音楽やナレーションを使わない独自のドキュメンタリー「観察映画」シリーズで知られる映画作家の想田和弘さん、シンガーソングライター・作家として活動しつつ、「ホームレス」の自立を支援する雑誌『ビッグイシュー』サポートにも取り組む寺尾紗穂さんによる「マガ9対談」です。想田さんの最新作『牡蠣工場』をはじめとする互いの創作活動について、そしてそこから見えるさまざまな問題について……これが初顔合わせのお2人ですが、話すうちに見えてきた共通点も。2回に分けてお送りします。
想田和弘(そうだ・かずひろ)映画作家。1970年栃木県足利市生まれ。東京大学文学部宗教学・宗教史学科卒。スクール・オブ・ビジュアルアーツ映画学科卒。93年からニューヨーク在住。台本やナレーション、BGM等を排した、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践。 これまでの監督作品に『選挙』『精神』『Peace』『演劇1』『演劇2』『選挙2』があり、国際映画祭などでの受賞多数。著書に『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『熱狂なきファシズム ニッポンの無関心を観察する』(河出書房新社)、『カメラを持て、町へ出よう 「観察映画」論』(集英社インターナショナル)、『観察する男 映画を一本撮るときに、監督が考えること』(ミシマ社)などがある。最新作の「観察映画」第6弾『牡蠣工場』は2月20日より全国公開。
寺尾紗穂(てらお・さほ)1981年東京都生まれ。大学時代に結成したバンドでボーカル、作詞作曲を務める傍ら、弾き語りの活動を始める。2007年、ピアノ弾き語りによるメジャーデビューアルバム『御身 onmi』が各方面で話題に。2015年には7作目となるアルバム『楕円の夢』をリリース。大林宣彦監督作品『転校生 さよなら あなた』や安藤桃子監督作品『0.5ミリ』などの映画、CMに楽曲を提供、ノンフィクションやエッセイなど執筆の分野でも活躍中。2009年よりビッグイシューサポートの音楽ライブ、座談会、炊き出しなどを行う「りんりんふぇす」を主催。10年続けることを目標に取り組んでいる。著書に『評伝川島芳子 男装のエトランゼ』(文春新書)、『南洋と私』(リトルモア)、『原発労働者』(講談社現代新書)などがある。
食べ物がつくられる、
その現場で起こっていること
──想田さんの最新作『牡蠣工場』は、岡山県の小さな牡蠣工場で働く人たちの姿を追ったドキュメンタリーです。まず寺尾さんから、ご覧になっての感想をいただけますでしょうか。
寺尾
牡蠣ってこんなふうにつくられてるんだと、ちょっとびっくりしました。今まで、誰かが剥いて売っているんだろうなと思ってはいても、やっぱりその先がきちんと想像できていなかったんですね。これは他の食べ物──もっといえば何の製品でもそうですけど、「誰かが労働してつくっている」ことは分かっているつもりでも、具体的にどういう問題がそこにあるのかを突っ込まれると、ほとんどの人が答えられないと思うんです。その現場で起こっていることを伝えてくれる、すごく貴重な作品だと思いました。
想田
ありがとうございます。
映画『牡蠣工場』より。
働く人たちが牡蠣の殻を一つひとつ剥いていく工場の光景
(c)Laboratory X, Inc.
寺尾
「3K」という言葉が出てきたり、研修生としてやってくる中国の人たちへの偏見を口にする人がいたりと、ちょっとショックを受けた場面もありました。工場のカレンダーに「中国来る」って書いてあったりするのが、すごく生々しいですよね。
想田
「何が来るんだろう」という感じですよね(笑)。僕もあれを見るまで、牡蠣工場に中国人労働者が来る予定だというのは全然知らなくて。「中国」の文字に興味を惹かれて聞き耳を立てていたら、どうも2人の中国人がやってくるらしいということが分かって、そこから今回の映画の物語が立ち上がった感じです。
なぜ中国から人を呼ぶかといえば、もちろん働き手が足りないからなんですけど、それについても僕自身いろいろと考えさせられました。映画の中で、工場に手伝いに来ていたオーナーの息子さんに「工場を継ぐつもりはなかったんですか」と聞いて、「いや、全然」という答えが返ってくる場面がありますよね。あのときは「継げばいいのに」くらいのことを思ったんですが、でもよく考えたら自分も同じだったな、と気づかされて。
寺尾
同じ、ですか?
想田
実は、僕の父親もスカーフなどを製造する小さい会社を経営しているんですが、僕も、姉や弟も、当然のように後を継がなかった。後を継ぐというのが、選択肢にすら入らなかった。親父も「継いでくれ」とは言わなかった。それはなぜだろう、と考えていたら、かなり衝撃的なことに気づいたんです。つまり僕たちは社会からずっと「勉強していい学校に、いい会社に行って、ホワイトカラーになりなさい」というメッセージを受け取り続けていて、それを内面化していたのではないか。要は「ホワイトカラーになるのが成功で、そうでないのが失敗」という価値観が社会に蔓延していて、僕や親父でさえもその価値観に無意識に染まっていたのではないか。
本来は、それってすごく変な話ですよね。農業、漁業、製造業、サービス業…どれも社会の中で必要な職業なんだから、仕事の種類は違っても価値は同じでないとおかしい。だけど、いつの間にか第3次産業のほうが価値が高くて、給料も高い、ということになってしまっている…。だからこそ、第1次、第2次産業で働く人がいなくなり、不足してしまう。親父の会社を継ぐ人間もいない。しかもこれって、日本だけでなく全世界での現象だと思うんですね。いわば文明の病というか。
寺尾さんが『原発労働者』で取材された原発労働者の不当な待遇も、そうした「ホワイトカラーのほうが価値が高い」という価値観のもとで起きていることですよね。
寺尾
ああ、そうですね。
想田
僕らの仕事はホワイトカラーと言っていいのかどうかはわかりませんが、少なくともいわゆる「知的労働」ではあるでしょうし、産業的には第3次産業に含まれますよね。その意味では、自分もまたそういう「ホワイトカラーになるのが成功」という構図に乗っかってきていたんだなということに、ちょっとショックを受けました。
「搾取している」のは誰なのか
──それにしても、そうした構図の影で働き手の足りなくなった職場があって、そこに人件費の安い海外からの人材がやってくるというのは、まさに「グローバリズム」の象徴のような光景ですね。同時に、どこかいびつな感じもしてしまいますが。
想田
本来は、人手が足りないのなら賃金を上げるとかして人を集めるのが自然な流れだと思うんですね。
寺尾
そうですよね。待遇をよくすることになるはず。
牡蠣工場で働くためにやってきた中国人の若者たち (c)Laboratory X, Inc.
想田
だけど、それをやると牡蠣の値段がものすごく高くなって、消費者に買ってもらえなくなってしまう。だからなんとか値段を下げようと努力した結果が、「安く働いてくれる人を外から連れてくる」というソリューションなわけで、その意味では、工場にとってもやむを得ない選択ともいえると思うんです。
つまり、いわゆる「実習生問題」というと、単純に「搾取と被搾取」みたいな構造で語られがちですが、じゃあ雇う側の人たちが搾取の主体なのかというと、違う気がする。もっと薄く、広く──「牡蠣を食べる」だけの人も含めて、みんながちょっとずつ、安い食べ物を選ぶという行為によって、自覚もなしに「搾取」している。まあ、「搾取」という言葉が適切かどうかはわかりませんが、いずれにせよそのしわ寄せは、外国人労働者だけではなくて、牡蠣を剥く作業をしている日本人にも向かっているんじゃないでしょうか。単純に「雇い主が搾取している」で片付けてはいけない、社会のあり方や私たちの生き方そのものに絡む問題だと思います。
これも、原発労働者の問題と同じ構図ですよね。「電力を安く使いたい」という価値観があって、そのしわ寄せが結果として現場の人たちに行ってしまっている、という…。
寺尾
構図が重なりますね。最初にお話ししたように、やっぱり何かがつくられている現場のことを私たちはなかなか想像できないし、知らないままでいる。それが問題なんだと思います。
想田
一番見えにくいし、無視されやすい部分なんですよね。
寺尾
私が原発労働の現場に関心を持ったのは、東日本大震災の前の年に報道写真家の樋口健二さんの本を読んで、いつも自分が使っている電気というものがどんなふうにつくられているのかを知ってショックを受けたことがきっかけなんです。福島第一原発の事故が起きたあと、その感覚はある程度多くの人が共有したはずだと思うんですけど、そこから5年経ってもほとんど何も変わっていかない…。それはやっぱり、現場の声を伝える力がまだ弱い、伝えようとする人が一部にとどまっているということなのかもしれません。
犠牲になる一人ひとりに、
喜怒哀楽があって人生がある
想田
僕は、寺尾さんのご著書を読んでいて、「一人ひとりの声を拾う」という作業をずっと続けてきておられることにとても共感しました。今の社会って、なんでもすぐに「数の問題」になってしまうというか、犠牲があっても数が少なければいいんだ、仕方がないんだ、といわれてしまうところがあるでしょう。「必要な電気を生み出すためには、何人か被曝労働する人がいても仕方がない」という論理で、原発労働者の切り捨てが認められてきたことは、まさにその典型だと思います。
寺尾
シリア空爆のニュースなどを見ていても、民間人の死者が比較的少ない、「効果的な」空爆ならよしとする、認めるという考え方がスタンダードになっちゃってるのかな、と感じることがあります。本来は、犠牲が出ている時点で空爆自体がおかしいだろう、と言っていかないといけないんだと思うんですが。
想田
たとえ犠牲者が1人で済んだとしても、その1人は「亡くなっている」わけですよね。
寺尾
そうなんです。その事実を無視できてしまう感覚がすごく蔓延している気がします。
想田
もちろん、数が問題になる場合もあるんでしょうが、犠牲者がほんの少数だとしても、その一人ひとりに喜怒哀楽があって人生がある。その「少数」の人たちにとっては一大事なんだという想像力を絶やしてはいけないと思います。
だから、寺尾さんがやられていることはすごく重要だと思うんですね。取材対象の人たちを、数や記号ではなくて「顔の見える存在」にしていくというんでしょうか。それは、僕がいつもドキュメンタリー映画で目指していることでもあるんです。
寺尾
昨年末に想田さんの『精神』を見たのですが、あそこに出てくる人たち、例えば詩人の方なんか本当に魅力的で…。でも、彼らも「精神障害者」という「記号」でひとくくりにされてしまいがちですよね。
想田
そうなんです。僕も撮影を始める前は「精神疾患のある患者さん」に会うんだな、というぼんやりしたイメージしかありませんでした。でも、撮影や編集を進める中で、一人ひとりとかかわっていくうちに、「精神障害者は」ではなくて「◯◯さんは」という主語で語ることができるようになっていく。そうすると、彼らの見え方も、それからこちらの接し方も、全部変わってくるんです。
僕は、映画を見てくれる人たちともその感覚を共有したいんですよね。登場人物一人ひとりと、「顔の見える存在」として出会ってもらう。それが、今回の『牡蠣工場』も含め、どの映画でも目指しているところなんです。
寺尾
そうですね。私も、『南洋と私』で書いた、南洋の日本統治時代を訪ねる旅に出たのは、「南洋は親日的」とひとくくりに語られがちなのを聞いていて、「本当にみんなそうなのかな」とすごく気になったのが一つのきっかけでした。
(その2につづきます)
『牡蠣工場』
監督・製作・撮影・編集 想田和弘
製作・柏木規与子
2015/日本・米国/145分2月20日(土)からシアター・イメージフォーラム(東京・渋谷)にてロードショー。その他、全国順次公開
公式ホームページ http://www.kaki-kouba.com/
一人ひとりの背景や思いに耳を傾けることなく、ひとくくりに「記号」や「数」としてとらえることの危うさ。「少々の犠牲は仕方ない」とはしばしば言われる言葉ですが、自分がその「少々」だったら、と常に考えることは忘れたくありません。
会社に勤めるだけが成功ではない、というのは同感だが心配なのはこの手の言葉のほとんどが<勤め人にあらずんば人にあらず>という圧力を緩和するためでなく、「家事育児も立派な仕事だから専業主婦になれ」とか「金が無いなら進学せずに職人の子供は職人になれ」とか個人の選択の自由をはく奪し差別を正当化する方便に使われてきたことだ。正直、この言葉によって個人の尊厳が取り戻せるというより、個人を道具や商品扱いしない土壌ができて初めて安心して使える言葉だと思う。