「立憲主義の破壊に抗う」ことを掲げて、憲法、国際法、安全保障などの分野の専門家、実務家らが設立した「国民安保法制懇」。6月30に参議院議員会館で開かれた記者会見では、〈集団的自衛権の行使を認める閣議決定の断念を求める〉声明文が発表されるとともに、出席した法制懇メンバーらがそれぞれの観点から、解釈改憲による集団的自衛権の行使容認が進められようとしていることについて、反対の意を表明しました。また、この日出席されなかった、愛敬浩二さん、青井未帆さん、孫崎享さんが書かれた「反対の意見書」がペーパーとして参加者に配付。以下にその全文を掲載します。「集団的自衛権を考える」材料の一つとして、参考にしてください。
(☆また、7月27日(日)には、名古屋で大集会が予定されています。→詳しくはこちら)
愛敬浩二(あいきょう・こうじ)
名古屋大学教授(憲法学)
従来の政府見解は、「戦力の不保持」と「交戦権の否認」を明文で定め、自衛隊の正当化さえ難しい憲法9条2項との関係で、個別的自衛権と集団的自衛権をカテゴリカルに区別し、前者のみを許容するものであった。よって、閣議決定の最終案は一応、「限定的」に読めるけれども、集団的自衛権行使をいったん解禁したら、「限定」はもはや憲法上のものではなく、政策レベルのものとなる。少なくとも、政府の「想定問答集」は、そう考えている。
しかし、最大の問題は、憲法規範に関するこれほど重大な変更を行うやり方である。立憲主義の核心は権力の抑制にある。警察や軍隊等の実力組織をもつ行政権が、憲法による統制から自由になるため、憲法規範の内容を自由にかつ際限なく変更できるとすれば、立憲主義というプロジェクトは失敗する。たとえ集団的自衛権行使を解禁するとしても、憲法解釈の変更ではなく、国民投票の機会もある憲法改正手続を通じて行うべきである。
安倍政権は、集団的自衛権行使の是非を決める国民投票の機会を、国民から奪っただけではない。この問題を連立与党間の政策調整の問題へと矮小化することで、国民が真剣に議論する機会をも奪おうとした。安保法制懇報告書で従来の政府見解の9条解釈を批判して、集団的自衛権行使を広く容認しておきながら、閣議決定最終案では1972年の政府見解を維持しつつ、「限定的解禁」を行うという議論のわかりにくさ。伝え聞く与党協議の内容は、字句の修正が中心で、集団的自衛権行使の必要性やその帰結に関する具体的で実質的な議論はほとんどない。閣議決定への反対や慎重な対応を求める意見書が、190もの地方議会で可決されているのも、そのためであろう。
「日本国憲法改正草案Q&A」において、改憲要件の緩和(96条改憲)を正当化する際、「国民に提案される前の国会での手続を余りに厳格にするのは、国民が憲法について意思を表明する機会が狭められることになり、かえって主権者である国民の意思を反映しないことになってしまう」と主張しておきながら、集団的自衛権の問題については、国民に熟慮の機会を与えないというのは、まったくもって一貫性に欠けるし、姑息な手法というほかない。
国民安保法制懇2014年6月30日会見
学習院大学大学院法務研究科教授 青井未帆
2014年6月28日
・閣議決定で決められることではない
これまでの政府見解を前提にしても、閣議決定により集団的自衛権を行使可能とすることは、内閣の職務を超える。
日本国憲法は9条で戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否認を規定している帰結として、大日本帝国憲法13条(宣戦布告・講和)のような権限等、軍隊の存在に固有の権限が、憲法上存在する余地がない。憲法73条に列挙された内閣の職務のなかにも、当然、そのような権限は書き込まれていない。そこで政府解釈は、防衛にかかわる国家の作用を、行政作用の一部として、憲法73条柱書にいう「一般行政事務」と理解してきた。
しかし集団的自衛権の典型としての他国の防衛は、「一般行政事務」で説明することは不可能である。「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合、と、言葉を尽くしたところで、それは日本に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず、日本が「他国に対する武力攻撃」に応戦すること、すなわち戦争当事国として国外で他国を防衛することにほかならない。そのようなことまでを「一般行政事務」と説明するのは詭弁である。
閣議決定で内閣が決定しうる範囲を超えるというべきである。
・国会の憲法解釈権の真価が問われる
事柄は、憲法改正という正規の手続きを踏まずして、憲法9条の規範としての力を奪うに等しい。間違った政治権力の行使であり、このような手法を許すことは、将来への悪しき前例となってしまう。政治には従うべき「矩」があるところ、それを超える。
そこで、政治部門のなかで自律的・自制的に「矩」を維持するに当たって、政治部門の一をなす国会が、重要な役割を担う。
閣議決定は、それ自体としては、具体的な権限を生むものではない。実際に自衛隊が活動するためには、根拠となる国内法が必要である。閣議決定で踏み込む集団的自衛権という概念を実質的に否定することも、国会には可能だ。国会の憲法解釈権の真価が問われている。
「集団的自衛権と解釈改憲の危険性」
孫崎享
1:民主主義を危うくする。
5月8日ニューヨーク・タイムズ紙は「日本は民主主義の真の危機に直面している」とする社説を掲載。
・軍事力を変えようとする安倍氏の試みは憲法解釈の変更を必要とする。それには国会の3分の2の承認と国民投票での承認を必要とする。
・安倍首相は政府が憲法解釈を変えることで憲法九条を避けようとしている。これは民主主義の過程を覆すものである。
・日本は民主主義の真の危機に直面している。
さらに5月28日国民安保法制懇が発足したが、この記者会見で阪田元内閣法制局長官は次のように述べた。
「集団的自衛権を行使できるようにするなら、十分に国民的な議論を尽くした上で、憲法改正で国民の意見を集約し、国民の覚悟を求める手続きが必要だ。憲法解釈という、極めて安易な手段による日本の針路の変更に異を唱える。憲法九条の解釈は60年にわたって政府自らが言い続け、国会でも議論を積み重ねてきた。国民にもそれなりに定着している。一政権の手で軽々に変更することは立憲主義の否定であり、法治国家の根幹を揺るがすものだ」
2:では日本は今こうした民主主義の危機を冒してまで行わなければならない緊急性に直面しているか。
【安倍氏の説明に沿って考えたい】
•尖閣諸島等、日本国国土への攻撃はすでに安保条約で規定されていて、今{集団的に}どうすべきかという事は何ら議論になっていない。
安保条約第5条
「各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する」
•邦人保護
外務省は各国大使館で緊急時に邦人をどのように避難させるかプランを持っている。
事前に逃避することを考える。民間飛行機、船舶が主である。
イランイラク戦争の時、テヘランでの避難はトルコ航空。
米国艦船はない。
「いまや海外に住む日本人は150万人。さらに年間1,800万人の日本人が海外に出かけていく時代です。その場所で突然紛争が起こることも考えられます」としてその安全を守るために武力行使が必要だというような論理を展開」の論理こそ、「自国民を守る」として武力行使を拡大していった植民地支配の論理そのものである。
いずれも集団的自衛権でないものを持ってきている。
•紛争地への経済協力は避ける。
戦闘の一方に対する住民の政治的支持獲得の行動。敵の攻撃の対象。
紛争後に支援を行うを主。
•ミサイル防衛は機能しない。
3:集団的自衛権は米軍のために自衛隊を使うシステム。
2005年10月29日日米政府間で「日米同盟:未来のための変革と再編」という文書に署名した。
米国側は、ライス国務長官、ラムズフェルド国防長官、日本側は町村外務大臣、大野防衛庁長官が署名し、通常2プラス2文書と呼ばれている。
ここでは、今日の集団的自衛権の方向性が示されている。
「地域及び世界における共通の戦略目標を達成するため、国際的な安全保障環境を改善する上での二国間協力は、同盟の重要な要素となった。この目的のため、日本及び米国は、それぞれの能力に基づいて適切な貢献を行うとともに、実効的な態勢を確立するための必要な措置をとる」
日本に、世界に向けての軍事戦略はない。従って「共通の戦略目標」とはアメリカの戦略目標ということである。
2005年10月29日は小泉首相の時である。2006年9月26日発足した第一次安倍内閣で、集団的自衛権の容認の動きが強まった。しかし、2007年9月26日安倍首相は政権を放り出し、引き継いだ福田首相は集団的自衛権に慎重な姿勢を示し、流れは止まった。
そして今再び、第二次安倍政権で集団的自衛権が再度復活してきたのである。
4:国際的に認められた集団的自衛権は、安倍首相などのいう「集団的自衛権」とは同一ではない。
その理解のためには国連憲章を見る必要がある。国連憲章は次の規定を持つ。
第2条〔原則〕
1:この機構は、そのすべての加盟国の主権平等の原則に基礎をおいている。
3:すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない。
4:すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。
第51条〔自衛権〕
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。
この体系で明確なのは「各国は主権を持つ」「武力攻撃を行わない」「加盟国に対して武力攻撃が行われたら自衛権を持つ」という事である。
集団的自衛権は同盟国(米国)と行動することを考えている。アフガニスタン戦争やイラク戦争の事態を想定している。これらの戦争が行うべき戦争で無かったことは今日、米国もが認めている。こうした米国主導の戦争に入っていくことが集団的自衛権の主たる目的である。
5:安全をもたらすか。
安倍首相は「内閣総理大臣である私は、いかなる事態にあっても、国民の命を守る責任があるはずです」「人々の幸せを願って作られた日本国憲法が、こうした事態にあって”国民の命を守る責任を放棄せよ”と言っているとは、私にはどうしても考えられません」等と言っている。集団的自衛権に参加しないことが「国民の命を守る責任を放棄せよ」と同じであるかのように言っている。
集団的自衛権を持つことが本当に日本国民の安全を高めることになるのか。
今日イスラム社会の人々がある日突然に日本を攻撃することは考えにくい。
もし、日本が集団的自衛権で米軍と共に行動する事態になったらどうなるであろうか。
攻撃された人々は当然報復を考える。
イラク戦争、アフガニスタン戦争の中、ロンドン、パリ、マドリードがテロに見舞われた。2004年3月11日マドリードで合計10カ所での爆破が起こり、191人が死亡、2000人以上が負傷した。スペインのイラク戦争参加に対するアルカイダの報復である。
北朝鮮―ノドン200-300発を配備。
北朝鮮に対する軍事介入の際はこれで日本本土攻撃。
集団的自衛権の適用で米軍と一緒に行動すれば、日本への報復攻撃が予想される。集団的自衛権は安倍首相の発言とは逆に日本を不安定にする。
6:結論:集団的自衛権は日本国民のための制度でない。自衛隊を米軍の“傭兵”にする制度だ。
アメリカは第二次世界大戦以降現在まで、国際法上の「戦争」をした事がありません。相手に宣戦してませんから。
全て「死活的国益」「世界の平和と安全」維持のための“武力介入”です。
日露戦争以後日中戦争まで全ての戦争を“事変”と呼んでごまかしていた日本と同じ。