映画作家・想田和弘の観察する日々

『選挙』『精神』などの「観察映画シリーズ」で知られる映画作家、
想田和弘さんによるコラム連載がスタート!
ニューヨーク在住の想田さんが日々「観察」する、
社会のこと、日本のこと、そして映画や芸術のこと…。
月1回の連載でお届けします。

第7回

恐ろしいのは、安倍政権が
麻生氏の言うとおりのことを、
着実に実行しつつあることである

 麻生太郎副総理が、ナチスを引き合いに出した看過しがたい問題発言をした。

 ニュースや社会問題も「消費」されるだけの昨今では、この話題も早くも賞味期限切れのようになっているが、問題は重大かつ全く解決していない。解決していないのに、時間が経つだけで賞味期限切れとなり、したがって問題がなかったかのように落ち着いてしまうのは、本当におかしなことだと思う。そこで、しつこく改めて蒸し返そうと思う。

 朝日新聞デジタル版によれば、麻生氏の発言内容は以下のとおりだ。この発言に関しては、例によって「マスゴミが麻生氏を叩くために都合のよい部分だけを切り貼りした」と強弁する人々がいるので、少し長めに引用する。

 今回の憲法の話も、私どもは狂騒の中、わーっとなったときの中でやってほしくない。(略)靖国神社の話にしても、静かに参拝すべきなんですよ。騒ぎにするのがおかしいんだって。静かに、お国のために命を投げ出してくれた人に対して、敬意と感謝の念を払わない方がおかしい。静かに、きちっとお参りすればいい。(略)昔は静かに行っておられました。各総理も行っておられた。いつから騒ぎにした。マスコミですよ。いつのときからか、騒ぎになった。騒がれたら、中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎますよ。だから、静かにやろうやと。憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。ぜひ、そういった意味で、僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんが、しかし、私どもは重ねて言いますが、喧噪のなかで決めてほしくない。

 ご覧のとおり、麻生副総理はまず、靖国神社の参拝問題を「マスコミや国民や近隣諸国が不必要に騒ぎたてている例」として挙げている。つまり、麻生氏にとっての反面教師である。

 その上で、ワイマール憲法が「ナチス憲法」に変わったことを、「だれも気づかないで変わった静かな改憲」の成功例として引き合いに出している。そして、「あの手口学んだらどうかね。わーわー騒がないで」と述べている。つまり、麻生氏は「ナチスのやり口を参考にして取り入れろ」と発言しているわけである。

 もし、「麻生氏の言いたいことは何ですか」という問いが国語の読解問題として出されたら、正解は必ず上記のようになる。麻生氏やその支持者が強弁するように、「ナチスを反面教師にしろというのが真意だ」などと答えたら、それは確実に「誤答」である(宮台さんじゃないが、東大入試を通った僕が言うのだから間違いない)。

 もちろん、「ワイマール憲法がナチス憲法に変わった」という麻生氏の認識は、世界史の答えとしては「×」である。「ナチス憲法」などというものは歴史上存在しない。その当時最も先進的と言われたワイマール憲法は、その条文が変えられたわけではなく、ナチスが国会で成立させた全権委任法(授権法)によって事実上形骸化させられた。また、そのプロセスは決して静かに行われたわけではなく、反対派の弾圧や投獄の末に騒々しく成し遂げられたのだ。

 だからといって、「麻生さんって、漢字だけじゃなくて歴史も苦手なんだね」などと笑って済ますわけにはいかない。

 歴史認識のお粗末さはともかく、真に問題視すべきは、麻生氏が「ナチスはだれにも気づかれずに静かに改憲を成し遂げた。その手口を我々は見習い、国民や近隣諸国が騒がないうちに改憲すべき」と考えていることだからだ。

 いや、麻生氏が「考えている」だけなら、まだいい。

 恐ろしいのは、安倍政権と自民党が麻生氏の言うとおりのことを、着実に実行しつつあることである。

 その最も端的な例は、「戦争の放棄」を謳った日本国憲法第9条の解釈改憲の問題だ。

 報道によれば、安倍内閣は内閣法制局の山本庸幸長官を退任させ、後任に小松一郎駐仏大使をあてることを決めた。内閣法制局長官には同局の次長が昇格するのが慣例なので、法制局の経験がない小松氏を選んだのは極めて異例の人事だ。

 その狙いは、あまりにも明白である。

 内閣法制局は「法の番人」とも呼ばれ、日本政府の憲法解釈を統一的にまとめる役割を担っている。憲法第9条に関して、法制局はこれまで一貫して、日本政府が集団的自衛権を行使するのは憲法違反だとしてきた。

 集団的自衛権とは、同盟国などが戦争を始めたら、自国が攻撃されていなくても戦争に参加し、同盟国の敵国の市民を殺すことができるという「権利」である。

 もし日本に集団的自衛権があったとしたら、どうなっていたか?

 同盟国である米国が始めた、あの凄惨なイラク戦争やアフガニスタン戦争にも自衛隊がフル装備で参加し、イラクやアフガニスタンの人々を殺したり、日本の自衛官が殺されたりしていた可能性が高い。なんと無意味で有害なことであろうか。

 そういう最悪の事態を日本がかろうじて避けることができたのは、日本国民が日本国憲法第9条を通じて「他国の戦争には参加するな」と日本政府に命令し、縛りをかけてきたからである。内閣法制局も当然、日本政府が集団的自衛権を行使するのは憲法違反(=国民からの命令違反)だと解釈してきた。

 ところが、この度内閣法制局長官に抜擢された小松一郎氏は、報道によれば、「日本国憲法のもとでも集団的自衛権を行使できる」というのが持論だという。

 もしそうだとしたら、はっきり言って、小松氏の持論はいわゆる「トンデモ解釈」の部類だ。あるいは、単なる誤読か曲解だ。

 せっかくの良い機会だから、日本国憲法第9条を改めて読んでみよう。

日本国憲法第9条

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 もし「日本国民が憲法第9条を通じて言いたいことは何ですか」という読解問題が出されたら、「日本が攻撃されなくても、同盟国の戦争に参加できる」と答える小松氏は確実に「×」をくらうだろう。つまり報道が正しいのだとすれば、小松氏には麻生発言の擁護者と同様に、日本語の基本的な読解能力が欠けているか、嘘をついても良心が痛まない性格の持ち主だという可能性が高いのだ(自国が攻撃された場合に応戦する権利である「個別的自衛権」の有無についても様々な解釈や議論があるが、ここでは取り上げないでおく)。

 それでも万が一、小松氏率いる内閣法制局がこれまでずーっと唱え続けてきた憲法解釈をあっさりと否定し、集団的自衛権を認めてしまったらどうなるか。

 権力者に対する日本国民からの命令である日本国憲法は、正式に書き換えられることなく、いや、国民的議論さえも経ることなく、安倍内閣による人事ひとつで事実上「改憲」されてしまうことになる。静かに、だれにも騒がれないままに。

 内閣法制局長官の人事は、麻生氏が認識するところの「ナチスの手口」そのものなのである。

 再び、麻生副総理の発言を読んでみよう。

 だから、静かにやろうやと。憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。わーわー騒がないで

 このような「国民やマスコミや近隣諸国に騒がれないうちに、コソコソと密やかになし崩し的に重要なことを決めちゃおう」という安倍政権の姑息な戦略は、困ったことに一貫している。

 原発推進しかり。TPP推進しかり。秘密保全法案しかり。憲法第96条の先行改定しかり。

 いずれの政治課題も、日本人の生活や民主主義を破滅させ得る重大問題だが、去年12月の衆院選でも、先月の参院選でも、正面から議論されることはほとんどなかった。少なくとも、政権与党側からこれらの問題について積極的にアピールし、主権者を説得しようという姿勢は全く見られなかった。

 代わりに、安倍自民党は「衆参のねじれ」やら「アベノミクス」とやらを前面に「争点」として押し出し、それにつられて、あるいは共犯的に、一部を除いたマスコミもそればかりを論じる。それにつられて、一部を除いた主権者もそればかりを気にする。あるいは何も気にしない。騒がない。投票にも行かない。半分近くの主権者が棄権する。よって、だれも気づかないうちに、すべてが安倍自民党の望むとおりに何となく決まっていく。

 思う壷、とはこのことである。

 恐ろしい想像だが、たぶんこれは偶然そうなったわけではない。安倍首相とその取り巻きたちは、おそらくこうなることを明確に狙い、戦略を立て、粛々と実行してきたのだと思う。麻生発言は「失言」などではなく、安倍自民党の本音であり戦略なのだ。

 現代日本社会の進む方向と、その進み方を観ていると、麻生氏がいみじくも引き合いに出したように、1930年代ドイツで起きたことをどうしても連想してしまう。

 ファシズムの台頭と、民主主義の自殺である。

 ただし、ナチスの場合と違って、そこに熱狂はない。

 しらけムードの、無関心と無気力が原動力の、「熱狂なきファシズム」が、静かにだれにも気づかれずに進行している。

 そんな気がしてならない。

 では、そういう民主主義の病の進行を食い止めるには、いったい全体、どうすればいいのだろうか?

 たぶん、麻生氏が一番嫌うことをするのがよい。

 「わーわー騒ぐ」のである。

 僕は本欄その他で、僕なりに騒いでいるつもりだ。この状況に危機感を抱く主権者のみなさんも、ぜひ騒いでください。

 

  

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第7回 恐ろしいのは、安倍政権が
麻生氏の言うとおりのことを、
着実に実行しつつあることである
」 に1件のコメント

  1. magazine9 より:

    安倍首相が進める、集団的自衛権行使に関する憲法解釈変更については、
    南部義典さんもコラムで書いてくれています。
    麻生首相の発言、仮に「ナチス」という言葉が使われていなかったとしても、
    「静かに、誰も気づかずに」憲法を変える、という考え方自体がやっぱりおかしい。
    「権力を縛る」性質のものを変えるかどうかという話なのだから、
    誰もが侃々諤々、いろんな事態を想定して意見を言い合うのが
    当たり前なのではないでしょうか。

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想田和弘

想田和弘(そうだ かずひろ): 映画作家。ニューヨーク在住。東京大学文学部卒。テレビ用ドキュメンタリー番組を手がけた後、台本やナレーションを使わないドキュメンタリーの手法「観察映画シリーズ」を作り始める。『選挙』(観察映画第1弾、07年)で米ピーボディ賞を受賞。『精神』(同第2弾、08年)では釜山国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞を、『Peace』(同番外編、11年)では香港国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞などを受賞。『演劇1』『演劇2』(同第3弾、第4弾、12年)はナント三大陸映画祭で「若い審査員賞」を受賞した。2013年夏、『選挙2』(同第5弾)を日本全国で劇場公開。最新作『牡蠣工場』(同第6弾)はロカルノ国際映画祭に正式招待された。主な著書に『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『演劇 vs.映画』(岩波書店)、『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)、『熱狂なきファシズム』(河出書房)、『カメラを持て、町へ出よう ──「観察映画」論』(集英社インターナショナル)などがある。
→OFFICIAL WEBSITE
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