『選挙』『精神』などの「観察映画シリーズ」で知られる映画作家、
想田和弘さんによるコラム連載です。
ニューヨーク在住の想田さんが日々「観察」する、
社会のこと、日本のこと、そして映画や芸術のこと…。
月1回の連載でお届けします。
第31回
ロカルノから見える
日本の風景
新作ドキュメンタリー映画『牡蠣工場』(かきこうば、2015年、145分)がスイスのロカルノ国際映画祭から正式招待を受けたので、現地でのワールドプレミア上映に出席した。
ロカルノ映画祭は、1946年から続く老舗の祭典である。アルプス山脈の谷間にあるロカルノの人口は普段約1万5千人に満たないが、毎年約16万人の観客と1000人のジャーナリスト、3000人の映画関係者を集める。世界でも指折りの国際映画祭である。
僕は今回初めて参加したのだが、ヨーロッパの「街の底力」を改めて見せつけられた思いである。
その「力」の源泉は、なんといっても古いものを温存しつつ、うまく利用した街づくりであろう。路地の多い昔ながらの街並みは、自動車の通行のために区画整理されたりせずにそのまま残されている。そのため街では車が大きな顔をせず、歩行者が闊歩し、小さなお店やレストランが元気良く営業している。大資本のチェーン店は目立たない。路線バスは夜の12時まで動いている。人口規模を考えれば驚異的である。
ロカルノの中心部・グランデ広場
街の中心部には、8世紀に作られた「グランデ広場(ピアッツァ・グランデ)」がある。映画祭の最大の呼び物は、この広場での野外上映だ。巨大なスクリーンが張られ、星空の下で最大8000人(!)もの観客が一堂に会して映画を楽しむことができる。
広場には多くのレストランやお店、アパートが面しているが、驚いたのは、映画が始まる時間になると一斉に電気や街灯が消されて、真っ暗になることだ。あれだけの数の商店やアパートがあれば、誰か一人くらい「俺は電気を消さん」とダダをこねてもよさそうなものだが、よく誰も文句を言わないものだ。その事実一つとってみても、「この街の人はみんな映画と映画祭を愛しているのだなあ」と感じられて、なんだか感動してしまうのである。
グランデ広場に設営された野外劇場
その一方で、どことなく暗澹たる気持ちになるのは、祖国日本との差があまりにも激しいからであろう。
ここ20年くらいだろうか、日本の中小都市の荒廃には目を覆いたくなるものがある。駐車場の乏しい旧市街のお店には軒並みシャッターが下り、ゴーストタウンのようになっている。市街から離れたところには、必ずといってよいほど広いバイパスが通り、判で押したような大型チェーン店やモールが並ぶ。車の列は嫌というほどみかけるが、街を歩いている人はほとんどいない。路線バスなどは廃止されているか、風前の灯である(人口15万人のわが故郷足利市でもそうだ)。人々は車と道路によって分断され、街は他者に出会う機会を提供しない。街が街でなくなりつつあるのである。
映画『牡蠣工場』の舞台となった岡山県瀬戸内市の牛窓は、たぶん元々はロカルノのような街だった。万葉集にも詠まれた由緒ある街・牛窓は、かつて朝鮮通信使や参覲交代の行列が宿場として選ぶほど、栄えていた。街並みは古く、伝統文化も驚くほど豊かだ。ロカルノには湖があるが、牛窓には瀬戸内海がある。そんなところまで似ている。
だが、戦後の日本が自動車を基幹産業と定め、全国津々浦々に高速道路やバイパスを通し、森や山や田畑を破壊して住宅地にしていく中、牛窓はおそらく、そうした「近代化」から取り残された。牛窓の中心部には細い路地が張り巡らされ、一番広い道路でも車がやっと一台通れるくらいの幅なのだが、そうした僕に言わせれば魅力的な特色が、大多数の人からは「車で行きにくい」「交通の便が悪い」と切って捨てられたのである。
最近の牛窓では勤労世代の流出が止まらず、急激な過疎化が深刻化している。『牡蠣工場』では、牡蠣剥きのための働き手がいよいよ足りなくなって、中国から労働者を呼び寄せる様子を映し出しているのだが、それもロカルノとは対照的である。ロカルノは物価も高いが労働条件も良く、最低でも月30万円くらいの収入が保証されるそうで、フランスなどからも労働者が好んで働きにやってくる。働き手の流出どころか流入が起きているのである。
ロカルノと牛窓。どちらも歴史ある風光明媚で魅力的な街なのに、いったいなんでこうも違ってしまったのだろうか。『牡蠣工場』の上映に立ち会い、観客たちの反応を眺めながら、そんなことをつらつらと考えざるを得なかった。
* * *
映画祭での全日程を終え、ほっと一息つきながらスマホをたぐりよせると、気の滅入るようなニュースが目に入った。鹿児島県の薩摩川内市にある川内原発が再稼働されたのである。
周知の通り、夏場でも電力は足りている。
再稼働の決定的な理由は「経済」である。
新聞記事では、地元で民宿を営む人の安堵の声が紹介されている。民宿の7割の客は、原発関係者なのだそうだ。それが原発とともに生きてきた地域の人々の本音なのだろう。そのことを責めるつもりはない。
原発推進派からは、「地方には人口が少なくこれといった産業がないのだから、原発を動かすより仕方がないのだ」という声も聞かれる。
しかし、である。
薩摩川内市の人口は、約9万6千人である。ロカルノの6倍以上の人口だ。そんな大きな街が、事故になれば街そのものを消滅させかねない原発という魔物に頼らないと経済が回っていかない。なんだかおかしくないだろうか。
勿論その「おかしさ」は、一朝一夕に生じたものではない。きっと日本の近代化と「街」の破壊ともに、戦後を通じてゆっくりとジワジワと進行してきた変化の帰結なのだろう。だから福島で原発事故が起きたからといって、いま急に川内で「原発に頼らない経済」ができるはずもない。ドラッグに冒された体が、簡単にはドラッグをやめられないように。そういう意味では、仕方がないのかもしれない。変化には時間が必要だ。
だけど……?
日本という国は、いったいどこでどう進む道を間違えてしまったのだろうか。そして、今からでも方向転換することは本当にできないのであろうか。
ちなみにスイスは福島の事故を受け、2011年に早々に段階的脱原発を決めた。今でも5基の原発が稼働中だが、耐用年数がきたら廃炉にし、今後の新設は行わない方針である。遠く離れたスイスの人たちが、事故の教訓を活かせているというのに……。
ニューヨークに帰るため小さなプロペラ機に搭乗し、美しいロカルノとアルプス山脈を眼下にしつつ、僕の頭の中は日本の過去と現在と未来のことで占領されている。
映画『牡蠣工場』の一場面。日本では2016年早春から劇場公開予定(東風配給)
*『牡蠣工場』予告編はこちらから
〈(最近の日本では)「資本主義万歳」という風潮に対する歯止めのようなものが非常に弱体化しているように思う〉──これは、初めて「マガ9」に出ていただいたときのインタビューで、想田監督がおっしゃっていた言葉。ロカルノと牛窓の違いも、福島の事故がありながら原発再稼働に至ってしまったことも、根っこにはお金で測れるものだけをよしとする「資本主義的な価値観」への著しい偏りがあるのではないか、という気がします。
日本はいったいどこでどう道を間違えたのか。「今からでも方向転換しよう」と考える人が増えれば、できないはずはない、と思いたいのですが。
想田さんの書かれたことにとても共感します。私は北海道の小樽という、人口13万くらいの町に住んでいます。運河と寿司とガラスの街として観光客が多数訪れますが、運河を半分埋め立てて造られた幹線道路沿いには、洋服の青山、牛角、ゲオ、ユニクロ、ドラッグストア、車のディーラーなど全国巨大資本の店舗がひしめき、歴史ある町の個性と魅力を減じているように個人的には感じています。いろいろなことの根っこは、結局はひとつで、それは私たちがあまりにも「中央」の言いなりでありすぎたということではないかと。それを取り戻すには、他人任せにしない、面倒くさいことに立ち向かう、すぐには結果が出ないかもしれないことを受け入れる、という強い意志が必要だと感じています。それらはロカルノの人々には当たり前のことなのかもしれませんが。「大切なことは何か」「豊かな暮らしとは何か」という本質をつかみなおしたいです。
津軽海峡を挟んで大間原発と向き合う函館市に住んでいます。2014年4月3日、函館市工藤市長は福島原発事故を受けて、原発事故の過酷さと街が消滅する恐怖を訴え市民の安全と財産を守るための提訴しました。私自身は大間原発に反対する20年以上の時間を経て人々の無関心に取り囲まれ一歩も進めない思いも経験しました。自治体の首長が決めてすべてその通りに進むわけではありません。2つ原発裁判を抱える町に住み、市民裁判の原告として、全国初の自治体裁判を注視しながら、原発と暮らしそして未来は共存できないことを市民や他の人たちに訴える日々です。20数年の反原発の活動で「理想と未来のないところに原発はやってくる」を実感しました。ロカルノと牛窓の違いは未来を見る視点を持つかどうかと思います。