもない不安を伴う思考を巡らす時間が多くなる…ということ。これは仮設住宅に一人暮らし…というケースだけではないはず。
 うちの母親も1ヶ月ほど前から、気分の落ち込みがひどくなり、安定剤・睡眠導入剤を使わないと寝ることができなくなりました。そして幾度かの過呼吸症候群。
 昨年の8月の父の死。そこから半年過ぎの震災は、ようやく充電しつつあった気持ちに再度のショックをあたえました。そこからの落ち着かない転々とした生活、ようやくアパートに入ることができ、落ち着いたときには残っていたエネルギーも0になってしまったのでしょう。
 いまは地震や津波の話をするのはいやだといっています。メディアでの震災検証番組、友達同士での震災当日の話など、いまの自分の心ではその話題を受け止められないとのこと。浸水した市街地へ行くことも拒みます。加えて収まらない余震の先にイメージされる再度の大地震と津波。

 なにより現在、「生きがい」を見出せず、今の思考から抜け出した後は果たして自分の信条はどこにあるのか? という終わりのないループに入り込んでいるように見えます。不安を和らげ再び気持ちのエネルギーを充電していく「プラス要素」を見つけていくのは簡単なことではないと思われます。
 仮設住宅など、ようやく手に入れた自分たちの場所は、もちろん次へ向かうきっかけ、再スタートの場所ではあるものの、孤独や不安とがっちりと見詰め合う時間もどっさりと与えてくれるものなのでしょう。

 自分にしても、ふと時間がぽかりと空いたときや、寝る前などに思うことは、決まってあの3月11日のこと。
 揺れの瞬間から始まり、津波の襲来、すぐそばでの身近なひとびとの死。それらの出来事を詳細になぞってしまうのです。
 揺れの中での自分の足取り、今はいない人たちとかわした言葉、触れて確認しためちゃくちゃな事務所の状態などなど。何度もなぞり、前後の事柄の順序の確認をして、小さな判断を精査する…。あのとき違った行動をしていれば、確実に今の過去が変わっていたのではないだろうか? …と。

 そんなことを半年経ったいまでもやっているということは、まだまだあの瞬間の中にいる部分があるのでしょう。

 目が見えないながらも、なぜだか回想の記憶は映像としておもいだされます。20数年間見てきた映像のストックは頭の中に存在しています。それらは新しく想像する映像の記憶の素材にもなるのです。今回も自分が触れたもの、におい、聞こえたものはストックされた映像を素材として、新たな映像の記憶を作り出そうとしています。
 先日、娘とYouTubeで釜石の津波映像を見ました。その動画にはわが家のすぐ裏の壁の向こう側、建物と海との間のスペースに第1波が押し寄せ、水が満たされている時間があることが記録されていました。この瞬間、塀の市街地側にいる自分たちは津波の存在に気づいていませんでした。

 あらたな情報を知り、自分の感じた時間と相対的に比較し、つきあわせていくことによって、だんだんとあの瞬間の詳細を知ることができます。
 ネットの動画に限らず、いろいろな人と会い、あのときの話をすることでも同じように発見があります。何度も思い出し、新しい情報で記憶に肉付けをしていく。自分の中でも記憶の映像がよりリアリティを持ってきます。
 回想する自分の記憶の視点は指先に触れたぐちゃぐちゃの机上から、かけ上る階段に散乱したガラスの鋭さを確認し、建物の屋上に抜ける。視点はそのまま上空へ上がり、波に飲み込まれ破壊される街を俯瞰する…。
 映像的に想像する風景は、もちろん実際のものとは異なるのでしょうが、比べることができない自分の映像は、とにかく自分なりの真実でもあります。

 この半年間、もっともっと詳しく街の状態を理解したい、街の位置関係と津波の被害の状況を把握したいと貪欲になっていました。家族を含め、身近な人たちは、何度も何度も町の状況を尋ねる自分に面倒くさい…と思っていたんじゃないでしょうか。 
 今でももっと多くのことを知っておかなければと、焦ってもいます。この感覚は母の気持ちとは反対なもののようにも思えますが、心の中に不安が充満しているということは同じなのでしょう。

 Kさんの地形に対する観察、興味深いです。生活の中で身の周りにある山・河川・高台・がけなどは、あまりにも当たり前に存在していて、それらに対して疑問をもつことはありませんでした。自然の景観なのですが、街中にある建築物の一部のような認識すらあったかも知れません。
 釜石の地形は、海があって、狭い平地、すぐに山が立ち上がる…という形になっています。山の立ち上がりの部分では、岩肌が露出している場所も少なくなく、以前は海の波打ち際だったのだなということを想像させます。
 津波の被害にあった自宅は、やはり以前は海もしくは湿地とのこと。硬い地層は無く、基礎工事のためにボーリングをしたところ、柔らかな砂の層しか確認されませんでした。

 今回の地震により、沿岸部の広い範囲で地盤沈下が起こっています。釜石も60~80cmほど沈下しているようです。
 震災以来、大潮になると海に近い道路は冠水してしまいます。海からの直接的な冠水のほか、マンホールから水が染み出てくる地域もあります。
 冠水する道路が自分たちの生活道路の場合、やむをえなくその道路を車で通らなければならず、車体の底・足回りはかなりのサビで傷んでいるとのことです。次の車検は通らないのでは? という知人もいました。

 9月30日(金)17:00。釜石市の防災無線が放送され、釜石市街地の国道が高潮のため冠水し、通行止めとなりました。一帯は旧事務所を含む飲食店の多かった大町・只越町地区で、前述の二つのビジネスホテルも含まれる地帯です。
 旧自宅のすぐ裏には排水路があり、その上には釜石の名物風景となっている呑ん兵衛横丁がありました。ほぼ暗渠のようになっている水路は、満潮時には海水が逆流してきます。
 この排水路に対して高台方面から直角に流れ込むこれまた暗渠がいくつかあり、満潮時になると排水能力が低下して冠水するのだと思われます。これは以前からの問題で、地盤沈下後、この部分にはとても強い心配と関心を持っていました。

 先日も用事があり夕方に旧事務所へいったところ、側溝から海水がどんどんと逆流してきて、みるみるうちに道路が冠水していきました。車で通るには躊躇せざるを得ない量の冠水です。通行する車の水をかき分けて走る音が不安な気持ちにさせます。
 しかし、このところの冠水は異常な状態です。
 3月11日の本震による地盤沈下の後も余震の都度、沈下し続けているのではないかという人もいます。水面の高さが上がってきている、冠水の範囲がじわじわと広がっているとのことです。

 これを書いている今は、10月2日(日)。夕方の冠水と通行止めは3日間続いています。満潮時の現象とはいえ、今後の都市計画の中ではこの冠水問題は重要です。なにより今の対策もとらないとならないのです。すでに営業を始めている数軒の飲食店、上階が使える状態で残っている建物も少なくないこの地区、これからの計画の方向はどうなるのか。応急的であっても、何か早急な対策が必要です。
 水は低い場所に集まる…単純なことですが、その現象が今まで見慣れた街に別の視点を加えました。津波の浸水マップとはまた異なるマップが必要でしょう。
 そしてよく聞くことは、「海が近くなっている」、また「以前の海に対する感情とは違うものを感じる」という言葉。周辺の海水浴場も砂浜がまったく無くなったところもあります。実際に、以前は海ではなかった場所が、海となっています。今まで数十年見慣れている風景に海が侵食してきているような感じなのかも知れません。
 今回の震災により、Kさんと同様に改めて自分たちの町の地形というものに目を向けています。この冠水のような事実は、じわじわと、正に浸水してくるように不安を流し込んできます。その事実から新しい視点を持ち、地形に関心を向け、過去と未来の風景を想像していかなければならないと感じています。

 これから冬にむかいます。ここ数日気温もぐっと下がってきました。冠水もこのまま続くのであれば、凍結の問題なども出てくるのかも知れません。
 とにかく始まったばかりの復興。ニーズに対しての細かい部分の対処と、今だからこそできる新しい地域の構築。
 そして、もうこれ以上、人命を失いたくありません。今回の震災だからこそ、できることがあると思います。
 後世にどのようにこの地域を受け継ぐか…しっかりと考えた復興、そして個人の選択をしていきたいと思います。

 

  

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