│その1│その2│
いよいよ衆院選まで1週間足らず。世論調査では、国防軍の創設や社会保障の切り捨てを掲げる党が「圧勝」の声も聞こえてきます。不気味な不安感が高まる今だからこそ、私たちの社会がそうした方向に向かってきてしまった理由を、改めて考えたい。映画監督の想田和弘さん、政治学者の中島岳志さんによる対談は、そのヒントをいくつもくれるように思います。総選挙を前に、改めてお2人からのメッセージもいただきました。
中島岳志●なかじま・たけし1975年生まれ。北海道大学大学院法学研究科准教授。専門は南アジア地域研究、近代政治思想史。『ヒンドゥー・ナショナリズム』(中公新書ラクレ)、『中村屋のボース─インド独立戦争と近代日本のアジア主義』(白水社)、『パール判事─東京裁判批判と絶対平和主義』(白水社)、『朝日平吾の鬱屈』(筑摩書房)、『秋葉原事件―加藤智大の軌跡』(朝日新聞出版)など著書多数。「ビッグイシュー」のサポーターであり、「週刊金曜日」の編集委員を務めるなど、思想を超えて幅広い論者やメディアとの交流を行なっている。twitter はこちら→@nakajima1975
想田和弘●そうだ・かずひろ1970年栃木県生まれ。東京大学文学部卒。スクール・オブ・ビジュアルアーツ卒。93年からニューヨーク在住。台本やナレーション、BGM等を排した、 自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践。その第1弾『選挙』(07年)は世界200カ国近くでTV放映され、米国でピーボディ賞を受賞。ベルリン国際映画祭へ正式招待されたほか、ベオグラード国際ドキュメンタリー映画祭でグランプリを受賞した。第2弾『精神』(08年)、番外編の『Peace』(10年)も世界各地の映画祭で上映され、受賞多数。最新作『演劇1』『演劇2』が全国で順次公開中。著書に『精神病とモザイク』(中央法規出版)、『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『演劇 vs. 映画―ドキュメンタリーは「虚構」を映せるか』(岩波書店)がある。
twitter はこちら→@KazuhiroSoda
◆進行する「断言」と「単純化」
中島
もう一つ、僕が今非常に大事だと思っているのは、「言葉」の問題です。想田さんは以前、雑誌『世界』に寄稿された文章の中で、橋下大阪市長を熱狂的に支持する人たちが口にする言葉が「既得権益だ」「対案を出せ」など、橋下さん自身の使う言葉ととてもよく似ているということを指摘されていましたね。まったくそのとおりだと思います。
橋下さんの言葉は、いつも非常に強く響きます。それは、悪いのは公務員だ、朝日新聞だ、文楽協会だといった具合に、言葉が具体的――というよりも攻撃目標をはっきりと具体的に定めているからだと思うんです。一方、それに対抗する人たちの側の「人権を守れ」「平和を守れ」といった言葉は今、なかなかリアリティを持って響かず、人の心に届かなくなっているという状況がある。
想田
橋下さんや彼を支持する人たちは、多分ものごとを単純化することに恥ずかしさを感じない。だからあそこまで「言い切り」ができるんだと思うんです。一方、僕もそうですけど、彼らを批判する側は、複雑なものはなるべく複雑なままに述べようとするし、単純化することにためらいがある。それは尊重しないといけない、守っていかなければいけない態度であるはずです。ところが今の時代、そうした態度が不当にも「弱さ」に見えてしまうという側面もあるんですよね。
中島
「断言」や「ぶっちゃけ」が受ける時代だということですね。テレビ番組などを見ていても、司会者のタイプが昔とは変わってきていると感じます。
例えば、僕が中学生くらいのときに見ていたワイドショーの司会って岸部シローとかで(笑)、「じゃあ次のコーナーへ」くらいしか言わなかったんですよ。でも、今はみのもんたに代表されるように、「ずばっと言う」「断言する」タイプが受ける。これはまさに単純化ですよね。
この変化にはやっぱり1995年という年が、大きな影響を与えたのではないかと考えています。95年は阪神大震災があって、地下鉄サリン事件が起きて、そして戦後50年。それまでの日本がずっとしがみついてきた、高度経済成長の「物語」が完全に崩壊したのがあのときだったと思うんです。
この年、ベストセラーになったのが『脳内革命』(春山茂雄著)や『遺言』(松本人志著)。どちらも「断言型」の本です。同じく断言型の、小林よしのり『ゴーマニズム宣言』が大ヒットしてきたのも同じ時期。このあたりから、テレビの司会者もどんどん断言型になっていく。90年代半ばから徐々に出てきたそういう流れが、2012年の今一気に噴出しているのかなという気がしています。
想田
それはもしかしたら、価値観がゆらぐ中で、自分たちがどうしていったらいいかわからなくなってきたという不安、自信喪失の裏返しかもしれないですね。
中島
そう思います。僕自身にとっても、1995年は大きな意味のあった年でした。当時僕は20歳でしたけど、バブルが崩壊したとはいえ、いい大学に行けばそれなりにいい就職先があるといった「物語」をまだどこかで信じていた。阪神大震災で、「絶対に倒れるはずがない」と思われていた高速道路が崩壊したのを見たときに、その「物語」も完全に崩壊したんですよね。自分たちがずっと追い求めてきた、抱きしめてきたものは、実は全部虚構だったんじゃないか、と感じた。
その一方で、震災の3日後くらいに、大火災があった神戸の長田区で、ひとりのおばあさんが自宅の焼け跡から必死で位牌を探しているのを見たんですが、それが非常に「普遍的な人間」の姿であるように思えました。50年間、みんながコンクリートの巨大な建物のほうばかりを見ている中で、ずっと隅に追いやられてきた「信仰」という価値が、彼女にとっては何よりも大切なものだった。戦後50年って何だったんだろうと、そのとき改めて思いました。
そこから僕は宗教やナショナリズム、人間のアイデンティティといった問題に関心を持って、研究者の道を進むことになるのですが、その原点は、断言や単純化、「わかりやすさ」と言われるものへの違和感だったような気がするんです。さまざまな事象に対して、単純化とは違うアングルを示す。それが、僕がこれまで研究者としてやってきた作業なのかもしれません。そして、その志向性は想田さんの作品と、どこかで繋がっているように思います。
◆描いたシナリオが「崩れた」ところにこそ着目したい
中島
その後、僕が初めて本格的なフィールドワークを経験したのはインドなんですが、そこで自分がやろうとしたことと、想田さんがご自身の提唱する「観察映画」でやろうとしていることは、とても似ているんじゃないかなと思っています。
インドに行ったのは、当時原理主義化が進んでいると言われていたヒンドゥーナショナリストたちのことを調べるためでした。彼らのところに「潜入」して、危険な人たちの危うい部分を調査してこようと、事前にある程度のシナリオを描いて、指導教員にプロポーザル(企画書)も提出して、出発したわけです。
ところが、現地に着いて1カ月も経つと、悩み始めてしまった。なぜなら、思い描いていたシナリオどおりのことなんて、いっこうに起こらないから。「とんでもないやつ」だったはずのヒンドゥーナショナリストが意外にいいやつだったりと、想定していたことがどんどん崩れていくんですね。
だけど、そのときに思ったのが、そうして「崩れた」ところこそ面白いんじゃないかということだったんです。
想田
そのとおりですね。
中島
多くの研究者は、もともとのプロポーザルの中に、実際に起こった現象を押し込めようとする。でも、それは違う。プロポーザルから外れたところがあるほうがリアリティがあって面白いんだから、そこを大事にしようと思うようになりました。
想田さんの「観察映画」もそうですよね。前提は抜きにして、まずは撮影する対象と向き合う。しかも、先入観からは外れた部分をこそクローズアップしていくというか。だから新作の『演劇1』『演劇2』でも、平田オリザさんが寝ているシーンが何度も出てきたりするわけで(笑)。
そういう「外れた」部分に着目することが、「橋下的なるもの」に違和感を持つ僕らがやるべきことなのかなと、勝手に思っていたんです。非常に遠回りではあるんですが。
想田
僕もそう思います。橋下さんやそれを支持する人たちに対して、彼らと同じ手法で対抗するのは、武力に対して武力で立ち向かうというか、「平和のための戦争」みたいな自己矛盾であって、非常に危ういところがある気がするんです。
中島
先日『週刊朝日』に掲載されて問題になった佐野眞一さんのルポにしても、あの記事自体が非常に「橋下的」な手法だと感じました。橋下さんに対抗しているようでいて、実は「橋下的なるもの」を推進する力になっている。そこに僕は決定的な違和を感じたんですね。
想田
橋下さんの言説や使ってきた手法は、いわゆる差別意識と非常に親和性が高いと常々感じています。
例えば「あの人は在日だから」「部落出身だから」といって差別する、それはその対象である人を個人として見るのでなく、記号化するということ。「在日」「部落」というラベリングをして、そのカテゴリーに人を押し込めるということですよね。橋下さんも同じように、「公務員は身分保障の上にあぐらをかいてる役立たずだ」とか「学者は能無しだ」とラベリングをして、差別意識を煽ってきました。それに反対するためには逆のことをやる必要があると思います。
つまり、レッテルを外してその「人」そのものをよく見るとか、その人が口にする言葉そのものにちゃんと耳を傾けるとか…。時間のかかる作業ではあるけれど、そういうことを一つ一つやっていくしかないのかなと思っています。
そう言いつつ、僕も「なんとかしなくちゃ」という思いが強くて、時々強い断言口調で、いわば「橋下的」なツイートをしてしまうこともあるんですけど(笑)。それも、断言口調でやればやるほど、リツイートされる回数が多い。これは慎まなくちゃいけないんだろうなと、反省している点でもありますね。
中島
対抗するためには、同じ土俵に乗るのではなく、違うアリーナをつくりだしていく必要があるんですよね。
そのとき重要になってくるのが、ここでもまた「言葉」の問題です。言葉を考えるということは、その周囲の概念とか手法をすべて考えることでもあります。これまで、例えば「人権」や「平和」という言葉を使えば、その意味は誰にでも通じていると思っていたけど、本当にそうなのか。僕たちは、その部分をもう一度考え直して丁寧に紡ぎ直すことで、人々の心に届く言葉を作っていかなければならない。言葉が硬直化すると、どうしても空々しくなってしまう。何かをショートカットし、杓子定規な枠組みに押し込めるようになってしまうと思うんです。
◆政治の場までもが、猛スピードで「消費」されていく
想田
前回の冒頭で「スピード感」という話が出ましたけど、橋下さんやその周囲の動向は、すごくスピードが速いでしょう。であれば、それに対抗しようとする側は、ゆっくりと、むしろスローダウンしていく必要があるのかなとも思います。何か一つのことをやって、それで一発でチェンジするようなことではないし、少しずつ着実にやっていくしかない。焦ってもしょうがないということを、忘れてはいけないと思います。
中島
そうですね。
想田
映画をつくっていてもいつも思うことなんですけど、すぐ目に見える結果というのは、あまり期待しないほうがいいんですよね。例えば、もう5年も6年も前につくって公開された、ある意味で僕にとってはもう「終わった」作品を、今でもどこかでいろんな人が見てくれていて、思わぬところでその話が出てきたりする。それと同じで、全然予期せぬところで、予期せぬ形で「結果」が出てくるかもしれない。焦って結果を求めるんじゃなく長いスパンで見ていかないと、大事なことを見誤ってしまうんじゃないでしょうか。
橋下さんのことにしても、橋下徹という人のことだけを考えるのではなく、もっと長い目で見ていかないといけないと思います。これだけ商品も、そしてニュースも言説も消費される時代ですから、多分これから、橋下さんという人も消費されていく。そしてその次には、また彼のかわりに消費される人が出てくるんだと思います。
中島
僕たちが抵抗したいと思っているのは、橋下さん個人ではなくて「橋下的なるもの」全体なんですよね。橋下さんがいなくなっても、絶対にまた同じような存在が出てくる。その繰り返しをなんとか断ち切りたいわけで…。そのためには、思考のスパンを長く取らないと対応できない。
非常に怖いなと思うのは、橋下さんのやり方が世の中に受けるのを見ていた政治家が、その方向に寄っていくことです。「ああいうことをやれば受ける、票が取れる」と思えば、絶対に真似をする政治家が出てきます。
想田
生活保護をめぐる問題での片山さつきさんの発言などは、すでにそれを意識的にやっていた気がします。言っている内容はもう、在特会(※)と変わらなかった。
※在日特権を許さない市民の会…日本社会において在日コリアンが不当な「特権(在日特権)」を得ていると主張し、その撤廃を目標に掲げる市民団体。各地でデモや街宣活動を展開しており、その中では「在日を殺せ」「外国人を叩き出せ」といった過激な排外主義的発言も多く見られる。
中島
どんな手法を使ってでも、なりふり構わず支持を集めたいと考える。そういう場に政治がなってしまっているんですね。
想田
政治の場にも余裕がないし、あまりに動くスピードが速い。政治の場もまた、消費されているんだと思います。民主党による政権交代も、一種の消費の対象になってしまいましたね。
政治が「消費される」ことの一番の問題は、そこから当事者性が欠落してしまうことだと思います。本来は政治とは私たち自身の問題です。政権交代にしても、民主党政権を誕生させた以上、それをうまく生かす責任が私たちにはあったはずなのに、多くの人が自分たちの問題として捉えるのではなく、「おまえら何をやってるんだ」と文句を言うほうに回ってしまった。
自分たちは、票とか献金という対価を支払って政治サービスを受けているのであって、政治家はその提供者である、という意識ですよね。そこからは当事者性は生まれ得ない。これは、政治家にとっても気の毒な状況だとは思うんですけど…このまま行けば、民主党の次は橋下さんや石原さんが消費されて、また同じような政治家が出てきて、ということになりかねません。
◆社会の中に、熟議のための時間と空間を
中島
これは、「世論とは何か」という問題とつながってくるんだと思います。よく僕が例に挙げるのは、内閣の支持率についてです。この10年間、内閣発足時の支持率はほとんどが戦後のトップテン入りしています。つまりこの10年、ものすごく政府は支持されていたはずなのに、なぜか政治不信は拡大するという逆説が生まれている(笑)。急上昇が急落と背中合わせなんです。
しかも、最近はその急上昇急落が「決断主義」とつながってきていると感じます。最初にそれに気づいたのは、当時の小泉首相が靖国参拝をした2006年の8月15日。直前の世論調査では、「行くべき」と答えた人は2割で、4割が「行くべきではない」と答えていました。しかし、小泉さんが実際に参拝をして、「私は抵抗勢力に屈しない。断固たる決断をして行動した」という会見をした後、再び世論調査をやったらこの2割と4割が入れ替わってしまったんです。僕は、この「入れ替わった」人たちが、ファシズムを支える人たちだと確信しています。「行くべき」「行くべきでない」という意見をきちんと持っているわけではなく、「決断した」という行為そのものに反応しているわけですね。
同じ現象が起きたのが大飯原発再稼働のときです。毎日新聞が「野田内閣が大飯再稼働に踏み切ったこと」について聞いた世論調査では、反対が7~8割で賛成は1割に過ぎなかった。ところがJNNがほぼ同時にやった調査では賛成が6割で、反対は2~3割。主語が野田首相ではなく「橋下大阪市長が」だったからです。
想田
それはすごいですね。
中島
つまり、大飯原発再稼働の是非は問われていなくて、重要なのは「誰が決断したか」。それが「決められない政治」とか言われている現状の裏返しなんですね。明確なオピニオンではなくて、政治家のキャラクターや、「決断した」という行為自体に対する評価で物事が動いていく。これは民主制の崩壊です。
そして、この状況とつながっているのが、社会の中から「中間領域」が失われたという状況だと思います。今、ほとんどの人にとって、政治や社会問題とつながる回路は、テレビをはじめとするメディアしかありません。会社では政治の話なんてしないし、町内会などの中間的なコミュニティに参加するわけでもない。そうなると、政治の問題を考えるのは、テレビとの「一対一の関係」を通じてだけ、ということになってしまいます。
愚民論を展開するつもりは全然ありません。ただ、大衆とメディアが一体化したときにポピュリズムが発生するというメカニズムはたしかにある。フランスの思想家・トックヴィルは、19世紀にすでにこんなふうに予言しています。「アメリカの民主性がまだなんとか機能しているのは、教会などの組織が非常に分厚くて、みんながパブリックに通じる回路があるからだ。しかし今後、メディアが拡大して人々がメディアと一対一の関係を持ち、中間領域が失われたときに、ポピュリズムが生まれ専制が生まれるかもしれない」と。
今、日本で起きているのはまさにこれだと思います。だから僕はそこに対抗するために、昔の共同体ともまた違う、政治の話なども自由にできるコミュニティ、「中間領域」をつくりたい。そう思って、商店街活性化などの活動にかかわったり、ソーシャル・インクルージョン(社会的包摂)ということをずっと言い続けているんですね。
想田
平田オリザさんも「ゆるやかな共同体」ということを言われていますね。かつての町内会のような伝統的な共同体が崩壊して、しかも面倒だからみんなそういうものには戻りたくないと言っている。でもだからといって、共同体がまったくなくていいのかというと、そういうふうには人間はできていない。これからは、ひとりの人が例えば演劇グループにも参加し、サッカーチームにも加わり、というように、みんながいろんな集まりにちょっとずつ顔を出す、そういう関係性をつくっていくことが必要なんじゃないかというお話でした。僕もそう思います。
中島
日本社会って、上司と部下、先輩と後輩、同級生といった縦横の関係がとても強いですよね。それらとは違う「ナナメの関係」をたくさんつくっていくというのが、これからの共同体のあり方じゃないでしょうか。利害関係もないそういう場だからこそ、政治について話しやすかったり、熟議の空間が生まれてきたりすると思うんです。
ただ、それを実現させるためには、やはり社会全体に余裕がないと難しい。みんなとにかく忙しくて、本も買えないし映画館に行く時間もない、そんな状況で「政治のことを考えろ」って言ったって無理でしょう。非正規雇用の労働者の多くは、生活に精一杯でデモも行けない、社会参加の機会も持てないという状況にあるわけです。
でも、そこをなんとかこじ開けていかないと何も始まらない。労働問題も含めて、大きく考え方そのものを変えていきながら、熟議のための空間と時間をつくっていく。それがデモクラシーにとってとても重要だし、地味だけど「橋下的なるもの」に対しての唯一の処方箋になるんだと思います。
想田
多分今、日本という国がすごいピンチに追い込まれていることもあって、みんな焦っている。でも、焦ってとにかく一生懸命やらなきゃ、ではなくて、ピンチだからこそスローダウンして、一つ一つのことをじっくりやりましょう、というマインドセットに変えていかないとダメなんでしょうね。
僕自身の慌ただしい生活を考えると、「おまえが言うな」という感じですけど(笑)。まあ、僕の場合、せめて本業の映画作りだけは、じっくりとスローにやっていきたいと思います。『演劇1』『演劇2』を作るのに4年もかかったのは、じっくりしすぎたかもしれませんが(笑)。
中島
僕たち自身が余裕を失って、あくせくしてますからね(笑)。でも、焦って結果を求めないようにしようとするだけでも多分全然違ってくるんだと思います。2013年は「アンチ・スピード感」で行きたいですね。
構成/仲藤里美 写真/マガジン9
─対談を終えて&総選挙を前に─
今回の衆議院選挙での民主党のスローガンは「動かすのは、決断」です。前回の衆議院選挙では「国民の生活が第一」を掲げていました。この「セーフティーネット強化」から「決断」へと変化した過程こそが、日本のデモクラシーの危機を映しだしていると思います。
これはもちろん民主党に限定された問題ではありません。日本の民主制のあり方が、根本的に問われているのです。民主制は、本質的にまどろっこしく、そう簡単に決定が出来ないようなシステムになっています。これは長年の人類が積み重ねてきた経験知によるものであり、先人の知恵の結晶です。簡単に決断できる政治は、必ずや議論を抑圧し、少数者を圧迫します。デモクラシーの本質は決断にあるのではなく、合意形成のプロセスにこそあります。
私たちは、私たちが直面している危機に自覚的になる必要があります。私たちは、何を真に保守すべきかを熟慮しなければならない地点に立っています。(中島岳志)すべてをスローダウンしようという僕らの願いも虚しく、物凄い「スピード感」で解散が決まり、衆院選が始まった。対談では、最近ずっと警戒してきた橋下市長のことばかりが話題に上ったが、改憲や原発推進を掲げる安倍自民党が支持率でリードし、選挙後に維新の会と連立する可能性も取り沙汰され、正直、僕はちょっと焦っている。だが、焦ってはいけない。どんな結果になるにせよ、今回の選挙ですべてが決まるわけではないのだ。僕も含め、日本人の多くは3年前の「政権交代」に期待し過ぎて、期待はずれの結果にガッカリして、「もう政治はどうにもならない」というシニシズムに陥りかけている。その愚を繰り返してはならない。選挙結果も、長い目で見るようにしたい。(想田和弘)