映画作家・想田和弘の観察する日々

『選挙』『精神』などの「観察映画シリーズ」で知られる映画作家、
想田和弘さんによるコラム連載です。
ニューヨーク在住の想田さんが日々「観察」する、
社会のこと、日本のこと、そして映画や芸術のこと…。
月1回の連載でお届けします。

第15回

「戦争」のイメージと
集団的自衛権

 みなさんは、「戦争」という言葉を聞いたときに、どんな情景を真っ先にイメージするだろうか。

 今から13年前。2001年9月11日にあの「事件」が起き、アメリカ人の9割近くが世論調査でアフガニスタンへの武力行使に賛意を示した。連邦議会でも、武力行使に賛成する決議が圧倒的多数で可決された。反対票を投じた議員は、上院・下院を通じて、バーバラ・リー下院議員一人だけだった。

 ニューヨークに住む僕は、迫りくる戦争に戦々恐々としたものである。

 「これから戦争が始まる! アメリカは戦時に突入する!」

 そのとき僕の脳裏に真っ先に思い浮かんだのは、焼夷弾が空から降る中、防空頭巾を被って防空壕に逃げ込むようなイメージである。それは明らかに、第二次世界大戦下、日本に住んでいた大勢の人々が体験したイメージだ。

 1970年生まれの僕はもちろん、あの大戦を経験したわけではない。だが、映画や小説、そして身内の体験談などを通じて、戦争といえば「頭上から爆弾が降って来るもの」というイメージが形成されていたのだろう。

 だからか、アフガニスタンとの戦争が始まりそうだと知ったときには、理屈抜きに米国を逃げ出したくなるほど、僕は怖くなった。

 ところが、実際にブッシュ大統領が攻撃を命令し、戦争が始まってから、僕は拍子抜けしてしまった。

 戦時下だというのに、ニューヨークの街の様子は何も変わらない。人々はカフェや公園でくつろぎ、買い物や勉強や仕事にいそしんでいる。戦争の当事国といえども、空から爆弾が降ってくる心配はないわけだから、当然といえば当然だ。

 そして、その“平和”な光景を眺めながら、僕はようやく気づいたのである。

 「そうか、第二次世界大戦のときですら、多くのアメリカ人にとっての戦争は、ある意味“対岸の火事”だったのではないか?」

 思えば、アメリカという国は年がら年中戦争をしてきたのに、他国から自国を攻撃されるという経験がほぼ欠落している。強いて言えば、日本軍による「真珠湾攻撃」と、先述した9月11日の「事件」くらいか。

 ということは、同じ「戦争(War)」という言葉を使いながらも、僕とアメリカ人では全く違うものをイメージしているはずなのだ。少なくとも、アメリカ人の大半は、兵士になった経験のある人を除いて、戦争で自分自身の命が危険に晒されるようなイメージは抱きにくいと思う。

 イメージが異なるなら、それに対する態度も異なるのが自然である。それが、アメリカ人の大半が一斉にアフガニスタン攻撃を支持してしまった根源的な理由なのではないか。

 2001年の秋、そう、僕は思い至ったのである。

 なんで今更こんな話をしているかといえば、集団的自衛権を巡る最近の議論を眺めていて、日本人の戦争観が「アメリカ化」しているのではないかと危惧しているからである。

 第二次世界大戦から70年近くが経過した今、日本の政治を動かす中心的世代にとっての「戦争」といえば、湾岸戦争やアフガニスタン戦争、イラク戦争など、「日本からは遠く離れた国に、アメリカ軍や多国籍軍が乗り込んで行うもの」というイメージが強い。「集団的自衛権の行使」という問題は、そういうアメリカの戦争に日本が参戦するかどうかという問題でもあるので、尚更、私たちの「戦争」のイメージは、アメリカ人のそれと同期しやすくなっている。

 だからか、安倍首相らが「中国や北朝鮮の脅威により、日本を取り巻く安全保障環境が厳しさを増しているからこそ、集団的自衛権を行使できるようにしなくてはならない」などと言っても、それで巻き込まれた戦争のせいで東京や大阪にミサイルや爆弾が打ち込まれ、子供を含む一般市民が大量に殺戮されるような状況は、日本人の多くが想像していないように感じる。 

 「集団的自衛権の行使を容認し、よもやそれを実際に使うことになっても、その戦争は日本から離れたどこか遠くの場所で行われるのであり、したがって“対岸の火事”である」

 僕には、そんなイメージが広く共有される中で、憲法第9条の問題が議論されているように思えるのだ。

 しかし、そのように「爆弾を落とされる側」に対する想像力を欠いた中で、戦争への参加の是非を議論していてよいのだろうか。

 報道や政府発表を元にイラク戦争での死者数を数えているウェッブサイト「イラク・ボディ・カウント」によれば、イラク戦争の犠牲者の数は、2014年4月21日現在、市民の死者数だけで、少なく見積もって12万2,821人、多く見積もって13万6,578人に及ぶという。マスメディアではあまり報道されていないが、アメリカ人にとっての「対岸の火事」の中で、気の遠くのなるような数の一般人が実際に殺されているのである。

 集団的自衛権の行使を容認すれば、日本の自衛隊は、イラク戦争のような悲惨極まりない戦争にもおそらく参加することになる。憲法の歯止めは事実上なくなるので、その場合、子供を含め一般市民を大量に殺戮することにもなるだろう。

 私たちは、そんなに昔ではない過去に、国土が焼け野原になるのを経験した国の住人である。しかし、その苦い経験を早くも忘却のかなたに追いやり、「対岸の火事」としての戦争を容認しようとしているのではないだろうか。

 

  

※コメントは承認制です。
第15回 「戦争」のイメージと集団的自衛権」 に16件のコメント

  1. magazine9 より:

    最近、一般の国民だけではなく政治家の発言を聞いていても、どこまで「戦争」の言葉にリアリティを持っているのか? と疑問を抱くことがしばしばです。「毅然とした態度」を取れば相手の国がひるんで逃げ帰っていくとでも、本気で思っているのか…。以前、想田さんとの「マガ9対談」に出ていただいた鈴木邦男さんが、「政治家の一番大きな役割は、戦争をしないこと」とおっしゃっていましたが、本当にそのとおりだと思います。

  2. yonekawa hitosi より:

    戦争を、リアルに語れた人は、イラクに平和維持の美名のもとに危険に晒され、緊張を強いられた派遣自衛官ではないか。帰還した自衛官は、28名が、自殺した。この残酷さは、文民が現場を平気で見殺す実例として、戦争を知らない国民や政治家や安倍一族に想い知らせたい。

    自衛官殺すには刃物はいらぬ。戦争開始のサインだけすればいい??BY安倍閣議一致内閣。

  3. 宮坂亨 より:

    先の大戦が始まっても(1941・12・8)しばらくは日本国民は勝った勝ったと浮かれてた。大本営発表を無邪気に信じて。勝ったってことは殺したってことなのに。
    戦争って人殺し合いなんだよ。傷つけば痛いんだよ。血の匂いは臭いんだよ、などといったリアルな戦場体験を想像できないんだろうな。好戦派は。
    もっとも、ミサイルや無人機で殺し合うならリアルなんて感じないか。ゲームと一緒ね。でも。死んだ命は戻らない。

  4. アザブタカヒロ より:

    集団的自衛権の行使を容認するということは、自衛隊が米軍の一部になるということに等しいと思います。
    中韓、北朝鮮を仮想敵国としてナショナリズムを煽り、集団的自衛権の行使をできるようにしなければいけないと主張することは、一見、愛国的な行動に思われますが、私はそうは思いません。
    集団的自衛権の行使容認は、米国の要請でもあり、米軍の一部として、イラク戦争のような多国籍企業の利権のための戦争に自衛隊を駆り出すことを意図しているのは間違いないと思います。
    自国の防衛よりも、多国籍企業を活動しやすくすることに、その主眼があると考えます。
    その視点があれば、自称「愛国者」に騙されることはないと思うのですが・・・。

  5. ピースメーカー より:

    >しかし、そのように「爆弾を落とされる側」に対する想像力を欠いた中で、
    >戦争への参加の是非を議論していてよいのだろうか。

    要するに想田さんの論法は「イメージ戦略」です。
    しかしこれは「護憲派」が数十年も前から続けていた古典的戦略の延長線上にあるもので、目新しさがまったく感じられません。
    最近の「イラク戦争」を持ち出しても、結局は「ベトナム戦争」の時と同じようなスタンスであり、人々の知的好奇心に応える論理ではありません。
    護憲派が「お前には『爆弾を落とされる側』に対する想像力が無いのか?」と突きつけて、相手が「あります」と答えれば、話はそこで終わってしまうのです。
    一見、これは他人とあーだ、こーだする必要のないとても楽な戦法であり、それゆえ護憲派やサヨクに愛用されてきました。
    しかし、「イメージ戦略」を至上とする護憲派やサヨクの戦術は、必然的に時の政権や保守派、資本家や日本の歴史に対するイメージを地に落とすために特化したものばかりに走ってしまい、この国のインテリジェンスに貢献しないばかりか、反動として中国や韓国、北朝鮮のイメージを地に落とそうとする勢力を増長させ、近隣諸国も日本のイメージを地に落とそうと躍起になり、今の有様になっているのではないでしょうか?
    そして、これは一方が「良心」をタテにした抑圧であって、平和構築の為にどうすれば良いのかということを互いに考察し合うということからは完全に乖離してしまい、事実、平和構築の為の具体的な論理が、護憲派やサヨク側からは「ほとんど」といっていいほど出てきません。
    「自由と民主主義、基本的人権という価値を共有する日米同盟によって、基本的な規則(国際法)や国際的な秩序を守る責任を果たす」という日米首脳の主張は、一面においては具体的に平和構築の為の一案を論じているといえ、これに対して、「爆弾を落とされる側のイメージ」を掲げて批判しても、両者はまったく噛み合わないで平行線で終わるのが誰の目にも明らかです。
    その一方で、「こだわってないけど、9条はまだおトクだから残せ(by伊勢崎賢治氏)」と論じる人ならば、「じゃあ、今の日米首脳の主張に対して、どうやって9条をおトクに使って対抗するの?」という疑問が生まれ、その発言者に対して聴衆はがぜん知的好奇心が沸き立つのです。
    「集団的自衛権を認めれば、子供を含め一般市民を大量に殺戮したりされたりする」ではなく、「どうすれば『子供を含め一般市民を大量に殺戮したりされたりする』ことを抑止できるのか」ということを日本人だけではなく世界中の人々は求めているのです。
    「良心」をタテに他人を抑圧し、日本が集団的自衛権を認めさえしなければそれで良し、という「イメージ戦略」は、さすがにもう日本国民に飽きられていると私は思います。

  6. 合羅敏夫 より:

    全くその通りだと思います。日本はアメリカの巨大な軍産共同体の利権のために先の戦争が終わったその時点から利用され続けているのだと思います。最初は日本のファシズムを二度と出現させない為として憲法9条をアメリカの軍人が草案として作りました。これは良かったのですが、直ぐに、自国防衛の為と称して警察予備隊を作らせました。9条には、軍隊を持たないとの条文をいれさせた筈です。アメリカの見たその当時の時局が、東アジアの安定の為として、軍隊が必要だ。としたのです。まさにアメリカのご都合主義です。これに対し、戦前、戦中の軍国主義の隆盛が忘れられない日本の政治家達は、この時、アメリカに迎合したのです。そもそも日本のこの政治勢力が衰えた事は一度も有りません。この内心ファシズムを美としている政治家達が自民党の保守の現実です。何故A級戦犯だった、岸信介が政界に復帰できたのでしょうか。それは、アメリカにとってこの人は利用のし甲斐があったからです。これから検証しなければなりませんが、多くの密約が交わされている筈です。東アジアのアメリカの軍略にとうの昔から日本は組み込まれているのです。今に始まった事では有りません。今まで、自衛隊が外国に駆り出されて人殺しをしなかった事は、もっけの幸いです。母方の祖父である岸信介に憧れている阿部普三首相は、国民の政治無関心を良い事にそのファシズムの勢力の本性をむき出しにしているのです。日本国民は昔の様に天皇を頂点に頂く臣民ではありません。日本は法治国家で民主主義を標榜する国です。愛国とは、非常に純粋な、また、自然に発する、我が国土の自然や文化を愛する意識の事で、他人種を排斥したり、他国との摩擦を助長する事に躍起になる事ではありません。
    今現在ナショナリストと言うと国粋主義者の事を指し、悪い印象のある言葉ですが、愛国と言う概念は決してそのような人達の考え方と相いれない物です。国と国とは自国と同様に世界に並立して成り立っている物と考えます。お互いの国の価値観を認めて初めて成り立つ物です。日本には中々個人個人の価値観を大事にすると言う文化が根付きません。しかし、この島国日本といえども、もう情報に置いても文化に置いても、ボーダーレスの時代だと思います。世界に国が300あれば、300の愛国があるのです。それを認め合う事が第一歩だと思います。それに1億の人間がいれば一億の個性があるのです。それをお互い認め合うと言うところから始めないと世界のいや、地球の一員として成り立っていかないのだと思います。私の理想とするところは非武装中立なのですが、今や、世界でも何本かの指に入る軍隊を持ってしまった以上アンリアリスティックではあります。時間は係るとは思いますが、どこの勢力のも利用されない自主独立と言うのは成り立たない物でしょうか。長々と書き恐縮です。

  7. くろとり より:

    日本が他国から攻撃されることをなぜ誰も考えないのですか?
    「戦争」と言えば日本が加害者となる事ばかりを考え、被害者となる事をこれっぽっちも考えない。
    これの何がリアルなのですか?
    今、軍靴の音は海の向こうから鳴り響いているのですよ。そのことに目も耳も瞑る人たちに「戦争」のリアルなど考えられるわけないじゃないですか。
    日本が何もしなければ蹂躙されるだけですよ。他国に無抵抗で蹂躙されることがどれだけ悲惨な事か。
    もう少し「現実」と考えてほしいです。

  8. アザブタカヒロ より:

    おっしゃるとおり、私も愛国者と国粋主義者は同義ではないと考えています。
    愛国的な行動とは、排外主義に走ったり、他国を貶めたりするものではないはずです。
    多用な価値観を認め合い、尊重し合う、寛容な世界こそが成熟した世界であり、そうした世界を構築するための努力が、平和につながる道ではないかと私は考えています。

  9. アザブタカヒロ より:

    他国から攻撃されることを考えないわけではありません。
    ただ、「日本が何もしなければ蹂躙されるだけ」とも考えていません。
    中国の軍事的アピールや北朝鮮の核実験などを受け、日本において、それらの国を仮想敵国とした危機意識が高まっているのは事実でしょう。
    そうした危機意識に突き動かされて、軍事力で対抗しようとすることが本当に国益にかなうのでしょうか?
    日本が集団的自衛権の行使を容認し、自衛を声高に叫ぶことは、決して関係が良くない近隣国にとっても「脅威」なのではないでしょうか。
    「脅威には脅威で対抗する」、こんなことを続けていたら、いつか取り返しのつかないことが起こるはずです。
    「やられる前にやってしまえ」、これが戦争の始まりだからです。
    軍事力による抑止力を求めることは、終わりのないチキンレースと同じと私は考えます。

  10. くろとり より:

    すでに近隣諸国から脅威を受けている現状をわかっておられますか?
    軍事力には軍事力にて対抗しないと平等な立場での話し合いの場すら持つことは出来ないのです
    いつか取り返しのつかない事が起こるとおっしゃられますが、それを起こさない様にしている日本の努力を非難するのはどうかと思います。
    絶対的に国家を縛る法律など国際社会には存在しないのですから力には力で対抗するしかないのです。
    その意味でも軍事力以外の抑止力など存在しないし、もしあったとしても極めて弱い力しかないのです。

  11. アザブタカヒロ より:

    「軍事力には軍事力にて対抗」「力には力で対抗」という考え方には、私は賛成できません。
    取り返しのつかない事態を起こさないようにする努力を否定するつもりはありません。
    ただ、そのやり方に賛成できないということです。
    繰り返しになりますが、抑止力に頼る以上、自衛意識が高まれば、いつか「やられる前にやってしまえ」と最悪の事態を引き起こすことになるでしょう。
    太平洋戦争も日本にとっては自衛のための戦争だったはずです。
    「自分の国は血を流しても守るべき」などと口にした政治家がいますが、それこそ戦火が引き起こす悲劇への想像力の欠如であり、平和ボケだと私は考えます。
    銃を突きつけあい、いつ撃たれるかわからない恐怖の中でテーブルを囲むことが対等な話し合いであり、国際平和なのでしょうか?
    理想論かもしれませんが、軍事力による抑止力など必要のない世界を目指すことが平和への道だと思います。
    そのための第一歩が、相手を知り、認め合う努力をすることだと考えます。

  12. くろとり より:

    冷たい事を言うようですがいくらあなたが賛成しなくても現実は現実として目の前にあるのです。
    理想は大切かもしれませんが理想に溺れるあまり現実を無視すれば現実に呑まれるだけです。
    私たちのような一般の国民はそれでも許されるのでしょうが、政治家が理想に溺れ、現実を無視することは許されません。国民の命がかかっているのですから。
    いくら日本が話し合いでと言っても相手の国が無視すればそれで終わります。
    相手が話し合いに応じず、暴力に訴えたらどうしますか? そのような事は今でも世界中にゴロゴロしているのですよ。
    「自分の国は血を流しても守るべき」という政治家を平和ボケと言うあなたこそ平和ボケの権化です。
    国を守る為に起きる悲劇より無抵抗で国を蹂躙された時の悲劇の方がどれだけ大きいのか分からないのですか。
    最後に一つ。「日本が戦争から逃げても戦争は日本を逃がしてくれない」

  13. くろとり より:

    アザブタカヒロさま
    私のコメントへの返答ありがとうございます。くろとりです。
    実は5/14にコメントへの返答をさせて頂いておりますが編集部からの承認が今だ下りておりません。
    せっかくコメントを頂いていたのですが、このような状態では意味がありませんので最後に私の言いたいことを一言で表して終わりとさせて頂きます。お付き合い頂き、ありがとうございました。
    「日本が戦争から逃げても戦争は日本を逃がしてくれない」
    以上です。

  14. アザブタカヒロ より:

    くろとりさま

    5/14付のコメント拝読しました。
    私もこれ以上のやり取りを望んでいませんが、どうも誤解されているようなので、その点だけ補足します。
    私は「無抵抗で蹂躙されるべき」とは言っていませんよ。
    私は個別自衛権についても、自衛隊の存在についても否定していません。
    言葉が足りず拡散した議論になってしまったかもしれませんが、私が否定しているのは「集団的自衛権の行使容認」と「軍事的な抑止力への依存」です。

    個別自衛権と集団的自衛権とは同一ではありません。
    集団的自衛権を行使するということは、端的に言えば、アメリカの戦争に自衛隊が荷担するということです。
    アメリカの敵国から、日本が敵国と見なされ、攻撃されるリスクが格段に高まるということです。
    たとえば、米軍と衝突したある国の軍隊を自衛隊が攻撃するわけですから、当事国からすれば日本を攻撃するのは当然のこととなるでしょう。
    しかし、現政権の説明、主張からは「日本が攻撃されるリスク」は完全に抜け落ちています。
    国民に対してこれほど不誠実なことがあるでしょうか(続きます)。

  15. アザブタカヒロ より:

    (続きです)
    国民の命と財産を守るのは国家の務めです(この点はくろとりさんと相違はないと思います)。
    そのために政治家は、武力による衝突を避ける努力を最大限にすべきです。
    いったん戦争が始まってしまえばたくさんの命が奪われます。
    しかし、武力衝突を避ける努力をするどころか、いたずらに他国を侮辱、挑発し、「血を流して国を守れ」と発言するのは、戦火がどんな悲劇をもたらすのか、その想像力が欠如している故だろうと言ったのです。
    平和が続いた故に、戦争へのリアルな想像力が失われてしまっているのでしょう。
    そのことを平和ボケと言ったのです。
    私は戦争を経験してはいませんが、戦争がもたらす悲劇については真剣に考えているつもりです。
    「あなたこそ平和ボケの権化」などと言われるのは心外です。

    長文になってしまい失礼しました。
    こちらこそ、お付き合いありがとうございました。

  16. そうです!集団的自衛権なんてふざけた事してんじゃねぇ!です!
    https://www.youtube.com/watch?v=EpkoWYYzJMk
    byTimers 「偽善者」

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マガジン9

想田和弘

想田和弘(そうだ かずひろ): 映画作家。ニューヨーク在住。東京大学文学部卒。テレビ用ドキュメンタリー番組を手がけた後、台本やナレーションを使わないドキュメンタリーの手法「観察映画シリーズ」を作り始める。『選挙』(観察映画第1弾、07年)で米ピーボディ賞を受賞。『精神』(同第2弾、08年)では釜山国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞を、『Peace』(同番外編、11年)では香港国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞などを受賞。『演劇1』『演劇2』(同第3弾、第4弾、12年)はナント三大陸映画祭で「若い審査員賞」を受賞した。2013年夏、『選挙2』(同第5弾)を日本全国で劇場公開。最新作『牡蠣工場』(同第6弾)はロカルノ国際映画祭に正式招待された。主な著書に『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『演劇 vs.映画』(岩波書店)、『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)、『熱狂なきファシズム』(河出書房)、『カメラを持て、町へ出よう ──「観察映画」論』(集英社インターナショナル)などがある。
→OFFICIAL WEBSITE
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