映画作家・想田和弘の観察する日々

『選挙』『精神』などの「観察映画シリーズ」で知られる映画作家、
想田和弘さんによるコラム連載です。
ニューヨーク在住の想田さんが日々「観察」する、
社会のこと、日本のこと、そして映画や芸術のこと…。
月1回の連載でお届けします。

第33回

「憲法9条の死と再生」への反響に対する所感と補足

 先月の本欄で「憲法9条の死と再生」を書いてから、主にいわゆる「護憲派」の方々から、様々な反応をいただいている。予想通り、9条堅持派からの批判は多い。しかし予想以上に共感してくださる方も多く、「護憲派」とひとくくりにされてきた層も、実は案外多様なのだと感じた。

 これは歴史的な経緯上、仕方がないことなのかもしれないが、これまでの日本では「平和主義者=護憲派」という図式が非常に強固であり続けてきた。本来ならば、平和主義と護憲とは別々の概念であるはずなのに、あまりにも自動的にセットとして考えられてきた嫌いがある。僕らはそろそろ、この2つの概念をはっきりと分けて考える必要があると思う。

 その最大の理由は、いわずもがな。安倍晋三と戦争法の存在である。

 安倍首相はその権力を濫用することによって、憲法9条をそのままにしておきながら、自衛隊を米軍の戦争に参加させるための戦争法を成立させた。今や9条の文言を守ることは、平和主義とイコールでは結ぶことができない。誠に残念ながら。

 なぜなら自衛隊は、今後は戦争法にのっとって、中東やアフリカなどで戦争に参加させられる公算が大きい。それが現実となっても、9条の条文が今のままであれば、日本は平和主義の国と言えるのだろうか? 答えは否であろう。

 憲法を破って戦争をしようとしている安倍晋三への対抗措置として、僕は新9条の「創憲」を提案した。それは外見的には「改憲」の提案である。だから「そんなことを提案したら、安倍首相らが進める改憲の動きを助けることになるのではないか」と懸念する声も聞かれる。お気持ちはわからないでもない。

 しかし、理解していただきたいのは、改憲は改憲でも、僕が提案する改憲は首相らが望む改憲とは真逆のベクトルのものだということである。

 首相らは、自衛隊にフリーハンドを与える改憲を狙っている。僕は、集団的自衛権を明確に禁じ、自衛隊の活動を厳しく制御するための改憲を提案している。真逆の動きなのだ。実際、もし僕の提案の趣旨に沿った新9条案が書かれ、共感が広がり、有力な政党が現実的な政治課題として進めようとするならば、安倍晋三らの勢力はそれを潰そうとするのではないだろうか。

 あくまでも僕が守りたいのは、日本の平和主義である。9条堅持は、これまで日本の平和主義を守るために、不完全ながらも一定の役割を果たしてきたと思う。だからこそ僕もずっと「護憲派」を自認してきた。9条を変えてはいけないと主張してきた。

 しかし、もうその理屈は通用しなくなってきたと思う。別に戦争法支持派がいうように「安全保障をめぐる環境が変わった」からでも「時代に即した憲法が必要になったから」でもない。あんなのは戯言だ。

 そうでなくて、最大の理由はすでに述べたように、安倍晋三と、彼が成立させた戦争法である。安倍晋三らは、「憲法のどこを読んでも、集団的自衛権を禁じるとは書いていない」と強弁して、集団的自衛権を容認する解釈改憲をした。それが途方もない無理筋であることには変わりないが、相手がそう出るならば、私たちは9条に「集団的自衛権を禁じる」と明確に書き込むことで、正面から対抗しようではないか。憲法が「権力者を縛るための最高法規」であるのなら、憲法によって安倍晋三を縛り上げようではないか。憲法とは目的ではなく、手段なのだから。

 そう、申し上げているのである。

 とはいえ、短期目標として、現行9条を根拠に違憲訴訟を進めたり、安倍政権を打倒し戦争法を廃止するための選挙運動に力を入れたりすることには、全く異論はない。新9条論がすぐに受け入れられるとも思っていない。むしろ非常に時間がかかる長期目標として、提案しているのである。

 ところで、9条堅持派からは、少なからず「日本は個別的自衛権や自衛隊を持つべきではない。だから改憲には反対だ」という批判もあった。その批判の趣旨は筋が通っていると思う。

 実際、これまで行われてきた侵略戦争は、常に「自衛のための戦争」という大義名分のもとに行われてきた。だから、「個別的自衛権を認めた時点で、侵略戦争を防ぐことはできない」という懸念には、正当性があると思う。新9条で個別的自衛権と自衛隊の存在を明記するのなら、その点を注意深く考慮に入れ、厳しく幾重にも制限をかける必要があるであろう。

 なお、僕は日本の主権者の過半数が、個別的自衛権や自衛隊を明確に禁じることを支持するのなら、それはそれで素晴らしいことだと思っている。いまある自衛隊をどういうプロセスとタイミングで廃止するのか、現実的な問題に懸念はいろいろあるものの、その偉大なる覚悟にまずは胸を打たれるであろう。そしてそういう明確なコンセンサスがあるのなら、祖国の運命を崇高な理想にかけ、いくら危険や困難が伴おうとも、自衛隊を廃止していくのもよいと思っている。

 問題は、日本の主権者の過半数にその覚悟があるかどうかだ。

 僕はその点をかなり疑っている。「日本は個別的自衛権や自衛隊を持つべきではない」と言っても、その主張に日本の主権者のコンセンサスが得られないのなら、スローガンや理想としては意味があったとしても、憲法としてはあまり意味はない。なぜなら民定憲法とは、主権者である国民の意思を代弁し体現すべきものだからである。

 僕は今の日本の主権者の多数派の意思とは、「(1)個別的自衛権や自衛隊は容認するけれども、(2)集団的自衛権は認めない」というものだと感じている。そのことは、今回安倍晋三が(2)を破ろうとするまで、大きな反対運動が起きなかった事実からもうかがえる。

 ならば、民定憲法の趣旨にのっとって、主権者の多数派の意思に沿った新9条を書き、自衛隊を厳しく制御することを考えたほうが、現行憲法の条文を守ろうとすることより、よほど日本の平和主義を守ることに役立つのではないか。

 僕はそう考えているのである。

 最後に、もう一言。

 僕が新9条論を提案し始めた理由は、なにも戦争法の成立だけではない。

 大きかったのは、SEALDsをはじめとした反対運動の盛り上がりである。僕は正直、あんなにも多くの老若男女が主体的な主権者として覚醒し、反対運動が盛り上がり、憲法や民主主義についての本質的な議論が巻き起こるとは思っていなかった。

 僕は『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』『熱狂なきファシズム ニッポンの無関心を観察する』という本を書いた。これらのタイトルからも察することができるように、僕はかなり日本の主権者に対して絶望的だったし、悲観的だった。政治的無関心が広がる日本で、9条の改定なんてとんでもない、改悪にしかならない、という恐れもあった。

 でも今は違う。日本人の平和主義を体現した「新9条」を、なんとか私たちの手で創れるのではないかと、ある種の希望を感じている。僕が新9条の運動を「改憲」ではなく「創憲」と呼びたい理由も、その点にあるのである。

追記:マガジン9編集部は僕の原稿を掲載しているからといって、必ずしも提案そのものに賛成しているわけではない。僕の提案はあくまでも僕個人の提案であり、内容について事前に編集部に相談したり、意思統一を図ったことはない。こんなことは当たり前なので、前回はわざわざ断りを入れなかったのだが、ときどき僕の見解をマガジン9の見解だと誤解する人を見かけたので、念のため申し上げておく。

 

  

※コメントは承認制です。
第33回 「憲法9条の死と再生」への反響に対する所感と補足」 に11件のコメント

  1. magazine9 より:

    前回のコラムには、たくさんのコメントをいただきました。想田さんの意見に賛同する人、反対する人、どちらとも言い切れず揺れている人…マガジン9編集部の中にも、さまざまな意見があるのが現状です。
    ただ、平和主義を守りたい、その思いは多くの人にとって揺らぐことのないものだと思います。そして想田さんと同じように、この危機的な状況の中にある種の「希望」を見出している人も少なくないのではないでしょうか。
    引き続き、議論をもっと重ねつつ、やるべきこと、目指すべきことを一人ひとりが考えていきたいと思います。

  2. なると より:

    想田さんの創憲の考えに賛同します。
     
    私は憲法は目的でなく手段だと思っています。同時に、理想を描くと同時に現実が体現されなければならないと考えています。憲法はただの努力目標でもなければただのスローガンでもなく、最高法規として効力が伴わなければならないと思うのです。
     
    それは集団的自衛権以前に、個別的自衛権についての問題でもあると思っています。
     
    平和の維持のために自衛隊が必要であり、自衛隊の存在が憲法に反するというなら、平和か現在の憲法か、どちらかの維持を諦めねばならないでしょう。たとえば共産党の方針では『日本を取り巻く国際環境が平和的な成熟が出来』るまでは彼らが違憲とみなす自衛隊と共存するとのことですが( http://blogos.com/article/118384/?p=2 より ) 、軍隊が不要になるのがいつになるかわからないのに、それまで違憲でもOK!とは到底なりますまい。それでは立憲主義もなにもありません。
     
    理想を掲げることが大事なら「軍事力を持たないというのが理想だけど、やむを得ず自衛隊持ちますよ」という内容にでもすればよいでしょう。
     
    自衛隊が9条に反するというなら、9条をあくまで維持して自衛隊を解体するか、あるいは自衛隊を維持できるよう9条を変化させるか、どちらにするか国民に問うべきだと考えています。これは改憲のプロセスそのものです。

  3. ロシナンテ より:

    9条が有ったからこそ、そこに安保条約が有ろうとも、安全(平和とは言いません)を守ってこれたのであって、
    安保条約は残すが9条は専守防衛に書き換える、は今まで以上にご都合主義になりませんか。

  4. BLOG BLUES より:

    前回のエントリに、コメントを寄せた者です。僕も補足したいと思います。

    想田氏の認識は、十分共有しているつもりです。多分、政治的スタンスは、ほとんど違わないと思います。違う点は「自衛隊」に対する評価です。古今東西、あらゆる軍隊において「自衛隊」なる軍隊など、寡聞にして知りません。なぜ、そのような軍隊が、出現したのか?言うまでもなく、憲法九条があったからです。では、なぜ九条が生まれたのか?

    米国が世界平和の理想に燃えて、押し付けてくれたとは、到底思えません。米国は日本と戦争して、震撼したと思います。殺しても殺しても、刃向かってくる。特攻と玉砕です。こんな国に軍備を持たせては「気違いに刃物だ」と思ったことでしょう。で、恒久的な武装解除を施した。(その後の世界情勢により、米国は臍を噛むことになりますが)それが、九条でしょう。特攻と玉砕が、日本に、日本国民に、九条をもたらしてくれたと、僕は思っています。断じて、仇や疎かにしてはならないものです。

    その九条を盾として、米国の再軍備要求を、完全とはいわないまでも跳ね退けた。そのことに、誇りと自信を持つべきだろうと考えます。問題は、その日本が誇るべき、世界に冠たる「自衛隊」を、しょうもない普通の国と同様の軍隊にしてしまう勢力が、戦後連綿と権力の中枢に居座っていることです。この勢力を駆逐する、イコール市民革命を成し遂げ、押し付け憲法をわがものとする。それが全てで、新九条の揚言は、必要ないと思います。この勢力を駆逐しない限り、たとえ新九条を制定しても、通らない屁理屈で好き勝手にされるだけでしょう。

  5. 中山岳彦 より:

    想田さんのご意見は、条文と現状の乖離を無くした方がいいということだと思うのですが、大多数の人は、個別的自衛権、自衛隊、日米安保容認なんでしょうね。
    でも、私は、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、非武装中立こそ非侵略だと思っています。
    自衛隊が世界に誇れるのは、災害救助のスキル。フィリピンの台風、中国の地震、そして東日本大震災や先日の常総市での救助活動。
    自衛隊は、国際救助隊サンダーバード(レッドインパルスでもいいかな)として国連所属の救助隊に改組すれば、どこの国も攻めてこないと思います。
    スタインベックの『月は沈みぬ』を読むまでもなく、どんな国でも他国を侵略して屈服させることは出来ない。

  6. ロシナンテ より:

    安倍信三が何をやらかそうと、憲法は変わっていない。9条は破棄されていない。今のままです。
    安倍信三の行為と国民の意識が同一である理由はどこにも無いのです。
    安倍信三が戦争を始めたからとて平和主義の旗をたたむ関連性はないのです。
    ブッシュがイラク戦争を始めたらアメリカに平和主義者は居なくなったのですか?

    安倍信三が失脚しハト派政権が出来た暁に9条破棄した事を嘆いても、過去には戻れません。
    時の為政者ごときでコロコロと立場を変えていては、平和主義国家にはなれないのです。

    >「(1)個別的自衛権や自衛隊は容認するけれども、(2)集団的自衛権は認めない」
    ~~
    主権者の多数派の意思に沿った新9条を書き、自衛隊を厳しく制御することを考えたほうが、<
    多数派がそうだったとして、それが新9条案を正当化する理由にはなりません。貴方が「そうしたい」でしかありません。

  7. 意見を述べる場を提供されていることに感謝します。
    「戦争が起きるとすれば、それは攻められる状況を作ってしまった外交の失敗の結果だ」だから、「攻められたら攻めるという単純な構図ではなく、もっと広く見るべきこと、調べるべきこと、常に備えておくこと、仲良くすべき人たちや国、勢力、そして地政学的なもの元にした外交努力」を常にしなければならない。これが非戦の考えです。憲法9条の考えと一致します。しかし、今はそのような平和のための外交努力を何もせず、ただ戦争の準備をしている。
    そして、これまでも平和を構築するための外交がほとんどなされてこなかった、と言ったら怒る人がいるでしょうか。でもしてこなかった結果、現在の状況がある。
    これは、全て日本がアメリカに追従して独自外交をさせてもらえなかったことの結果ですよね。日米安保体制が全てで、政治家も官僚もマスコミも含めて、これに逆らって独自外交しようとすれば潰され、追従すれば出世させてもらう。戦後、この積み重ねの歴史の結果が現在の危機的な状況を生んでいます。この認識は、想田さんを含め、ここを読んでいる全ての皆さんが共有できるものではないでしょうか。

    安保体制をすぐになくす、自衛隊をすぐに無くす、そんなことは勿論不可能です。しかし、外交努力で戦争しない国になっていくべきです。「攻めてきたらどうする?」ではなくて、「攻められないためにはどのような外交努力が必要か」に変えなくてはならないのではないですか。一方がこぶしを振り上げれば、相手もこぶしを握らざるを得ないんですから。そして、今まで外交努力を怠ってきたことに怒るべきなんです。

    新9条をつくることは、「独自の平和外交をする日本」を見据えていますか。何度も書きますが、想田さん、伊勢﨑賢治さんも提唱している「専守防衛の自衛隊を憲法で明確に位置付ける」というようなことは、もはや9条ではなく、防衛のための戦争を認めるわけですから、アメリカにとっても利用価値は高いと思います。

    いずれにしても、勢力を結集しないと現体制を倒すことはできません。割れるわけにはいかないですよね。対米独自路線を選択したカナダの総選挙の結果は正直羨ましいです。そのときに憲法9条が旗印になるのか、新9条が旗印になるのかという選択肢が今、できつつあります。そして新9条は右にも左にもコンセンサスが得やすい。だからあせっています。
    私は自分が生きている間に独自の平和外交をする日本を見てみたい。心底そう思います。もういいかげん、言葉にしてそう叫んでもいいんじゃないでしょうか。では、どうすればいいのか。そこに知恵を結集してほしい。

  8. R・N より:

    憲法の条文を変えたところで、恣意的な解釈がなされないという根拠は無いでしょう。
    仮に改憲したとして、自衛のための戦力の保持のみを認めるとします。これを国防軍とし、国防軍が国権の発動たる戦争を行う場合は専守防衛、自国内でのみ交戦権を認める。国防軍は自国内に留めておき、自国の外に出ることは一切認めない、また、他国においての交戦権も一切認めない、というような二重三重の縛りを効かせたとしても、恣意的な解釈はなされてしまうと思います。
    それは今回の安保の一連の流れで明らかではないでしょうか?

  9. 議論続ける答え より:

    明確に集団的自衛権ができないと明記する改憲をするということですが、その前に、アフガニスタンでの給油、イラクのサマワ、ソマリアの海賊、南スーダンPKO(主任務が住民保護するために交戦する)は憲法違反であるという認識をしていない今の現状に僕は心底おびえてます。多くの人が戦闘はしないというおよそ国内向けの建前でしかない詭弁を信じている、あるいは派遣されてしまった現実に屈服しているのが今の現状ではないでしょうか。
    なぜおびえるかと言えば、今この瞬間にも実際に戦闘が行われ殺し殺されるかもしれない、そして殺し殺された時、武力の行使をしない、交戦権をもたない9条が破られるという(現に交戦状態(PKO)で違憲状態だが、殺し殺されることが起きたという)現実に直面します。必要な法整備軍法がない自衛隊を派遣し、戦闘をおこなうことの問題が発生、その後の展開は主導している現政府官僚が9条があるからこんな問題になるんだと言って9条を改憲して交戦権をもたせなければいけないとなることを思い描いているのであろうが。私たちはまたも現実に屈服してそんなひどいシナリオに乗ってしまうんだろうか。ドイツの前進はアフガニスタンでの戦死者を受けて議会の軍隊という歯止めをかけた。日本の前進はどうだろうか。僕は専守防衛に限る個別的自衛権という交戦権に改憲し、だすなら非武装の軍事監視、災害救助支援。防衛費の抑制、軍需産業の抑制、軍縮外交、停戦外交、法秩序、政府秩序構築、医療、教育、環境支援が日本の安全保障という意見です。
    僕は日本人が強く持っているであろう厭戦感情が論理に負けることを真剣におびえています。都合のよい論理を組み立てる頭の良い弱さに負けずに、深みをもたなければいけない。人間の理性と知性の歴史は、いかに一線を踏み越えないかの歴史であるのだから。

  10. 桜井元 より:

    今でさえ国会では、戦闘地域か非戦闘地域か、武力行使に当たるのかどうかで政府の答弁は曖昧模糊としている。武力行使の理由が「自衛」か否かという判別となれば、政府(官僚)がいっそう国民や野党を煙に巻く危険性は高い(秘密保護法で情報が出されないおそれもある)。個別的自衛権を合憲化する新9条には「その点を注意深く考慮に入れ、厳しく幾重にも制限をかける」と言うが、甘い見通しだ。米国は9.11後のアフガン攻撃を「自衛権」で正当化したが、非国家主体(アルカイダ)の犯罪であることや9.11からの時間の経過などから「自衛」とは言えないという国際法学者の批判は強い。自衛のため、国際平和のためと言って、どれだけ多くの人々が犠牲になってきたことか。現行9条は、だからこそ「自衛」も含めて戦争はしない、武力には訴えないという賢明な選択をしたのだ。そこを壊したら、もう日本国憲法の平和主義とは言えなくなる。

  11. 桜井元 より:

    想田氏は、改憲は改憲でもベクトルが違うと言う。しかし、重要なのは、ベクトルの向きではなく、両方の改憲論ともに現行9条とは違って武力の行使・戦争を一定条件で容認するという点であり、その点では共通ということである。ベクトルの「違い」よりも、その「共通点」こそが重要なのだ。安倍路線のベクトルでも戦争に、新9条のベクトルでも戦争に、ベクトルの向きは違っても、どちらも同じ戦争という結果に至る危険性がある。「非戦」ではない道を選ぶ以上、当然のことだ。非戦の9条を捨て新9条を提案・推進する側は、そのことによって出るであろう内外の犠牲者にどう顔向けするのか。どう自身の言論・運動の責任をとるのか。「正当な自衛権発動であり敵国が悪かったのだ」と言って逃げるのか。「内外の戦没者には気の毒なことをしたが致し方なかったのだ」と逃げるのか。また「戦没者慰霊式典」を毎年開いて供養するのか。

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想田和弘

想田和弘(そうだ かずひろ): 映画作家。ニューヨーク在住。東京大学文学部卒。テレビ用ドキュメンタリー番組を手がけた後、台本やナレーションを使わないドキュメンタリーの手法「観察映画シリーズ」を作り始める。『選挙』(観察映画第1弾、07年)で米ピーボディ賞を受賞。『精神』(同第2弾、08年)では釜山国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞を、『Peace』(同番外編、11年)では香港国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞などを受賞。『演劇1』『演劇2』(同第3弾、第4弾、12年)はナント三大陸映画祭で「若い審査員賞」を受賞した。2013年夏、『選挙2』(同第5弾)を日本全国で劇場公開。最新作『牡蠣工場』(同第6弾)はロカルノ国際映画祭に正式招待された。主な著書に『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『演劇 vs.映画』(岩波書店)、『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)、『熱狂なきファシズム』(河出書房)、『カメラを持て、町へ出よう ──「観察映画」論』(集英社インターナショナル)などがある。
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