映画作家・想田和弘の観察する日々

『選挙』『精神』などの「観察映画シリーズ」で知られる映画作家、
想田和弘さんによるコラム連載です。
ニューヨーク在住の想田さんが日々「観察」する、
社会のこと、日本のこと、そして映画や芸術のこと…。
月1回の連載でお届けします。

第40回

オバマ大統領の広島訪問を手放しで喜べない理由

 米国のバラク・オバマ大統領が被爆地・広島を訪問した。現職の米国大統領としては初めてである。直後に行われた日経新聞の世論調査によれば、訪問を「評価する」人は92%にのぼり、「評価しない」4%を圧倒した。

 たしかに今回の訪問は歴史的な意味を持つものであり、23年前から米国で暮らす僕にとっても感慨深いものだった。「ニューヨーク・タイムズ」電子版で、被爆者の森重昭さんとオバマ氏が抱擁する写真を目にしたときには、思わず涙ぐんだことも告白せねばなるまい。

 しかし、である。

 今回のオバマ氏の訪問には、一定の意義を認めると同時に、強い違和感をも抱かざるをえなかったことを、ここに記しておきたい。そしてその違和感を「なかったこと」にして、日本社会に溢れる歓迎ムードのカタルシスに溺れることは、非倫理的な気がしてならないのである。

 僕が違和感を覚え始めたのは、オバマ大統領が日本を訪問する前のことである。

 周知の通り、彼は「広島には行くが、謝罪しない」ことを表明した。それはアメリカの現実からみれば、決して驚くことではない。米国では、日本への原爆投下を必要悪だったと考え支持する人が57%を占めていて(2005年の統計)、したがって「謝罪するなんてとんでもない」と考えている人も少なくないからである。

 にもかかわらず、オバマ大統領の「謝罪しない」との方針は、僕にとって衝撃的だった。そして大きな疑問を抱かせるものだった。

 「広島に行くのに、いったいどうしたら“謝罪ぬき”なんてことが可能なのだろうか? “謝罪”にまで踏み込まずとも、少なくとも、原爆を落とした行為が過ちだったということは、表明せざるをえないのではないか? 表明しないのなら、さすがに被爆者や日本国民は納得しないのではないか?」

 想像してみてほしい。

 たとえば、ドイツの首相がアウシュビッツを訪れながら、かつての過ちを認めずに済ませることができるだろうか。あるいは、安倍首相が真珠湾や南京を訪れながら、自らの祖先の行為の過ちについてお茶を濁すことが可能であろうか。あるいは、殺人の加害者が被害者の家を訪れながら、自らの行為を棚に上げたまま、仏壇に手をあわせることが許されるであろうか。

 もちろん、トルーマン大統領が広島と長崎に原爆を投下するにいたったのは、米国だけの責任とはいえない。そもそもアジアの諸国を侵略し、真珠湾を攻撃して、あの戦争を始めたのは日本である。そしていくら国土を空襲され焼け野原にされても、そしてポツダム宣言の受諾を求められても、降伏を拒んだのは当時の日本政府である。いたずらに戦争を長引かせ、トルーマン大統領に「これ以上の人的被害を避けるためにも、原爆を投下せざるをえなかった」との口実を与えたのは、ほかならぬ日本の側なのである。

 とはいえ、だからといってトルーマンが原爆を落としたことを免罪できるのかといえば、決してそうではないはずだ。米国は原爆によって、広島で14万人、長崎で7万人の人々———その多くは民間人であり、子どもも多数含まれていた———を殺し、生き残った人々にも放射能などによって重い障害を残した。その許されざる行為を「仕方がなかった」「必要だった」と開き直りながら、いったいどんな顔をして被爆者に対面し、死者に花を手向けることができるというのであろうか。

 考えれば考えるほど、そんなことは不可能な気がしてならなかった。むしろ可能であってはならないと思った。逆に言うと、それが絶望的なまでに不可能だと思われたからこそ、歴代のアメリカ大統領はこれまで広島や長崎を訪問することを避け続けてきたのではなかったか。

 ところが蓋を開けてみれば、それはまったく「可能」であった。驚くべきことに、オバマ大統領は米国の非に一切言及することなく広島の訪問を終え、なおかつ日本人の大半から拍手喝采を浴びるという「政治的曲芸」を成し遂げたのである。

 だが、いったいどのようにして……?

 彼は広島演説を、次のような言葉で始めた。

「71年前、明るく、雲一つない晴れ渡った朝、死が空から降り、世界が変わってしまいました。閃光(せんこう)と炎の壁が都市を破壊し、人類が自らを破滅させる手段を手にしたことを示したのです」(朝日新聞デジタルより)

 死が空から降った……? 閃光と炎の壁が都市を破壊した……?

 演説の再録を読みながら、僕は叫ばざるをえなかった。

 「この手があったか……!」

 不可能を可能にさせたレトリックは、拍子抜けするほど単純なものである。つまり原爆投下を「トルーマン大統領の行為」ではなく「自然災害」のように扱ったのである。

 当然のことだが、広島や長崎が一瞬で破壊されたのは、「死が空から降り」てきたからではない。トルーマン大統領が原爆の投下を2度にわたって命じ、その命令を忠実に遂行した人間たちがいたからである。都市を破壊したのは、直接的には「閃光と炎の壁」かもしれないが、本質的にはトルーマン大統領と彼の指揮下にいた人間たちである。その主語を曖昧にし、あたかも自然現象が空から降ってきたかのごとく表現することは、欺瞞以外のなにものでもあるまい。

 だが、悔しいことに、大多数の日本人はその欺瞞的レトリックがオバマ氏の口から発されるやいなや、喜んで抱きしめてしまった。なぜならそれは、戦後に生きる日本人が戦争に正面から向き合うことを避けるために発明し、長い時間をかけて身体化させてきた欺瞞そのものだからである。

 つまり戦後の日本人は、あの戦争を「誰かが起こした行為」ではなく、「空から降りてきた自然災害」のように扱うことによって、自らの加害性を隠蔽し続けてきたのではなかったか。同時にそうすることで、昨日まで「鬼畜」であった米国を、今日から「新しいボス」として何の屈託もなく受け入れることにも、成功したのではなかったか。

 「ひどいことは起きたけど、誰が悪いわけではない。誰かの責任を追及しても、しかたがない。過去は水に流して、ガンバロウ……」

 オバマ大統領は、はたから見れば難題に見える政治的曲芸を成し遂げるにあたって、なにも新しい論理やレトリックを発明する必要はなかった。彼はおそらくは周到な社会心理学的調査と計算のもとに、すでに存在する日本的欺瞞の「メロディー」を借用することを選択した。その旋律はすでに日本人の体内に刻み込まれており、オバマ氏はそれを上手に奏でるだけでよかったのである。

 すでに述べたように、僕は今回の訪問を全否定するつもりはない。原爆投下をした張本人である米国の大統領が広島を訪れたことは、核軍縮にとっては「前進」のきっかけになりうるだろう。

 しかし同時にオバマ氏は、米国による原爆投下や、それに至らせた日本の行為について問う絶好の機会を失わせ、「否認」という名の重い蓋をしてしまった。そして安倍首相を筆頭に、日本人の大半もオバマ氏の共犯者となり、問題の核から目をそらして「なかったこと」にしてしまった。日本人の多くは、オバマ氏が「謝罪」しなかったことで、自らの祖先の行為にも目をつむることができ、内心ホッとしてさえいるのではないだろうか。

 だが、日本や米国が犯した過ちから目を背けたままで、核の廃絶や戦争のない世界が本当に実現できると、オバマ氏は、日本の人々は、本当に考えているのだろうか。

 人間が前向きに生きていくためには、辛い過去を水に流し忘れることも必要だ。だが、本当の意味で水に流すためには、起きたことに正面から向き合い、語り合い、自他の過ちを認め合うプロセスを経ることが、どうしても必要なのではないだろうか。

 今回のオバマ大統領の訪問がそういう機会になりえなかったことは、実に残念でならない。

 

  

※コメントは承認制です。
第40回 オバマ大統領の広島訪問を手放しで喜べない理由」 に7件のコメント

  1. magazine9 より:

    戦争を、〈「誰かが起こした行為」ではなく、「空から降りてきた自然災害」のように扱う〉。小さいころ教科書で読んだ、戦争を扱った児童文学などの中にも、今思えばそうした書き方が散見された気がします。それは「核や戦争の恐ろしさ」を伝えるものであったと同時に、本質から目をそらす役割もまた、担ってしまっていたのかもしれません。
    このレトリックから抜け出して、被害と加害の図式も含めた「戦争」と向き合っていけるのかどうか。オバマ大統領演説の問題だけではなく、私たち自身が問われているように思います。

  2. Masako Ishizuka より:

    「核や戦争の恐ろしさ」を伝えることはたいせつですが、それに力が入りすぎ、恐怖心で思考停止になり、「愚かしさ」を学ところまで辿り着けないのかもしれません。
    被害者であると同時に加害者でもあるという正反対の一致を抱えるどうしようもなく「愚かなこと」だということを。

  3. A子 より:

    訪問を「評価する」人は92%という点に驚きました。
    大統領の任期は残りわずか、謝罪もない訪問など
    「来ないよりマシ」という程度かと思っていましたが、
    これほど大歓迎されるとは。

    >日本人の大半もオバマ氏の共犯者となり、
    >問題の核から目をそらして「なかったこと」にしてしまった。
    これは色んな局面に共通しそうな指摘です。
    日本人の「長いものに巻かれろ」精神が色濃く打ち出された結果ですね。

  4. 田中郁夫 より:

    オバマ旋風が吹き荒れ、歓迎一色でした。
    ご指摘のように、オバマ演説冒頭で、原爆をまるで天災かなにかのように表現し、他人事みたいな「格調高い演説」には相当な違和感を感じました。
    昨年公開された映画『母と暮せば』では、原爆投下を、原爆を搭載したB29の搭乗員の様子を写したフィルムを使い、その瞬間を医科大学での授業中に学生が使用したガラスのインク壺が一瞬に溶けることで表していました。そして、「僕の死は運命だったんだ」と言う息子に母は、「津波や地震は防ぎようがないから仕方ないけど、原爆は防げたことなの、人間が計画して行った大変な悲劇なの」と語らせています。
    「ピカは、人が落とさにゃ、落ちてこん」のです。(丸木スマの言葉)

  5. Yaho Coconutto より:

    素晴らしかったオバマ氏の演説に残る違和感(謝罪がないこと)について。
    オバマ氏にあえて謝罪を求めることは、翻って日本自身の開戦から敗戦までにわたる戦争責任を問うことにもなる。
    日本政府にとって曖昧なままにしておく方が都合良いし、日本人の多くも自国の戦争責任について考えもせず半分眠ったままで過ごしていた方が居心地が良いのだ、と思う。

    それにしても、アベさん、オバマさんの演説中にただ隣に立っているだけ、いったい何を考えていたのだろうか。オバマさんの隣に立っていることで、少しだけ偉くなったと錯覚した自分を日本人の多くに見てもらっていると想像し、良い気分に浸っていたように見えた。

  6. ぼんやりしていては より:

    「記憶に蓋をすることはできるでも歴史を隠すことはできない」過去というものは、喜びも報いも罰も愚かさもともどもに、永遠にわれわれが背負っていくべきもの。切り離してはうまくいかないですよね。 エドワードサイードさんのこの意見も「この和平プロセスには、パレスチナ人の物語や彼らに強いられた経験を承認しようという努力が不足しており、また歴史をその複雑さや細部において理解し、それによって人々がその歴史を受け入れることができるようにする必要について、一種の健忘症にかかっている。歴史は重要ではないというふりをして、とりあえず僕たちはなんとか今ここにある現実から出発しなければならないと主張するようなことは、実用主義的な政治見解であり、とても同意することはできない、僕は人文研究者であり、諸民族の歴史は、正義や損傷、抑圧の観念とが複雑にからみあったものであると考えているからだ。違った考えもあるということが互いに承認されているのであれば、全員の意見が一致する必要があるとは思わない。これは大事なことだ。僕たちはお互いの見解を尊重し、相手側の歴史を我慢しなくてはならない。人々を分離しようという考えは絶対にうまくいかない。これまでもうまくいかなかった。人々を閉じ込めようとしたとたんに、彼らに不安感を与え、パラノイアを増大させることになるのだから。それは結局歪曲を強めるだけだ。」

  7. ぼんやりしていては より:

    重要なのは謝罪を求めることと加害責任を認め自らが謝罪すること。たとえ相手が謝罪しないとしても加害責任を認め自らが謝罪すること。自国の被害者を追悼することと同時に加害者としての被害者を追悼すること。加害性の否認にめはない。今回のオバマ大統領の広島スピーチ、安部総理のスピーチに欠けていること。加害否認の未来志向という実用主義的な政治見解に同意することはできないところがある。人間は病んでいる。問題はこれからいかに法的にも倫理的にも線を越えないかです。

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想田和弘

想田和弘(そうだ かずひろ): 映画作家。ニューヨーク在住。東京大学文学部卒。テレビ用ドキュメンタリー番組を手がけた後、台本やナレーションを使わないドキュメンタリーの手法「観察映画シリーズ」を作り始める。『選挙』(観察映画第1弾、07年)で米ピーボディ賞を受賞。『精神』(同第2弾、08年)では釜山国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞を、『Peace』(同番外編、11年)では香港国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞などを受賞。『演劇1』『演劇2』(同第3弾、第4弾、12年)はナント三大陸映画祭で「若い審査員賞」を受賞した。2013年夏、『選挙2』(同第5弾)を日本全国で劇場公開。最新作『牡蠣工場』(同第6弾)はロカルノ国際映画祭に正式招待された。主な著書に『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『演劇 vs.映画』(岩波書店)、『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)、『熱狂なきファシズム』(河出書房)、『カメラを持て、町へ出よう ──「観察映画」論』(集英社インターナショナル)などがある。
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