『選挙』『精神』などの「観察映画シリーズ」で知られる映画作家、
想田和弘さんによるコラム連載です。
ニューヨーク在住の想田さんが日々「観察」する、
社会のこと、日本のこと、そして映画や芸術のこと…。
月1回の連載でお届けします。
第28回
私たちは「橋下徹」におさらばできたのか
大阪市を廃止し分割する構想が、住民投票によって僅差で否決された。
拙著『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)やツイッターなどで繰り返し申し上げてきたように、橋下徹という政治家は日本の民主主義にとっては脅威であり、危険な人物である。
そして彼が強硬に押し進めてきた大阪市廃止分割構想は、多くの地方自治や行政学の専門家が指摘するように、リスクばかりでメリットが見出せない、本来ならば議論の俎上に上がろうとする時点で退けられなければならなかった「トンデモ構想」である。
したがって、それが住民投票で否決され、橋下氏が政界引退を表明したことは、大阪にとっても日本にとっても朗報である。少なくとも「大惨事がとりあえずは避けられ、首の皮一枚でつながった」という意味では、喜ぶべきことであろう。正直、僕もホッと胸をなでおろした。「毎日新聞」(電子版)は「さらば橋下徹劇場」などという見出しで、かなりセンチメンタルな記事を発表している。
しかし、である。
私たちは本当に「橋下徹」とおさらばできたと言えるのであろうか。
そのことを冷静に考えると、残念ながら「否」と言わざるを得ない。
まず、「賛成」の得票の大きさである。たまたま約1万票の差で構想は否決されたが、有効投票の半数近い69万4844人は賛成した。大阪市民がその総意として構想に「ノー」を言ったとは、到底言い難い結果である。そのことは重く受け止めなければならない。民主主義は「勝ち負け」ではないのだ。
また、橋下氏のさばさばした笑顔での敗戦の弁が、「潔い」だの「無私」だの「すがすがしい」などと評され、好感を持って受け止められているのを目にすると、薄気味の悪さを感じてしまう。
例えば、堀江貴文氏は橋下氏の記者会見について、「すごい、すごいですよ、よくこんな会見できるなって」とテレビ番組でコメントしたようだし、脳科学者の茂木健一郎氏は、記者会見での橋下氏の言葉や態度から彼を「公に奉仕した人」だと誤解し、「さわやか」だと賞賛した。
だが、僕に言わせれば、橋下氏ほど政治を私物化してきた人は、なかなかいない。そもそも大阪市分割構想でさえも、頭の良い彼が本気でそれが大阪のためになると考えていたとは、到底思えない。身も蓋もない言い方をするならば、彼は結局「自分が勝つため」に分割構想や住民投票を道具として利用しようとしたにすぎない。要は橋下氏は自らの威信を試す私的な勝負事に、大阪市民の膨大な税金と時間とエネルギーを空費した。それが今回の住民投票の本質だと思うのである。
そのことは、当の記者会見における橋下氏の言葉をちょっと注意深く分析するだけでも明らかだ。彼は府知事と市長を務めた期間を 「大変幸せな7年半」だったと述べ、僅差での否決を次のように評した。
「こんな最高の終わり方ないじゃないですか。ボロカスにやられたらシュンとするけど、こんなありがたいことないですよ。本当に悔いがないし、総力戦でやってくれて、最後結論がこうなって、これはトップとしてありがたい話はないです。本当に納得できる」(ハフィントンポスト日本版)
桜を愛し「散り際の美学」を持つ日本人の琴線には、思わず響いてしまう「さわやかさ」である。実際、もしこれがオリンピック選手か何かの敗戦の弁であれば、僕も惜しみない拍手を送ったことであろう。
だが、橋下氏は政治家である。政治はスポーツではない。これまでの橋下氏の言動を考えれば、素直に感動してはいられないはずだ。なぜなら彼は、大阪市廃止分割構想を「大阪再生のラストチャンス」だと煽り、それが実現しなければ大阪はダメになるとさえ主張していた。もし橋下氏が本当にそう信じていたのなら、住民投票で構想が否決された今、その結果を厳粛に受け入れつつも、大阪市の将来を本気で心配するのが自然なのではないだろうか。
にもかかわらず、橋下氏は「本当に悔いがない」などとにこやかに述べた。構想に未練などなさそうである。このことから導き出される推論は、橋下氏がそもそも自分の構想を信じていなかった(嘘を言っていた)か、大阪の将来などどうでもよいか、のいずれかであろう。
いずれにせよ、橋下会見が醸し出す「すがすがしさ」とは、彼があくまでも個人的な人生史を振り返って「本当によくやったな、オレ」などと自己満足するすがすがしさなのであり、「公に奉仕する」者の言葉では断じてないのである。
会見で露わになった橋下氏の民主主義観にも、僕は改めて強い違和感を覚えた。彼は記者から「70万人という賛成の数を見ても、引退の気持ちに変化はないか」と問われて、次のように述べた。
「だってそれはもう、政治ですから。負けは負け。ここは公務員と違うところです。きのうの街頭演説では戦を仕掛けたわけですから。『叩き潰す』と言って叩き潰された。民主主義、大変素晴らしいですよ。メディアも含めて徹底議論した。負けたのに命を取られない政治体制は、日本はすばらしい。僕はこのまま生きて別の人生を歩めるわけですから。絶対に民主主義は是が非でも守らなくてはいけない。そのためには報道ですよ。報道の自由は絶対に守らないといけない。僕もメディアにはやいのやいの言ってるけど、報道の自由が民主主義を支える根幹ですから。メディアの皆さんにも頑張ってもらいたいし、素晴らしい政治体制だと思いますね」(ハフィントンポスト日本版)
橋下氏は、構想反対派の急先鋒である藤井聡京大教授を出演させたテレビ局に抗議文書を送るなど、報道の自由を露骨に侵害してきた。その彼が、自らの行為を棚に上げて報道の自由を語る。また橋下氏は、「独裁が必要」「選挙はある種の白紙委任」などと公言し、赤狩りを彷彿とさせる思想調査を強引に行うなど、民主的理念や制度を絶えず攻撃してきた。その彼が、民主主義を「素晴らしい政治体制」と持ち上げる。
これまでの橋下氏の言動を知る者からすれば、こんな笑止千万の欺瞞を受け入れるわけには到底いかないのだが、それにつけても気になるのは彼の戦闘的で幼稚な民主主義観である。
橋下氏は民主主義=多数決であると単純化してとらえ、民主政治のプロセスを多数決に勝つための勝負事であると勘違いしているようである。
だが、デモクラシーは戦争でも博打でもない。それは自立した個人がそれぞれの利害や意見や価値観をすり合わせ、なんとか妥協しながら、時間をかけて合意形成を図っていくための政治体制である。最後は仕方なく多数決を取り、勝つ側と負ける側が出るけれども、それでも少数派の権利が守られ、「敗者」が出ないことを目指すのが民主主義なのである。
しかし、残念なことに現代の日本には、橋下氏のように民主主義を多数決であり闘争であると(漠然と)誤解している人が多いように僕は感じる。だから橋下氏のお粗末な民主主義観は、割とすんなりと多くの人に受け入られてしまうような気がしてならない。というより、彼の民主主義観に同意する人が多いからこそ、橋下氏はこれまで7年半も首長の地位についてきたのだし、政党を作って短期間に一大勢力をなし、国政にも重大な影響を及ぼしてきたのではなかったか。つまり私たち主権者の貧しい民主主義観こそが、私たちが住民投票での否決をもってしても「橋下徹」とおさらばできない、本当の理由なのである。
それにしても、橋下徹という政治家は、本当に油断がならない計算高い人物である。これまでも常にそうだったが、ダメージコントロールに恐ろしいほど長けている。
橋下氏が政治生命をかけた大阪市廃止分割構想が否決されたことは、彼の人生にとっても最大の危機であったはずである。ところが彼は、記者会見で日本人の心の奥底に潜む「散り際の美学」に訴える言葉を連発することで、ピンチをチャンスに変え、おそらくかなり大勢の日本人の心を自分につなぎとめることに成功してしまった。
かつて「民主主義は感情統治」とツイートした橋下氏の本領が、またもや土壇場で発揮されてしまったのである。記者会見における、記者たちと橋下氏の甘ったるいやりとりを読んでいると、人質事件などの被害者が加害者に同情や好意を寄せる「ストックホルム症候群」を思わず連想してしまった。
いずれにせよ、マスコミによって大々的に取り上げられた彼の記者会見は、たしかに橋下劇場の「第一幕」の終了を告げたのかもしれない。だがそれは、おそらく同時に「第二幕」の開幕をも告げている。彼はさすがに次の大阪市長選には出馬しないであろうが、テレビのコメンテーターなどとして、下手をするとこれまで以上の影響力を政治や世論に行使することになるであろう。
そして再び「橋下待望論」が強まり、好機が到来するならば、橋下徹氏は政治家としても復活するのではないだろうか。あれだけ集中砲火を浴びて失脚した安倍晋三首相が、数年後には何事もなかったかのように首相に復活できた国である。橋下氏の政治家復活など、「普通の女の子になりたい」と言って引退したキャンディーズのメンバーが復活したのよりも(古い!)、お茶の子さいさいだと思う。
実際、ジャーナリストの田原総一朗氏はBLOGOSのインタビューに答え、早々に「住民投票は勝者なき戦い。橋下徹が政治家をやめることには反対だ」などと述べている。その論旨はめちゃくちゃで、大阪市廃止分割構想のことを詳しく検討した形跡すらなく、田原氏のことが逆に心配になってしまうのであるが、橋下待望論はすでに世の中に出回り始めているのである。
〈多分これから、橋下さんという人も消費されていく。そしてその次には、また彼のかわりに消費される人が出てくるんだと思います〉——これは2012年末、想田さんが政治学者の中島岳志さんとの対談の中でおっしゃっていたこと。中島さんもそれに応えて〈僕たちが抵抗したいと思っているのは、橋下さん個人ではなくて「橋下的なるもの」全体なんですよね〉と続けられています。
橋下市長の今後についてはわかりませんが、いずれにせよ彼の政治手法——単純化して「敵」をつくり、バッシングを強めることで支持を集める——を受け継ぐ政治家は間違いなく今後も、次々に登場するでしょうし、「橋下的なるもの」は世にあふれ続ける。それに対して、私たちはどうするのか? が問われます。
橋下さん、タモリとかたけしとかさんまになりたかったんだと思うんですよね。で、石原さんをタレントとして担ぎ上げようとしたんだけど、もともと俺が俺がの人だから、そういうのあまり得意じゃなくて、物別れに終わってしまった。同じく東さんも中田さんも育てられなかった。あとは毎年出ては消えていく一発芸の芸人のごとしで、激しく消費されて賞味期限ギリギリで解散(引退)宣言。タモリとかたけしみたいに軍団プロデュースできれば、ハシズムからファシズムへの芽もあったけれど、今の一人で全員を引っ張って行く手法のままじゃ、また呼ばれてもここが限界なんじゃないですか。
この記事を拝見するまで、想田さんという方を存じなかったのですが、
極めてマトモなご意見に触れて、ほっと致しました。
世間は「橋ロス」とか「やめないで」とか、記者会見が「すがすがしい」
とか、どう考えてもおかしいコメントで溢れており、大丈夫か皆さん、
と思っていた所でした。
橋下氏が引退して維新が解散してくれる事が、民主主義に戻すための
最善策だと思っていたのですが、同じ意見の方を見つけられずにいました。
そもそも、「都構想でなければ大阪はおしまいだ!」と言っていた人の
口から「もういいです、楽しゅうございました」なんて言葉が出てくる事
なんて到底有り得ず、本人にとっては単なるゲームだった様に思われます。
今日は想田さんのご意見が読めて良かったです。ご本も読ませて頂きます。
橋下市長は藤井教授の7つの事実に対してデマと決めつけるのみで結局最後まで何の反論もできていませんでしたね。
にも拘らず、ケンカにしかならない公開討論を藤井教授が拒否したことだけが拡散し、藤井が逃げた!などというデマが飛び交ってしまいました。
橋下市長に冷静な議論を呼びかける風潮が殆ど見られなかったのが非常に残念です。
あろうことか「シルバーデモクラシー」だの「生活保護受給者のせい」だの
レッテル張りでまた敵を作り出して攻撃する輩がいますが、
「橋下市長が議論から逃げたので都構想は支持を得られなかった」
と賛成反対抜きに胸を張って言えるのが本来の民主主義ってもんでしょう。
橋下は、狡猾な人だと思います。なぜなら勝てば官軍的な言い回しで今まで好きなよう(多くの人が不満に思ったりしていることを気持ちよく片付けたように見せる)にして人々に共感を植え付ける。今回の大阪市廃止分割法案も、結局7年間の無駄の総括そっちのけで、「終わった」の一言で片付けてしまうのはあまりにも、賛成票に1票を投じた人々をバカにしているように思えますし、無責任です。やはり、ヒトラーのようなファシズム的な者を望んでいる今の世間が少し怖いと思います。橋下は、「民主主義は良いです(多数決で何でも決められるンですからと)」言い放つ。しかし民主主義は勝ち負け・けんかの道具ではない。これによりまた本当の民主主義が後退したと思います。大阪府の7年間の累積赤字(本当の)と今まで市政業務を怠っていた責任を、はっきりさせるべきです。
一大阪市民です。想田さんの文章に行き当たり、「ああ、自分が漠然と感じていたことを見事に表現してくださっている」と感慨をもって読ませてもらいました。でも、うちの大学生の娘も、「この人って、やっぱり政治家じゃなくて、カリスマ弁護士だったんだな」って言ってましたので、橋下氏の幼稚な民主主義観、政治を自分の人生の充実で見ている奇妙さを感じた者は、若い世代でも以外といるのかもしれません。それなら少し安心もするのですが…。
都構想における推進側と批判側、双方の前提に関して、住民投票の事前事後を通して、
投票の判断材料がもたらされる事は少なかった。メディアは橋下氏の大風呂敷、田舎役者ぶりを
ダイジェストで編集するばかりで一斉に思考停止していたと言ってよい。
つまり、投票する為の前提である、「制度変更の利点・損害の見積もりを出さず」、ただ単に
住民投票(政治家としての橋下氏)への是非、人気投票と言った煽り合いで話題を消費する点が目についた。
「二重行政」「公務員」これを是正するのは大切だが、しかし(「出口調査から」恣意的に後付けられ、
敬老パスの利権で物語られる”シルバー民主主義”を罵倒する)賛成派は、この二言を繰返すばかりで、
具体的中身や将来性を見通した政策議論を行う能力は皆無だった。
そんな中、僅差の否決結果を藤井氏がどう捉えているのか――
関連記事を色々と読んでいる中で、藤井氏がこの想田氏の記事に導線を貼っているのを目にした。
馬鹿げた橋下礼賛に飽いた私に、想田氏のコラムは(御調子に乗り杉の)藤井氏の言う通り
至極真っ当な視点だ。
ところで、貴サイトの承認基準、つまり、一部の三文文士、その妄説に関して批判を行うと、
それを恣意的に非掲載にする姿勢には未だに赦しがたい遺恨がある。ここを訪れるのも数年ぶりだ。
まあ、今回は有益なコラムだったが、しかし、私はあなた方もまた民主主義の代行者だとは考えない。
ただ、こうした民主主義や法治国家の根底を揺るがす政治家、俗論に対しては
理念やお題目でなく、丹念に、事実に即して論証する、そうした報道、そして想田氏のような姿勢が
長い目で見れば支持される。九条に関しても法律家の原理原則そうした視点からの叩き合いを期待したい。
そもそも橋下氏が出て来て有権者が変わった訳ではない。もとより武家文化というのは弱い奴は足手まといの悪でありいじめられ踏みにじられて当然であり、また常に戦争していないと存在価値を証明できないのである。そして坂本竜馬だの高杉晋作だのという戦争と権力奪取に自分の存在意義を見出す<青春物語>が経済効果ゆえに史実として称賛される。こんな文化で育って、「少数派弱者を尊重」「勝ち負けで考えない」「政治を私物化するな」と言える人の方が不思議である。ましてカタギの一般人までが<まっとうな人間よりウケる人間が偉い>と考える大阪ならなおさらだ。(ゆえにゴミと放置自転車が溢れるのだ)しかし今や「コミュ力」の名前で日本中が水商売化大阪化させられている。仮に橋下氏が復活しなくても橋下的なものはいつでもどこでも現われるのではないかと心配になってしまう。
橋下徹氏の人気を支えたのは、国から地方公共団体までの日本全体を覆う財政難への不安である。併し、この財政難を克服してみせるといって国民の支持を集めた政治家のやったことは、殆どが末端の窓口業務などに従事する公務員を日本の財政難の根源として叩くことだった。橋下氏も文楽協会などへの支援のカットなどで、行政のカットを行う姿勢をアピールしたことが有権者の支持獲得につながったのだと思う。併し本当に公務員の人件費が日本の財政を悪化させている本当の原因なのだろうか。私には東京オリンピック、リニアモーターカーや新幹線などのほうが日本の財政の悪化の原因の様に思われるが、そうしたことについて日本の財政立て直しを主唱する政治家は殆ど、その財政への影響について検証しようとしない。郵政民営化後に、郵便料金の値段が下がることはなかった一方で、郵便物の配達にかかる時間が長くなり、郵便局の窓口はいつも混雑しているようになったと思う。橋下氏の大阪都構想も、どの様な理屈で大阪の財政改善につながるのかがよくわからない。寧ろ、道路や高速交通機関の発達が、地方の経済の地盤沈下を待たらしているというストロー効果という観点からは、橋下氏はリニア反対の立場を取るべきだったし、大阪の地盤沈下は東京の一人勝ち(実際は現状維持といったほうがより適切か)と表裏一体にあることははっきりしているのだから、東京オリンピック反対を主張すべきだったように思われる。いずれにしても公務員の人件費カット(しかもその削減の対象になるのは窓口業務を担当する末端の職員である)よりも無駄な大型公共事業を削減したほうが、日本の財政の改善には有効だと思う。腹が立つのは、馬鹿馬鹿しいオリンピックのつけは確実に、オリンピック反対の私にも、年金や医療費(最近の報道で財界が高齢者の医療費負担を増やせと主張しているとの報道があった)の問題を通じて、そのツケを支払わせられるという事だ。これには、本当に我慢ならない。オリンピックがペイするといってオリンピックを支持する人たちは、オリンピック債の購入を義務付けるという形で、オリンピックの運営費はオリンピック開催に賛成の人だけで賄うような仕組みを作るべきだ。彼らはオリンピックが黒字になるというのだから、オリンピックの運営費をオリンピック債という形で負担しても、オリンピックが成功するのだから、オリンピック債はとても有利な投資になるはずだから文句はないはずだ。
住民投票が終了し、賛成派・反対派・メディア・専門家・評論家・著名人等々から「Silver Democracy vs Young Democracy 論」であるとか、「Tax Eater vs Taxpayers 論」等様々な視点での分析が行われてきたが、はじめて全文同意でき、賛同できる的確な文章に遭遇した気分です。
想田氏は、橋下徹の「民主主義感」について指摘をしていただいていますが、これは我々有権者も「民主主義」とは、政治家を選択する重さを考え、学ばないといけない事だと思う。
橋下徹や松井一郎は「僕を嫌いでも良いです」「これはシステムを選んでください」本当に橋下徹らを知る者は開いた口が塞がらない常態だっただろう。
こういった現象は橋下徹が大阪都構想を口にし始めた頃から随所に呆れて開いた口が塞がらない事や中には怒りさえ覚えてしまうよう事が私が関わりだした3ヶ月間の間だけでも何度も見られた。
そして、痛感した事はマスコミの「中立性・公平性・ジェーナリズム」に対する違和感だ。
伝聞情報だけしか報道できないようなメディアが「中立性・公平性・ジェーナリズム」を語るべきではないと思う。
少なくともプロではないし、アマチュアレベルとも言えない、言ってはなんだが「学級新聞」レベルとも言える。
投票に影響を及ぼすような報道は避けられてしかるべきであるが、例えば産経新聞のみが報じた「不審電話事件」スポーツ紙が報じた「100万件のスパム電話事件」どこも事象のみの報道で真相にまで迫ろうとはしない。
こういった事でさえも放置して、あたかも見て見ぬフリをしてしまうようなメディアはジャーナリズムの崩壊とも言えるだろう。
橋下徹と言う政治家、そしてその顔だけで数あわせで当選してしまう「橋下チルドレン」それを民意とする民主主義と並んでジャーナリスト、メディアにも大きな問題があると思っています。
負けた「賛成派」が無言を貫いているのに、勝った「反対派」がなぜ「言い訳」を連ねるのかが、よく分からない。
今後の大阪市政は、あなた達「反対派」のお手並み拝見だが、橋下氏と「おさらば」できるかは、あなた達の政治手腕にかかっている。まずは12月の市長選挙に勝たないとね。
大阪市長は民主主義体制にとっては危険な人物であることは間違いない。民衆は言動の中身より彼のパフォーマンスに踊らされ易いからだ。
それにしても魅力のない人物だった。志が感じられないのだ。失敗、負けを恐れ、常に自分に対する期待感を推し量らねば行動できないひ弱な人間。引退記者会見終了までその評価は変わらなかった。 強がりを見せ弱点をさらけ出す姿は「個」の弱い人間の常套手段である。また、政治家に欠かせない立憲主義を全く理解していなかった。 しかし、大事なのは彼の評価ではない。もう既に「第二幕」の開幕が告げられていることだ。また民衆は彼に踊らされるのだろうか。その兆候が既に現れているのだ。 そこで、民衆の投票行動は目先の利害で動くのが大半の様だ。だとすれば、立憲主義と目先の利害が一致する単純なフレーズを考えて置くことは有意義かも知れない。憲法改正国民投票の結果を左右する大きな力を発揮するかも知れないからだ。
私たちが「橋下徹」におさらばできるかどうかは、居酒屋談義レベルの政治に対する考え方とおさらばできるかどうかなのではないか。多数決は直感では正しいと思ってしまうのだけれども、実はそうではない。本質はそうじゃないんだっていうことを、うったえていかなければ、同じことは繰り返されると思います。