『選挙』『精神』などの「観察映画シリーズ」で知られる映画作家、
想田和弘さんによるコラム連載です。
ニューヨーク在住の想田さんが日々「観察」する、
社会のこと、日本のこと、そして映画や芸術のこと…。
月1回の連載でお届けします。
第17回
デジタル化は映画の死か
ニューヨークの自宅近くにある「Museum of the Moving Image(映像博物館)」で「溝口健二特集」が開催された。巨匠・溝口は、日本映画データベースによれば生前100本の映画を監督したが、その大半は戦争などで失われ、現在では30本しか残っていないという。今回の特集は、その全30作品を、すべてフィルムで鑑賞できるという貴重な機会である。徒歩でいける距離にあるし、こんな機会はたぶん今後は訪れないと思うので、可能な限り通って合計17本を観た。
いま僕は「すべてフィルムで鑑賞できる」とわざわざ書いた。「フィルムで撮られた昔の映画なんだし、そんなの当たり前では?」と思う人は多いだろう。しかし、これが全く当たり前ではないのだ。
現在作られている99.9%くらいの映画は、フィルムではなくデジタルで撮影され、デジタルで上映されている。もちろん、僕の映画もすべてデジタルである。その方がだんぜん安上がりだからだ。
デジタル化の進展は思ったよりも早く、去年くらいには全世界の映画館のデジタル化がほぼ完了し、フィルムの映写機の大半は撤去され廃棄された。ということは、もはや35ミリのフィルム・プリントを焼いたとしても、それを上映できる映画館が激減したということを意味するのだ。
もちろん35ミリの映写機を残している館もある。しかし、それはすでに故障しても部品が手に入りにくいような、骨董品と化しつつある。早晩、修理をできる人も、いや、操作をできる人すら、絶滅危惧種のようになっていくだろう。フィルムの映写機は、相当な努力とコストをかけない限り、この世から姿を消していく運命にあるのである。
映写機だけではない。フィルムそのものの生産も、フェードアウトしつつある。富士フイルムは去年の3月、ついに撮影用・上映用のフィルムの生産終了を発表した。コダックはまだ生産を続けているようだが、いつまで続くかは未知数だ。使う人が激減したのだから、悲しいかな、経済原理からすれば当然だ。
フィルムの生産が終わるということは、現像やプリントの技術も終わっていくということだ。つまり、例えば昔の映画のネガからニュー・プリントを焼きたいと思っても、もはや困難になりつつあるということである。
ということは、現存するフィルムのプリントは、極めて貴重なものだということになる。だから昔の映画のプリントを所有している団体や映画会社も、傷がついたり破損したりするのを恐れて、特集上映のためにプリントを提供したがらなくなっていると聞く。加えて、35ミリ・プリントは重量も大きくかさばるので、輸送費用がバカにならない。国境を越える場合には税関手続きも面倒だ。だからますます、フィルムによる上映はしにくくなっているのである。
その結果、最近では昔の名作の復刻版も、たいていは「デジタル・リマスター」による復元になる。先日開かれたカンヌ映画祭で大島渚監督の『青春残酷物語』(1960年)が上映されたことが話題になったが、あれもデジタル復刻版である。実際、今年のカンヌでフィルム上映されたのは、何百本も上映作品があるうち、『パルプ・フィクション』(1994年、クエンティン・タランティーノ監督)1本きり(!)だったという。
報道によれば、タランティーノ監督はカンヌで、その状況を次のように嘆いた。
「ほとんどの映画が35ミリで上映されなくなったということは、われわれが闘いに負けたということだ。デジタル映写なんて、みんなで大きいテレビを見るようなものだ。みんなそれでもいいみたいだけど、私に言わせれば、映画は死んだのだ」
先述したように、僕の映画はすべて6本とも、デジタルで撮影され上映されている。というより、僕の映画は、デジタル技術の進歩で制作コストが下がらなければ、絶対に作られなかったし、公開されなかった。そういう意味では、僕はデジタル化のお陰で生まれえた映画作家であるといえる。そして、ほとんどのドキュメンタリー映画作家や、インディペンデント映画作家は、僕と同じようにデジタルの恩恵があってこそ、映画を作り続けられていると思う。
しかしその一方で、タランティーノ監督の嘆きもよく分かる。少なくともフィルムで撮られた昔の映画くらい、オリジナルな状態で観たいと切望してしまう。デジタル・リマスターはたしかにキレイだし、復刻しないよりはマシだが、それはあくまでもデジタル版の「レプリカ」であり、オリジナルとは似て非なるものだ。
そして、人類の遺産ともいうべき世界の名作がレプリカでしかお目にかかれないことになるなら、それはある意味、映画文化の恐るべき衰退といえるのではないだろうか。ゴッホやピカソの絵の本物を鑑賞したいと思っても、デジタル版レプリカしか存在しない状況を想像してみればよい。
今回「溝口健二特集」がニューヨークで開かれたのは、20年ぶりくらいだという。ということは、次に開かれるのはたぶん20年後の2034年くらいになるのだろう。そのとき「映像博物館」には35ミリの映写機は残っているのだろうか?また、35ミリを適切に操作できる映写技師はまだ残っているのだろうか?
僕が今回勇んで「溝口健二特集」に通った理由が、お分かりになるだろうか。つい最近まで映画文化の柱だった「フィルム文化」は、いままさに消えようとしつつある。僕はそれに「さようなら」を言う、一種のお葬式に立ち会ったのである。
コスト削減、上映による品質の劣化が抑えられるなどの利点も挙げられるデジタル化ですが、「文化」という側面から見たときに、それは果たして喜ばしいだけの変化なのか、という疑問も浮かびます。もしかしたらそう遠くないうちに、映画フィルムは完全に「過去の遺物」になってしまうのか…。
そういえば、『サイド・バイ・サイド−−フィルムからデジタルシネマへ』なんてドキュメンタリー映画もありました。俳優 のキアヌ・リーブスが企画製作・ナビゲーターを務め、有名映画監督や映画技術者らに「映画のデジタル化」についてインタビューした作品。ブルーレイで発売されているようなので、興味のある方はぜひ。