映画作家・想田和弘の観察する日々

『選挙』『精神』などの「観察映画シリーズ」で知られる映画作家、
想田和弘さんによるコラム連載です。
ニューヨーク在住の想田さんが日々「観察」する、
社会のこと、日本のこと、そして映画や芸術のこと…。
月1回の連載でお届けします。

第27回

デモクラシーの病

 統一地方選挙の前半が終わった。

 「毎日新聞」によると、41道府県議選のうち38道府県が過去最低の投票率。17政令市議選では12市で過去最低の投票率を記録したそうだ。

 「日刊ゲンダイ」によれば、無投票当選者は501人に上り、総定数の22%が戦わずに当選した。これも過去最高だそうである。おびただしい数の主権者が、投票の機会すらなかったことになる。ただごとではない。日本のデモクラシーが重い病気にかかり、じわじわと根元から腐りかけているのだと思う。

 デモクラシーの病の兆候は、なにも今になって突然現れたわけではない。

 僕が遅まきながら「おや?」と思ったのは、2005年に『選挙』というドキュメンタリー映画を撮ったときである。東大時代の同級生である「山さん」こと山内和彦が、突然、自民党公認候補として川崎市議会補欠選挙に立候補することになった。僕はその選挙戦の舞台裏をカメラで追ったわけだが、「日本人はこんな選挙で自分たちの代表を選んでいていいのだろうか?」と不安になったのを覚えている。

 このときの山さんの選挙は、一体どんなものだったのか?

 詳しくはDVDなどで映画をご覧いただきたいのだが、ひと言で言うならば、日本の伝統芸能のごとき「どぶ板選挙」である。今回の統一地方選挙でも日本全国で繰り広げられたであろう、あのお馴染みのスタイルだ。

 スーツにタスキ、手には白い手袋。選挙カーで名前を「3秒に1回」連呼して回り、「よろしくお願いします!」と道行く人にかたっぱしから握手を求めていく。駅前に立って「おはようございます! いってらっしゃいませ!」と通勤客にあいさつする。運動会やお祭りなど地元の行事に顔を出したり、農協で個人演説会を開いたりして、組織票を固めていく。一方、公開討論会などは一度も開かれず、したがって政策論争は皆無。

 それでも投票日は確実に来る。そして30%台の低投票率の中、山さんの当選が決まった。一体、川崎の主権者は何をどう判断して一票を投じたのだろうか。僕には正直、よくわからなかった。

 気になったのは、道行く主権者たちの無関心……というよりも、候補者たちに対する嫌悪感である。山さんや他の候補者が街頭で演説していても、まず誰も振り返りもしない。というより、嫌なものを避けるがごとく、絶対に目を合わさないように、身体を固めて足早に通り過ぎていく。

 たしかに、スーツにタスキ姿は格好悪さの極致だし、候補者たちは“お願い”ばかりで押し売りっぽい。選挙期間中だけ腰が低いのもなんだか浅ましい。精神科医の斎藤環さんが「羞恥プレイ」と評するのも頷ける。

 しかし、である。

 自分たちの代表が「目も合わせたくないほど嫌悪される存在」で、本当にいいんだろうか? そういう疑問が湧いてくるのを抑えることはできなかった。

 当時人気絶頂だった、小泉純一郎首相に対する人々の反応も気になった。このとき小泉氏は、山さんや川口順子候補の応援演説に川崎入りしたのだが、演説会場となった鷺沼駅前は、山さん単独の演説とはうって変わって黒山の人だかり。小泉首相が到着するや、みんな体を乗り出して写真をパチパチ。あたかもロックコンサートのような光景だった。

 この恐るべきギャップ。一体全体、みんな何に熱狂しているの……?

 思えば、いま誰の目にも明らかなデモクラシーの病は、当時すでに相当進行していたのだと思う。ただ、僕はあの頃はそのことを薄々感じているだけで、明確に「病」と認識することができなかった。

 僕がそれを深刻な病気としてはっきりと自覚したのは、2011年4月に『選挙2』を撮影したときである。

 このときの山さんはすでに自民党から干され、「主夫」として子育てをしていた。ところが3月11日、あの東日本大震災と福島第一原発事故が起き、山さんは4月1日告示の市議選に無所属で出馬する。「脱原発」を訴えるためである。

 当時の川崎では、かつての約2倍の空間放射線量が検出されていた。街ゆく人の多くは、放射性物質を恐れてマスクをしていた。一地方自治体とはいえ、川崎市にとっても放射能汚染や原発は議論を避けては通れない重要な問題だったはずである。したがって、川崎市が今後原発に対してどういう態度を取るべきか、統一地方選挙は「民意」を擦り合わせる絶好の機会になり得たはずだ。なぜなら、選挙とは本来、共同体にある問題を洗い出し、議論して意見を擦り合わせ、決定するための貴重な機会だからである。

 ところが、実際に起きたことは真逆の事態であった。

 原発の問題はタブー視され、山さん以外の候補者の口から「原発」や「放射能」といった言葉が聞かれることはほとんど皆無だった。候補者討論会も一度も開かれなかった。

 代わりに繰り広げられたのは、おなじみの選挙風景である。候補者たちは相も変わらず駅前に立ち、「おはようございます、いってらっしゃいませ」と道行く人にあいさつをする。道行く人たちは、身体を固めてその前を足早に通り過ぎてゆく。そうしていつの間にか投票日がやってきて、5割に満たない低い投票率の中、結果が出てしまう。何かがおかしい。壊れている。

 そういう選挙のあり方に、わたしたち主権者は心底うんざりしているのだと思う。

 だからこそ投票率は下がる。無投票の地域も増える。政治への関心も薄れる。するとさらに選挙や政治が劣化し、さらにわたしたちはうんざりする。うんざりするから投票率は下がる。無投票の地域も増える。するとさらに…(以下略)。

 そういう悪循環が、デモクラシーの病を少しずつ、しかし着々と重篤化させているのであろう。

 この恐るべき病に対する処方箋は、一体なんであろうか。

 正攻法は、選挙制度をまともなものに変えることである。つまり選挙を「共同体にある問題を洗い出し、議論して意見を擦り合わせ、決定するための貴重な機会」に作り変えるのである。

 そのためにはまず手始めに、選挙カーやポスターといった政策論議とは無関係の制度を即刻廃止すべきである。逆に候補者討論会の開催は、公職選挙法で義務化すべきであろう。討論会は、皆に発言の機会をたっぷりと与えるため、選挙期間中、毎日朝から晩まで延々とやるのが良い。公共の電波を使っているテレビ局には、その討論会をノーカットで放映することを義務付けることも必要であろう(これが本当のメディアの公共性である)。

 また、やる気と能力があってもお金のない人が選挙に出ることを阻んでいる供託金は、一切廃止。「それでは候補者が乱立してしまう」というのなら、一定の推薦署名者数を集めるなど、資金力とは関係の無い別のハードルを設けるべきである。

 いずれにせよ、選挙制度を健全化するためにやれることは、山ほどあるはずなのである。

 しかし最大の問題は、公職選挙法を定める当の政治家たちの大半が、選挙制度の改革を望んでいないことである。

 なぜなら彼らは、現在の選挙制度の中で勝ち抜いてきたエリートだ。今の選挙の「ゲームの規則」に精通し、そのルールの中で戦うのが得意な人たちである。それなのに規則を積極的に変えたがるだろうか? 否、であろう。

 実際、デモクラシーの病が重篤化し、投票率が下がれば下がるほど、そして無投票地域が増えれば増えるほど、既存の政治家たちの地位は安泰になる。かつて森喜朗首相(当時)が「無党派層には寝ていてほしい」と発言したように、主権者の政治離れが進む現状に対してほくそ笑んでいる不届き者も多いのではないだろうか。選挙制度を健全化することは、極めてハードルの高い課題だと言えるだろう。

 とはいえ、このままでは日本のデモクラシーは本当に死んでしまう。少なくとも、すでに体の組織の22%は死んでいると言っても過言ではない。

 わたしたちの社会は、引き返すことが不可能な「ポイント・オブ・ノーリターン」に着実に近づいていっている。わたしたちは、まずはそのことを冷徹に認識すべきなのではないだろうか。

 

  

※コメントは承認制です。
第27回 デモクラシーの病」 に5件のコメント

  1. magazine9 より:

    候補者の名前はうるさいくらいに連呼されていても、その人がどんな政策を掲げ、どんなことを目指しているのかはなかなか伝わってこない。それは、候補者自身の努力や姿勢だけではなく、選挙制度そのものの問題でもあります。想田さんが鈴木邦男さんとの対談でも指摘されていたように、中には「走行中の選挙カーから政策を訴えることはできない」「地方選挙では、詳しい政策を書いたビラは配布できない」といった首を傾げたくなるような定めもあったりと、まるで「有権者が政治や政策に関心を持たないように」制度がつくられているかのようです。まずはその「おかしさ」に多くの人が気づくことからしか、この状況を変えていくことはできないのでは?

  2. かつて私が住んでいた国では、選挙カーはなく、従って、あの煩いだけの「連呼」も「握手」も駅前での「挨拶」もなかった。選挙期間中、限りない日常を過ごしていた。決められた日の決められた場所での合同の公開演説会があるだけだったが、盛り上がりを見せていた。勿論、テレビ討論は盛んだった。そこには政治や候補者たちへの拒否感は生まれず、むしろ、掲げる、主張する政策に強い関心が向けられる。外国人として生活する私には選挙権はないのだが、選挙制度の違いには強く考えされ、その国の政治意識(当事者意識)の高さにも驚かされたものである。選挙制度を変える必要があるとする主張には賛成である。ただ、制度が変わったら私たちの政治意識や当事者意識も変わるのかと思うと、そちらの方が少し不安にもなってしまうのである。

  3. うまれつきおうな より:

    以前は私も低投票率は関心の低さと思っていたが、最近はこれはもしかすると「民主主義はいらない」という民意の表れではないかと考えるようになってきた。なぜなら二大政党だの民主主義だのは宗教上の建前(現世の富に固執するな、弱者を慈しめ)と現世の本音(まずは金、勝てば官軍)が乖離してないと機能しないと思うからだ。そういう意味で日本は宗教も俗世の価値も<富こそ徳、ケガレた足手まといは排除>で、反世俗的なイスラム圏とは正反対の意味で政教一致なのだから、外来思想の少数派である「下駄の雪」と「アカ」以外野党など存続できるわけがない。民主党や公明党がだらしないのではなく大多数の国民にとって会社という社(やしろ)と自民党が国体で選挙など税金のムダ使いと思っている結果ではないかと思う。

  4. ptp より:

    選挙制度の健全化について、想田さんの考えは多くの賛成を得られます。でも公職選挙法の改正による健全化は無理です。憲法に書くのが良いと思います。

  5. 森口竜太郎 より:

    デモクラシーの病ということを如実に感じさせてくれるのが、与党の国会での答弁だ。松島議員の公職選挙法違反に関する蓮舫議員の質問に対する松島大臣の答弁はその典型で、私たちの社会に於いては、言葉がいかに無力で、結局、日本の政治とはお金のやり取りに終始している営みなのだと感じさせられた。国会議員の質問にまともに答えない大臣の態度が殆ど大きな問題にならないというのは、異常だ。尤も、質問をした蓮舫議員も真剣に質問していたかどうかは怪しい。あそこまで人を舐めきった質問をされたのならば、すぐにコップを指差して、「それでは、この物体が大臣は何であるとお考えになりますか」位のことを言ってくれないと、蓮舫議員も国民の代表としての責任を果たしているとは言えない。言葉での問いかけにまともに応じない国会議員を目にして、その議員を選出したのは自分たちなのだという事を認識し、国会議員に失望すると同時に自分自身にも失望し、国民は投票への意欲を失っていく。

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想田和弘

想田和弘(そうだ かずひろ): 映画作家。ニューヨーク在住。東京大学文学部卒。テレビ用ドキュメンタリー番組を手がけた後、台本やナレーションを使わないドキュメンタリーの手法「観察映画シリーズ」を作り始める。『選挙』(観察映画第1弾、07年)で米ピーボディ賞を受賞。『精神』(同第2弾、08年)では釜山国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞を、『Peace』(同番外編、11年)では香港国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞などを受賞。『演劇1』『演劇2』(同第3弾、第4弾、12年)はナント三大陸映画祭で「若い審査員賞」を受賞した。2013年夏、『選挙2』(同第5弾)を日本全国で劇場公開。最新作『牡蠣工場』(同第6弾)はロカルノ国際映画祭に正式招待された。主な著書に『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『演劇 vs.映画』(岩波書店)、『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)、『熱狂なきファシズム』(河出書房)、『カメラを持て、町へ出よう ──「観察映画」論』(集英社インターナショナル)などがある。
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