変わらずに生き残るためには
変わらなければならない
──大相撲の野球賭博問題
「琴光喜(の処分)は当然やるよ。一番のクビだよな」
大相撲の野球賭博問題を巡る記者会見上、早稲田大学特命教授の伊藤滋氏がこう語ったとき、私は強い違和感を覚えた。
この問題の特別調査委員会の座長を務める伊藤氏は日本相撲協会の外部理事である。「外部」とはいえ、日本相撲協会の役員という当事者が、調査の責任者になることに説得力はあるのだろうか。しかも責任ある立場の人間が、平然と力士に「クビ」を宣告する。この言葉の軽さに、私は「裁く者」と「裁かれる者」の馴れ合いさえ感じた。
日本相撲協会、横綱審議会、大相撲記者クラブなど、大相撲を取り巻く人々は、力士が常習的に賭博を行っていたことをまったく知らなかったのだろうか。もし、知らなかったのであれば、知らなかったことへの責任も問われるべきであるし、知っていて黙認していたのであれば、「黙認」の理由を語るべきである。
東京大学に留学し、台東区谷中のアパートに住んでいたドイツ人の女性が、かつてこんなことを語っていた。
「コインランドリーでときどきお相撲さんと会うと、鬢付け油のとてもいい匂いがする。町でお相撲さんを見ると、あの匂いがすると思って、うれしくなった」
私はどちらかというと、どきどきする方だ。街中でたまに見かける彼らの大きな身体、髷、浴衣――異形の力人が発する、他のスポーツ選手にはないオーラを感じるのである。
相撲が神事と結びついているからかもしれないが、力士の日常には俗世間にどっぷり浸かっている面もある。年間6場所(東京以外に名古屋、大阪、福岡)という過酷な日程をこなす彼らには、その土地の有力者であるタニマチとの付き合いがある。全国を巡業する力士の周辺にはいろいろな人々が現れるだろう。そのなかに、いわゆる「反社会的」組織に属する者がいてもおかしくはない。だから、力士や親方が野球の賭け事をしていたと聞いても、私は特に驚かなかった。
琴光喜関や大嶽親方(元関脇・貴闘力)の方こそ、戸惑っているのではないか。どうしていまになって、自分たちが糾弾されるのかと。
スケープゴートのようにされた彼らには正直、同情する。が、同時に、今回の問題が明るみに出たのは、時代が相撲に公共スポーツたることを求めた結果だとも思える。
以前、朝青龍の土俵上での行為を巡る問題についてのコラムを書いた。
アスリートとして土俵に上がる朝青龍にとって、勝った後のガッツポーズは自然の振る舞いだった。それを「品格」の問題として、日本相撲協会や横綱審議会などが取り上げるのであれば、単なる礼儀の有無ではなく、相撲が神事に基づいた伝統的国技であることを朝青龍に納得させなければならなかった。
それは大相撲がスポーツではなく、歌舞伎や能など、日本の伝統芸能として生きていく覚悟をすることも意味する。しかし、日本相撲協会にそうした覚悟はなく、問題を朝青龍個人の資質として片づけてしまった。
来月の名古屋場所は開催される方向にあるという。見送った方がいいのではないか。
変わらずに生き残るためには変わらなければならない――というのは、ルキノ・ヴィスコンティの映画『山猫』でバート・ランカスター演じるシチリア島の貴族がつぶやくセリフである。イタリアが近代国家になろうとしていく19世紀後半、時代の変化と自らの地位の終焉を感じ取った男の言葉だ。日本では数年前に民主党の小沢一郎氏が使ったことで有名になったが、いまの相撲界にとって、これ以上にふさわしい言葉はないと思う。
(芳地隆之)