映画作家・想田和弘の観察する日々

『選挙』『精神』などの「観察映画シリーズ」で知られる映画作家、
想田和弘さんによるコラム連載です。
ニューヨーク在住の想田さんが日々「観察」する、
社会のこと、日本のこと、そして映画や芸術のこと…。
月1回の連載でお届けします。

第21回

音楽と言葉と霊長類学

 3年前のことである。

 何の気なしにグレン・グールド演奏のバッハ「ゴールドベルク変奏曲」のCDを聴きながら、突然、面白いことに気づかされた。

 「あれれ? なんで僕はこの音楽を最初から最後までだいたい全部覚えていて、旋律を口ずさむことができるのだろう?」

 このCDは僕のお気に入りの一枚で、かなり頻繁に聴いている。だから別に全部覚えていても不思議はない。というか、それまで不思議に思ったことはなかった。

 だけど、よくよく考えると実は不思議だ。

 なぜなら「ゴールドベルク変奏曲」は、約50分もある長いピアノ曲である。曲に含まれる音の数を数えたことはないが、たぶん膨大な量になると思う。少なくともCD1枚分に相当する情報量である。これがもし音楽ではなく文章、つまり言葉であったら、とても覚えきれない量であろう。なのに僕は覚えている。覚えようと努力したわけでもないのに、自然に。そのことがなんだかとても「変なこと」のように思えたのである。

 そういえば、メロディーを完璧に覚えている好きな歌謡曲でも、歌詞まで全部覚えていることは少ない。カラオケへ行っても、歌詞が画面に表示されなければ歌えない場合が多い。これもよく考えると不思議ではないだろうか。

 なぜなら、歌謡曲をCDやラジオで聴くときには、たいていは歌詞と曲を同時に聴く。ということは、僕らはだいたい同じ回数だけ歌詞もメロディーも聴いているはずだ。なのに、曲は覚えられても歌詞は覚えられない。なんで?

 そのように考えて僕がたどり着いた結論は、次のようなものである。

 「人間にとって、言葉よりも音楽の方が記憶しやすい」

 うーむ、大発見ではないか(自画自賛)。

 発見に気を良くしてあれこれ考えるうちに、音楽には他にも不思議な性質があることに気がついた。

 例えば、長調と短調の問題。

 学校の音楽の時間では、さらりと「長調は楽しい感じがする音階で、短調は悲しい感じがする音階」と習った覚えがあるが、よくよく考えれば、「長調の音楽を聴くと、誰でも皆一様に楽しく感じる」という事実そのものが、実は非常に不思議なことである。

 しかも僕の経験から察するに、感じ方は生まれ育った文化とは関係がない。アジア人もアフリカ人も欧米人も、みんな長調の音楽は「楽しい」と感じるし、短調は「悲しい」と感じる。少なくとも逆の人には会ったことがない。

 それだけではない。ホラー映画などでかかる音楽を聴けば、誰でも恐怖を感じるだろうし、戦争映画の突撃場面などでかかる音楽を聴けば勇ましい気持ちになる。そうでなければ、映画監督は自分の映画にどんな音楽をつけたらよいか判断できない。
 
 要は、音楽が喚起する感情には国境がなく、ユニバーサルなのである。

 これも凄い発見(再び自画自賛)。でも、なぜだろう…?

 と思いつつ、理由を突き止められずに3年間が過ぎた。

 ところが先日、たまたま読んだ本にそのヒントになることが書いてあるではないか! 山極寿一著『「サル化」する人間社会』(集英社インターナショナル)という本である。

 山極氏は、霊長類の世界的研究者である。サルやゴリラなど、人間に近い動物の生態を研究することで、「人間とは何か?」という問いを探り続けてきた人だ。

 その山極氏いわく、ゴリラはなんと、歌を歌うそうである。
 
 歌の種類には「フート」「シンギング」「ハミング」などがあり、時と状況に応じて、歌を通じて仲間とコミュニケーションをとるのだという。その事実から、山極氏は人類も言語を発達させる以前は、ゴリラのように歌うことで意思の疎通をはかっていたのではないかと推論する。しかも言語が生まれたのは人類の誕生よりもずっと後だから、言語によるコミュニケーションの歴史よりも、歌によるそれの方がずっと長かったはずだというわけだ。
 
 なるほど〜。
 
 それなら、人間にとって言葉よりも音楽の方が記憶しやすいという事実も、音楽が喚起する感情がユニバーサルであることも、納得できる。

 音楽は、今でこそ「趣味」だとか「芸術」の領域にくくられているけれども、実は言葉よりもずっと長い間、人間同士が考えや感情を伝え合うための重要な役割を果たしてきたのであり、その歴史は私たちのDNAにしっかりと刻まれていたのである。
 
 なんとも感動的ではないか!
 
 話は変わるが、山極氏いわく、ゴリラの社会には上下関係がなく、喧嘩をしてもじっと相手を見つめ合って和解するので、勝ち負けという概念がないそうだ。

 それに対してサル社会は「純然たる序列社会」で、弱いものはいつまでも弱く、強いものはいつまでも強い。喧嘩が起きた場合には、大勢が強い方に加勢して弱い方をやっつけてしまうそうである。
 
 山極氏によれば、人間とは本来、ゴリラとサルの両方の特徴を備えているはずだという。しかし、本書のタイトルが示すように、氏は人間が年々「サル化」しているのではないかと憂慮する。
 
 僕は橋下徹市長と在特会会長による「サル山での喧嘩」のような罵り合いと、それを見てどっちが勝っただの負けただの騒いでいるネット世論を眺めながら、全くその通りだなあ、僕はゴリラを目指したいものだなあ、と強く思うのであった。

 

  

※コメントは承認制です。
第21回 音楽と言葉と霊長類学」 に3件のコメント

  1. magazine9 より:

    ゴールドベルクの話から、まさか最後はそこにたどり着くとは・・・! せっかくの人間同士、話し合うときは、罵りではなく、ちゃんと言葉を駆使してほしいものです。
    たしかにサル山を観察していると、人間社会を反映しているようで、面白さを通り越して、ときに物悲しい気持ちになることがあります。なぜゴリラには上下関係がなく、サルは序列社会になったのでしょうか。勝ち負けにこだわらない能力を見つけたいものです。

  2. ピースメーカー より:

    >僕はゴリラを目指したいものだなあ、と強く思うのであった。

    個人的にそれを目指すだけでなく、日本の内外の環境を「ゴリラ化」するための思想なり方針なりを提示し、人々を「ゴリラ化」に至る道に進ませるべく運動をするのが想田さんなりマガジン9なり、いわゆる「リベラル」といわれる人たちがすべき責務なんじゃないでしょうか?
    そういう人たちから、「敵の敵は味方」とか「あいつもこいつも敵なんだから信用するな」とか「あいつに期待すると裏切られるぞ」というような発言を、私は聞きたくありません。
    そういう発言をする人は光明に導いているつもりかもしれませんが、結局は「サル化」に至る道にその発言を聞いた人々を追いやっているだけです。
    そもそも、ゴリラってそんなに現実主義的かつ性悪説的かつ悲観主義的にライフを過ごしているのでしょうか?

  3. 島 憲治 より:

     私は20代の頃、猿生息地下北半島において猿の一軍に攻撃されたことがある。前後左右上、と立体的、組織的に囲んだな攻撃は見事で、見慣れない光景に恐怖を覚えたものだ。
    ところで、慰安婦問題に関する人権意識、新聞社が新聞社を攻撃する光景、そして、集団的自衛権内閣決定にいたる手続きなど。自由主義国家グループでの一員として通用する自由、平等、そして、法定手続きには程遠いと感じる。 これは、日々の闘争なくして実現できないことばかりだ。 そして、保持することはさらに難しいと考える。その際立ちはだかるのが「関心を装った無関心層」「沈黙する善良な市民」達の膨大なエネルギーだ。だから、一人一人で出来ることは一人一人でやる。このことがとても大事なことだと考えている。              伊藤真さんの著書で見た。「あす死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べよ。」ガンジーが述べた言葉だという。

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想田和弘

想田和弘(そうだ かずひろ): 映画作家。ニューヨーク在住。東京大学文学部卒。テレビ用ドキュメンタリー番組を手がけた後、台本やナレーションを使わないドキュメンタリーの手法「観察映画シリーズ」を作り始める。『選挙』(観察映画第1弾、07年)で米ピーボディ賞を受賞。『精神』(同第2弾、08年)では釜山国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞を、『Peace』(同番外編、11年)では香港国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞などを受賞。『演劇1』『演劇2』(同第3弾、第4弾、12年)はナント三大陸映画祭で「若い審査員賞」を受賞した。2013年夏、『選挙2』(同第5弾)を日本全国で劇場公開。最新作『牡蠣工場』(同第6弾)はロカルノ国際映画祭に正式招待された。主な著書に『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『演劇 vs.映画』(岩波書店)、『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)、『熱狂なきファシズム』(河出書房)、『カメラを持て、町へ出よう ──「観察映画」論』(集英社インターナショナル)などがある。
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