安倍政権の進める憲法解釈の変更による集団的自衛権行使容認に反対する、さまざまな分野の学者たちが集まって結成した「立憲デモクラシーの会」。6月9日に行われた設立記者会見の公式記録を、会の許可を得て、ここに紹介します。
なお、7月4日(金)には、「集団的自衛権を問う――立憲主義と安全保障の観点から」のテーマで公開講演会が学習院大学にて予定されています。
2014年6月9日立憲デモクラシーの会緊急記者会見@衆議院第一議員会館
【参加者】
司会・杉田敦(法政大学・政治学)
山口二郎(法政大学・政治学)
西谷修(立教大学・思想史)
千葉眞(国際基督教大学・政治学)
小森陽一(東京大学・日本文学)
小林節(慶應義塾大学名誉教授・憲法学)
阪口正二郎(一橋大学・憲法学)
中野晃一(上智大学・政治学)
日本は「法の支配」ではなく「人の支配」の国になる――立憲主義の観点から
杉田敦(法政大学・政治学): それでは「立憲デモクラシーの会」の記者会見を始めさせて頂きます。私、本日司会をいたします法政大学の政治学の杉田でございます。それではまず、山口代表のほうから、一言申し上げます。
山口二郎(法政大学・政治学): 共同代表の1人であります法政大学の山口です。このたび、安保法制懇報告および、それを基にして出されました5月15日の安倍首相記者会見の内容を中心に、今の政府が進めようとしている集団的自衛権行使容認についての見解をまとめましたので、ここで発表させていただきたいと思います。まずお配りした資料の要点の所を読み上げます。
【要点】
1 内閣の憲法解釈の変更によって憲法9条の中身を実質的に改変する安倍政権の「方向性」は、憲法に基づく政治という近代国家の立憲主義を否定するものであり、「法の支配」から恣意的な「人の支配」への逆行である。2 首相が示した集団的自衛権を必要とする事例等は、軍事常識上ありえない「机上の空論」である。また、抑止力論だけを強調し、日本の集団的自衛権行使が他国からの攻撃を誘発し、かえって国民の生命を危険にさらすことへの考慮が全く欠けている点でも、現実的ではない。
3 「必要最小限度」の集団的自衛権の行使という概念は、「正直な嘘つき」と同様の語義矛盾である。他国と共同の軍事行動に参加した後、「必要最小限度」を超えるという理由で日本だけ撤退することなど、ありえない。また、集団的自衛権行使を可能とした後、米国からの行使要請を「必要最小限度」を超えるという理由で日本が拒絶することなど、現実的に期待できない。
4 安全保障政策の立案にあたっては、潜在的な緊張関係を持つ他国の受け止め方を視野に入れ、自国の行動が緊張を高めることのないよう注意する必要がある。歴史認識等をめぐって隣国との緊張が高まっている今、日本政府は対話によって緊張を低減させていく姿勢をより鮮明にすべきである。
次に、内容について少し補足いたします。
まず第1の立憲主義に関する問題点です。お配りした資料の声明文の次のところに『月刊自由民主 2010年2月号』のコピーを付けております。これは、民主党政権時代に小沢一郎氏が、政治主導で内閣法制局の長官を国会答弁の補佐人からはずすというようなことをやっていたときに、自民党がそれを批判して出したコメントでして、四角で囲ってあるところを読みますと、「憲法は、主権者である国民が政府・国会の権限を制限するための法であるという性格を持ち、その解釈が、政治的恣意によって安易に変更されることは、国民主権の基本原則の観点から許されない」とはっきり書いているわけです。いわば私どものこの第1の論点は、2010年の自民党の見解と全く同じであります。
そういう意味で、自民党という政党も、野党時代には真にまともなことを言っていたんだなと思います。しかし、ご都合主義的に今、安倍首相の下で、立憲主義についてのまっとうな議論をかなぐり捨てているという状況であります。ともかく、自衛隊が憲法第9条のもとで、「自国の防衛に専念する」という体制は、半世紀以上続いて来たわけありまして、これは定着しているわけですね。これを一内閣の解釈変更によって、根本的に役割を変えるということは、まさに、自民党のこのペーパーが言うところの「政治的恣意による安易な変更」であります。安倍首相は外国に行きますと、明らかに中国等を念頭において、『自由』『民主主義』『法の支配』という3点セットの、政治的価値の重要性を強調するわけです。しかしながら、今回のこの内閣の、閣議決定による憲法解釈の変更をもし許せば、日本も『法の支配』ではなくて『人の支配』の国になってしまうという結果になる訳です。ここのところは、自民党政権が過去に見てきたことを思いだしていただいて、慎重に考えてもらわなければ困るということであります。
それから第2の論点は、「国民の生命・安全を守る」という強弁についてであります。これは特に5月15日の記者発表の時の様子を念頭において我々が考えた批判なのです。要するに、集団的自衛権の行使を解禁することが本当に国民の生命・安全を守るために役立つのか。あるいはそのために必要不可欠な手段なのかという問題点であります。あの記者発表においても安倍さんは、紙芝居まで用意して、有事の際に日本人を運ぶ米国の艦船を護衛する必要があると。そのために集団的自衛権が必要だという理屈を立てたわけなのですけれども、こういった話は真に荒唐無稽であります。そもそも米国の、特に米軍の艦船に、民間の日本人が乗って、日本に帰還するなどうということは、米軍自体はまったく想定していないわけですね。
有事の際の邦人帰還については従来防衛省、自衛隊等で、いろいろなシミュレーションをしてきたわけでありまして、そういう現実的な議論の積み重ねは無視して、集団的自衛権を認めるための、いわば道具、方便としてあのような事態を持ち出すというのも、真に非現実的な話であります。より大きな問題は、集団的自衛権を行使することが、全面的な戦争への参加につながる、そして、かえって国民を危険にさらしかねないという側面を、意図的か、あるいは無知のゆえか、無視しているという点であります。言うまでもありませんが、集団的自衛権を行使して日本が米国の艦船等を守る為に武力攻撃を一緒に行えば、向こう側にとっては、「日本は戦争を仕掛けた」という解釈をされるわけであります。
そうなると、仮に、日本の近くで有事が起こった場合、その敵対国は米国本土ではなくて、日本にある米軍基地、あるいは、更には日本の国土を攻撃することは、明らかであります。したがって、「船に乗って帰ってくる日本人を守る為に武力攻撃が必要なんだ」というわけですけども、その数百倍、数千倍の損害、人命の損失、あるいは環境破壊を引き寄せる危険性について何ら考慮していない。あるいは考慮していることを隠しているという点で、真に不誠実極まりない説明であると言わなければなりません。とりわけ、日本という国は、日本海沿岸に多数の原発を置いているわけでありまして、通常兵器による戦争は、すなわち、核戦争を意味いたします。そのような脆弱な国土を作っておいて、武力攻撃を行う、あるいは戦争状態を誘発するということをいったいどこまで真面目に考えていたのか。この辺の問題も、安保法制懇の議論、あるいは安倍首相の議論からまったくうかがえないということであります。
「必要最小限」という言葉のまやかし
3番目は「必要最小限」という言葉のまやかしであります。個別的自衛権については、その資料にありますように、「我が国に対する急迫不正の侵害」「これを排除するために他に適当な手段がない」そして「必要最小限度の実力行使にとどまる」という、3つの要件を挙げて、それを満たす場合に自衛権を発動するということが憲法上できるのだという説明をしてきたわけであります。しかし集団的自衛権の場合は、それとはまったく、その構成が違う訳でありまして、その下に書いてありますように、直接武力攻撃を受けていないのに、放置すると我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるか、ないか、という不明確な基準によって、その時々の政府が実力行使の判断をするという問題点。そして、「自国の安全への危害の可能性を未然に防ぐこと」と、「緊密な関係を有する他国を防衛すること」という二つの異なる集団的自衛権行使の目的が存在するなかで、自衛隊の任務が何で、その達成のための必要最小限度の実力行使とは何かを、政府がどのように判断するのか、明確な基準が存在していない訳であります。
さらには、攻撃を受けた密接な関係を有する他国からの要請を受けて、集団的自衛権を行使し、自衛隊が、他国軍と協力して敵国に対して実力行使をしている事態になって、「必要最小限度を超えた」という理由で日本政府が単独で戦争から「早期退出」を判断できるというのは、これは非現実的極まりない話であります。ということで、集団的自衛権というのは、いったん行使をすれば、歯止めがない。軍事力の行使は無制限のものになるということは、明らかであります。そういう意味で、「必要最小限度の集団的自衛権」というのは、集団的自衛権の本質を誤魔化す詭弁であると言わなければなりません。
4番目は、今後の国際協調のあるべき方向性でありまして、ここは、いわゆる「安全保障のジレンマ」に言及している訳であります。つまり、こちらが侵略とか、攻撃の意思を持っていなくても、攻める力、あるいは攻めるための法的な仕組みを整備すれば、仮想敵とされている国々は当然、「攻撃を受ける」という警戒心を持って一層防衛力の強化を図る。そこから悪循環が進んでいく。これが「安全保障のジレンマ」であります。その意味で、日本は、東アジアにおいて、緊張を減らす方向での努力を、むしろすべきではないか。ここで唐突に集団的自衛権の行使を可能にするために、事実上、憲法の中身を作り替えるということをやれば、これはむしろアジアの緊張を高める効果をもってしまうという主張であります。このような論点から今回の安倍政権の集団的自衛権行使についての見解は大きな問題をはらんでいるということが、この見解の主旨であります。
私どものこの見解は、先ほど申しましたように、安保法制懇の報告を受けて作ったものですが、その後、この3週間くらいの間に議論はどんどん拡散しております。集団的自衛権以外の、例えば、グレーゾーン事態、マイナー自衛権とか、それから非戦闘地域の概念だとか。いろいろなことを次々と打ち出して、与党協議の中で、自衛隊の役割についての法的な縛りを外していく。あるいは役割を拡大していくという試みが繰り返されております。しかし、その中で打ち出された議論がほんの数日で撤回されるということがありました。これは本当に、今の安倍政権、あるいは自民党の、信じがたい不誠実と言いますか、非常にいい加減な態度の表れだと言わなければなりません。ですからそこで出てきた多数の類型なるものについて、いちいち、「これはできる」「できない」といったことを議論すること自体が無意味なものであります。そういう形で、いろいろな「場合」を繰り出してきて、議論を混乱させて、そしてどこか1点でも「集団的自衛権の行使が必要である」という議論を公明党から引き出す、あるいは特殊なありもしない事例を想定して、「そういう場合は集団的自衛権を認めなければ対処できない」という世論の反応を引き出す、これが現政権のねらいです。こういう安倍政権、自民党のやり方についても非常に、私たちは怒りを持っているという現状であります。私の見解についての説明は以上とさせていただきます。
福島の事故対応に注意を払わず、
なぜ「国民の安全を守る」と言えるのか
杉田敦: それでは引き続きまして、出席の呼びかけ人から順次、発言があります。
西谷修(立教大学・思想史): 立教大学の西谷です。哲学をベースにした仕事をしております。今、山口代表の話にもありましたように、今の政府のやっていることは、要するに与党内部での調整を付けるためだけにいろいろな些末な議論を出して、時間を過ごしているだけですね。それで議論をしたかのような振りをして、もう「今国会中に結論を出す」というようなことを言っています。それでいったいどうなるのか。
根本的なことは、要するに解釈だけで憲法の中身を変えていいのかということですけれど、これは国内においても、国外においても大きな影響を持つことになります。国内においては、この前も言いましたが、当然ながらこの国の、この社会の法規範の基本的な枠組みが、いわば、シロアリが食ったかのように崩れてゆく。戦後憲法体制が崩れるだけではなく、あらゆる法律の準拠性というのがなし崩しに崩れていきます。つまり政府が、法律があってなきがごとくに振る舞えるということになる。
そして国外に対しては、日本がどういう姿勢を持つ国であるかということが通用しなくなります。憲法9条がありながら、じゃあ実際はどういうことをしているかということで、国際的な信用がなくなっていくわけです。この60年にわたって日本が積み上げてきた、さまざまな努力がありました。多少の政治的な考えや立場の違いはあっても、結果的に、日本は戦争はやらない、少なくとも外国に軍隊を送って人を殺すようなことはしない、他国を荒らさない、といった枠組みは守られてきた。そしてそれをベースにして日本は国際貢献をやってきたという実績があります。その実績のすべてが崩れて、信用をなくすわけです。
これは「9・11」後のアメリカを思い出させます。アメリカは「テロとの戦争」を始めることで、20世紀の戦争を通してまがりなりにも築いてきた「自由」をもたらすという――これはかなり前から神話化はしていたんですけれども――、「アメリカの正義」というものがその国際的影響力の基盤にあったはずなんですが、アフガニスタンの空爆だとか、世界の最貧国を「石器時代に返す」だとかいうことで、その信用をまったく無くしてしまった。あるいはイラクを不都合な体制を壊して、そしてその結果どうなったかといえば、あの国はもはや何十年にもわたって安定的な社会ができないような場所になってしまった。それがまたさらに色々な所に飛び火しています。それによって、アメリカが20世紀に築いてきた、国際的威信の元手がすべて崩れてしまった。それと同じように、日本も、この数十年で築いてきた信用の原資を実質的に失うことになってしまいます。
ところが今は、そういう根本的な問題から目を逸らして、目先の技術的な、それもためにするというしかないような例ばかり挙げて、それも公明党を何とか追い込むためにと、急ぎ足で場当たり的な議論をしています。「集団的自衛権」でもいいですが、戦後70年近く経って、「憲法体制をどうするか」、「これでいいのか」とか、日本の戦後は「屈辱の戦後」だったのか、あるいは「名誉ある戦後」だったのかといった根本の議論はまったくなされていません。細かい議論だけが日々、新聞紙上を賑わせ、テレビで図入りで報道されて、それだけが課題であるかのような事態になっているということです。
あまり長くならないよう、最後に1つだけ言わせていただきますと、安倍首相がよく口にする「国民の安全」とか「国民の命を守る」ということがあります。けれども、「解釈改憲」がこの間の最優先の政治課題になっていて、政治プロセスが全てそこに集中している間に、じゃあ「福島はどうなっているのか」とかは、まったく後景に退いているわけですね。まさか「アンダー・コントロール」というのをみんな信用しているわけではないでしょうが。コントロールするための日々新たな課題が生じているとか、長期に避難している人たちをどうするのかとか、最終処理場の問題もあります。その緊急であるべき対応はまともにされていない訳ですね。
あの事故対応に関心を払わず、どうしてそれで「国民の安全」「命を守る」と言えるのか。結局、それもこれも、今までずっとやってきた自民党政権が起こした問題ですが、その責任をむしろネグレクトするために、外敵を作って緊張を高めているのではないか。少なくとも、そういうことにしかなっていないわけです。
安倍首相はよく外遊にでかけます。つい最近もヨーロッパに行って「大本営発表」風のニュースが日本の国内には伝えられています。けれども、そうして遠い外国で威勢のよいことを言って、それがまた中国に対する批判だったりします。だからますます隣国との緊張を高めるようなことにしかなりません。安倍首相が遠くで何かすればするほど、近くの緊張は高まっていくわけです。つい最近、アメリカの著名投資家が安倍首相を「アジアで最も危険な人物だ」と言ったようですけれども、実際、アジアの緊張緩和に関しても何もしていないわけですね。実際、悲しいことに――よく私はよく言いますけど――、悲しいことに日本は、周りに友だちがひとりもいない国です。作る努力をしてこなかったし、いまはしようともしない。それで、「向こうが折れないから悪いんだ」と言ってつっぱっている。
それで「集団的自衛権」で守ってもらおうと、「遠い友だちの戦争を手伝うんだ」といきがっているわけです。このことの異様さというのは、ちょっと考えた方がいいと思います。そんなふうに考えて、そんな振る舞いをする人たちというのは、もうほとんど病理学的な名前がつくような事態だと思います。実際、安倍首相が、安保法制懇にしろ、内閣法制局にしろ、NHKにしろ、集めてくる人たちは、我々の社会常識から考えれば、極めて異様な人たちです。そこに加わっている学者という人たちも、学会でも極めて特殊な少数派ですね。そういう人たちが国の舵を取り、それを動かそうとしている。それが政府の息がかかっているということで、メディアに――皆さんもメディアだから申し訳ないですが――、新聞紙上、テレビに取り上げられるわけです。それに対して、おかしいとか異様だといった反応が出てこないというのが、いまの日本の社会の異様さを示していると思うんですが、そのことを考えなくてはいけない。ちょっと長くなって申し訳ありません。
現政権は憲法破壊、立憲主義否定を進め、
外交におけるリスクを増大させている
千葉眞(国際基督教大学・政治学): 国際基督教大学の千葉と申します。政治学を専攻しております。手短に3つの論点を、私は申し上げたいと思います。
第1点は、今も西谷さんからも出ましたが、安保法制懇への批判です。
第2点は、思慮を欠いた現政権の憲法破壊、立憲主義への暴挙は決して許されるものではないという点。
そして第3点は、現在、安倍政権は、この国会会期中(6/22まで)に「なんとかして閣議決定をしよう」ということを言い出しましたですね。今こそ総力を結集して立ち上がらないと、この国の将来は本当に危ういものになる。これらの3点を申し上げたいと思います。
(1) まず安保法制懇への批判ですけれども、結局、問題は3つあると思います。第1にこの団体は、憲法を骨抜きにし、立憲主義を破壊することに手を貸した点。憲法の定める改正手続きを否定し、憲法破壊をし、立憲主義を葬り去ろうとするこの政権に尻尾を振って、学問的および職業的良心を持つはずの人たちが、それを捨て去ってまで、こういう暴挙に加わったこと。これをやはり徹底的に批判していく必要があると思います。第2に、時の政権の支配をやりやすくするために、政権の露払いの役をし、政権に利用されることを知りながら、その意向に節操を売り渡した点。これは支配権力との距離の問題です。政権と一枚岩になってしまい、政権にお墨付きを与えるだけの御用学者集団に成りはてたということ。これまた、許しがたい暴挙だと思います。(小泉政権時代の靖国懇の方がまだ骨があったと思います。支配権力と距離を取ることを自覚していました。)第3の問題点は、これが悪しき先例となって、今後の政権もこのような手法を使用することによって、やりたい放題になったらこれは大変だという点です。
それから、安保法制懇が出しました報告書の内容に関わりますけれども、いくつもの箇所で「個別的自衛権と集団的自衛権との線引きは難しい」そして「不可能に近い」ということを繰り返し言っていますね。そして「必要最小限度」の自衛権の範囲内で、集団的自衛権を含める憲法解釈変更でなんとか、しのぎたいという主張ですね。これはやはり大きな問題だと思います。集団的自衛権というのは結局、他国の軍事的防衛、それを意味する訳ですね。ですから戦闘行為、あるいは準戦闘行為に参与するということを実質的には意味します。先ほど、山口共同代表、それから西谷さんも言われていましたが、戦闘行為になったら途中で引くということはほとんど不可能なことなのですね。憲法9条の「交戦権の否認」と真っ向から対立しています。こうした立憲主義を傍若無人に破壊する現政権の権力指向型虚偽体質にお墨付きを与える、まったくもって問題だらけの報告書になっております。
(2) 第2点はですね、この思慮を大きく欠いた現政権が、結果的に憲法破壊、立憲主義否定を大手を振って行っているという点です。結局今、現政権がやっていることは、中国や北朝鮮への挑発でしかないです。外交政策としては絶対やってはいけないリスクの大きなことを今やっているのです。仮想敵国を設けることによって、極めてタカ派的で挑発的な戦争準備外交を行っています。軍事の抑止力を保持するどころでなく、仮想敵国を挑発する馬鹿げた外交です。現在の集団安全保障論の関連でいえば、この数十年、ヨーロッパにおいても、NATO(北大西洋条約機構)への反省があって、その集団安全保障体制への大幅な依存過多で、結局、冷戦を持続してしまったという反省があるのですね。そこで1970年代初め以降、NATOという軍事的なある種の集団保障体制への依存度を弱め、OSCE(全欧安保協力機構)を設立して、両陣営に信頼醸成のメカニズムを作り、冷戦構造を克服しようとする試みを始めました。1995年には常設事務局をジュネーブに設置し、OSCEの役割は一段と強化されました。パルメ委員会の報告書(1982年)もあって、両陣営間に対話の通路を確保し、信頼醸成を作りだそうとする気運が生まれた。これは「共通の安全保障」といわれるあくまで対話と信頼醸成のメカニズムを駆使して、平和を確保する非軍事的な安全保障です。これが1990年代初頭の米ソ冷戦の終結を準備する一要因となりました。現在ではさらに非軍事的な安全保障体制が進化し、「協調的安全保障」が提唱され、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア、ASEANなどが、それに基づく手法を採用しています。
結局今、現政権がやっていることは、現代の安全保障論からいえば、時代遅れもいいところで、中国や北朝鮮を仮想敵国に仕立てあげ、挑発しようとしている。今日の日本は、「共通の安全保障」や「協調的安全保障」という非軍事の安全保障を機軸とし、これまでの平和憲法の「非戦」の信用力と信頼醸成によるソフトパワーを中心にした平和構築外交を推進すべきです。
安保法制懇の座長代理の北岡(伸一)さんの発言に、安全保障の専門家のほとんどは、集団的自衛権を擁護しているというのがあったのですが、これは明らかに事実誤認です。私たちの先輩の世代では、坂本義和先生や武者小路公秀先生、百瀬宏先生ら、そして次の世代では遠藤誠治さん、佐々木寛さん、高原孝生さん、奥本京子さんたち、これらの研究者は、非軍事的な安全保障、さっき申しました「共通の安全保障」や「協調的安全保障」の枠組みで安全保障をずっと考えてきたと思います。
ヨーロッパで展開した1つの大きな成果として、信頼醸成を促すOSCEのやり方から学び、軍事同盟に依存するような形から脱却して、非軍事の平和構築外交を駆使して、近隣諸国との関係を良好なものにしていこうという手法を、日本政府は今後、東アジアで追求すべきであると思います。
(3) 最後に、「国民法制懇」ができましたし、ここに小森さんもいらっしゃるわけですが、「九条の会」も明日10周年の記念会を持ちますね。その他、今回の政府の暴挙に反対する市民団体、人権団体、平和団体が、たくさんあります。今、この大きな危機に際して、とにかく一緒に連携して「声を上げる」ということを、一生懸命やっていかないといけないと思います。本当に大変な決定的時機(カイロス)に入ってきたと思います。そのようなことで、ジャーナリズム、マスコミ、報道機関の皆さんとも一緒に「声を上げて」、全国的な規模で異議申し立てをしていくような運動を展開していく必要があると思います。そういう決定的時機ではないかと思っております。これを逃すとですね、日本の将来の歴史に大きな禍根を残すような、そういう誤った道筋に進んでしまうのではないか。こういう危機感を持っているということを、最後に申し添えさせていただきたいと思います。
安倍政権が進める、3つの「侮りと謀り」
小森陽一(東京大学・日本文学):東京大学の小森です。私の専門は日本文学です。日本文学の立場から今、安倍晋三政権がやっていることを規定します。それは与党である公明党に対しての愚弄であり、同時に立憲主義そのものに対する愚弄であり、主権者である国民に対する愚弄だと思います。
ただ「愚弄」という熟語は、「侮り、からかう」という意味です。しかし安倍晋三政権がやっていることは、「からかう」などという生半可なものではなくて、「謀(たばか)る」ことだと思いますね。「愚謀(ぐぼう)」という熟語がないので、安倍晋三政権の3つの「侮りと謀り」を批判したいと思います。
まず与党である公明党に対しての「侮りと謀り」とは、6月3日に与党協議に出した4条件を、6月6日に直ちに引き下げて3基準にするという手口です。概ね報道は出したばかりの4条件を3基準に引き下げたというふうになっています。すると、何か妥協が成立したかのような印象が、報道自体の中に出てきてしまうわけです。けれども、まずその4条件の1は、「現に戦闘を行っている他国部隊の支援」ということです。3は「戦闘現場での支援」。日本語からいってこれがどう違うのかは、説明不可能です。つまりほとんど重なっているような想定状況を非常に曖昧な言葉で言語化して、この4条件が全部揃って当てはまる場合にだけ行ってはいけないということでした。実はもう、たった1つの条件でも完全に戦闘地域に行けてしまうということだったのです。この4条件を取り下げて、3基準にした。
1つは「戦闘が行われている現場には支援しない」。もう1つは「のちに戦闘が行われている現場になったときには撤退する」と、あたかも戦闘地域では何もしないというふりをしながら、3つ目に「ただし、人道的な捜査、救助活動は例外とする」というふうにして、明らかに戦闘地域で行動をすると言っている訳です。つまり、このことが、2番目の立憲主義そのものに対する「侮りと謀り」になると思うのです。
自衛隊の海外派遣は非戦闘地域に限定するというのが、1992年、宮沢喜一政権の時にPKO法が成立したときの非常に重要な条件だった訳です。そのあと、さまざまな特措法で、小泉政権のもとで自衛隊が海外派遣されました。覚えていらっしゃると思いますけども、イラクのサマワに派遣するときに、国会で徹底追及されて、小泉純一郎首相は「自衛隊が行くところが非戦闘地域です」というふうに原因と結果をひっくり返した答弁をしました。でも昨年の11月16日の「九条の会」の全国交流討論集会のシンポジウムの中で、柳澤協二さんはこの国会での発言を小泉純一郎から引き出したことが、サマワに行った自衛隊が一発の銃弾も撃たずにかえって来れたことなのだ。そしてそれが日本の、9条を持つ日本の、国際貢献のあり方を世界に知らしめたし、理解を得たことだった、と発言されました。
去年の年末、南スーダンが戦闘状況になったときに日本の自衛隊が撤退しなければならない、その時に、1万発、弾を渡してきたかどうかっていう話にも重なります。つまり、日本の自衛隊の活動が9条の縛りの中で、「非戦闘地域」に限定されていたことが、日本の国際的な評価を高めてきたことであるわけですね。だからそこのところ、非戦闘地域という縛りをとって、自衛隊を戦闘地域に派遣して実際に戦闘行動に参加させるとくことを押し隠して、言葉のごまかしをやっているということが3つ目の、主権者である国民に対する「侮りと謀り」ということになります、
第1次安倍晋三政権が、どのようにして崩壊したか。それは2007年の9月初め、シドニーでブッシュ大統領から、泥沼状態になっているアフガニスタンに自衛隊を出せと要求されました。どこが非戦闘地域で、どこが戦闘地域なのか線引きができないアフガニスタンにPKOで自衛隊を送れと強く言われた。けれども当時の内閣法制局長が強く反対してそれができなかった。ある意味では、かつての武士が、殿様に対して、詰め腹を切る代わりに突然「おなかが痛い」と言って政権を投げ出したのです。その安倍晋三という政治家個人の「歴史的使命」のために、総理大臣が国民である自衛隊員の命を人身御供に出していいのか、ということが問題なのです。自分の名誉のために国民の命を犠牲にする政治家を総理大臣にしていていいのか。そのことを私はメディアの皆さんに追及していただきたいと思います。
戦争をしないで来たというユニークな「国柄」を、
捨ててしまうことのもったいなさ
小林節(慶應義塾大学名誉教授・憲法学): 毎日驚くように勝手に状況が進んでしまっているのですけれども、いつも原点を確認しておきたいと思います。集団的自衛権の本質が議論の核心となっていますけれども、集団的自衛権というのはご存知の通り、「同盟国の戦に我が国は無条件で駆けつけて参戦する」これが本質なんですね。
このことは忘れられて、何か細かな状況論議に変わってしまっている。そしてその中で、「尖閣諸島は危ないでしょう」「やることは少しだけだから」「限定的だからいいでしょう」というと、世論調査で○×△だと△が多くなると、それを○に足して、「ほら、過半数が認めているではないですか」。このトリックに対して、○か×かというと、みんな改めて集団的自衛権の本質を思い出して×をつける。それはなぜかというと、これは「日本国憲法9条に照らしてもだな」みたいな話になっているのが私は恐ろしいのですけれども、9条はどう見たって文言と、歴史的背景からいって、海外派兵を厳禁しているとしか読めない。
だからこそ、改憲論者が「私はこれは改正して、状況によっては海外派兵もあり得るという選択肢はあった方がいい」という議論をずっとしてきたわけです。ただ、今この段階で、「何いってるの」と。「9条がある以上、海外派兵が場合によってはあり得る」なんて議論はそもそも憲法に管理されている内閣が決めることではない。この、先生方がおっしゃったことと同じです。それから、これも山口先生のお話と重なりますけれども、必要最小限というのは、これは安全弁のように言われますけれども、これは「必要」から入る以上、言葉の性質からいってね、「必要です」といって入ったら、始まっちゃうんですね。始まったら関係者は無限の安心感を持つまで、「まだいて」「まだいて」「まだいて」「だって必要を感じるから」という社会で、最小限なんて歯止め、なくなっちゃうんですよね。
だからこの言葉のトリックには騙され、もちろんそれ以前に必要最小限であれ何であれ、「海外派兵いけないんだよね」っていうふうに質問しなきゃいかん、というふうにいつも思っております。それから今回この論争に参加して、私自身成長したと思っているのは、憲法9条のおかげで、戦後日本が戦(いくさ)働きをしないできたということは、ある意味では、私はたしかに、国際協調主義から言っても、つまり戦働きでは国際協調に参加しない、こんな大国があるのだというユニークな、自民党が好きな言葉で言えば、ユニークな「国柄」ですよね。国柄という話は、彼らはいつも明治憲法のところで歴史止めちゃいますけども、そのあとの歴史も我々の歴史なので、国柄というのは変化があって、変遷があっていいと思うんですね。私は本当にこの国の国民でよかったと思うのは、今の世界の中でこんな大国で、武器を振り回さない、我慢強い国民がいるということがこれからの世界にとってどれほど重要かという、この国の新しい国柄を捨てることの恐ろしさというか、もったいなさを感じます。
安倍政権自身が主張していた、
96条改正論との大きな矛盾
阪口正二郎(一橋大学・憲法学): 一橋大学の阪口です。私は憲法が専門なので、その観点からちょっとお話をしたいと思います。まず現在の問題については2つのことを分けて、議論すべきだと思います。1つは集団的自衛権の行使を容認するか、解禁するかという問題です。もう1つは、容認する、あるいは解禁するとして、それをどういう方法で行うのかということで、前者の問題はもちろん大きな問題ではあるのですが、今日は後者の問題についてお話ししたいと思います。後者の問題は、本日我々「立憲デモクラシーの会」がまとめた意見の1番目の項目に関わります。それは、集団的自衛権の行使を容認するのを、憲法を改正せず、一内閣の解釈、憲法解釈の変更で行うということがどういう問題なのかということです。
皆さんご承知のように、ここ2年間くらい実はこの問題の前に、憲法を改正するのかどうかということで、自民党は憲法を改正すべきだという議論をずっとやってきた訳ですね。特に憲法96条について、改正要件を緩和して、もっと憲法を改正しやすいようにしたいというふうに安倍さんを含めて自民党は言ってきたんです。その議論と、今回の憲法改正ではなくて、一内閣の解釈変更によって集団的自衛権の行使を容認するというのは、私はかなり矛盾すると思います。もちろん、矛盾しない部分もない訳ではありません。憲法というのは私の見るところでは権力の行使を抑制するものです。その権力の中には、国民、我々国民も入っています。
国民は憲法制定権力という意味では最大の権力だと思いますが、この権力をも抑制するのが、今の憲法の考え方だろうと思います。例えば、表現の自由がある中では、たとえ国民の大多数の人が「ある人の言論を制限しろ」というふうに言っても、それだけでは制限できない。多数決でも人権を侵害できませんよというのは、そういう現れだと思います。権力を縛っている立憲主義というものを弱めたいという意味では、その当時の96条改正論と、今回の憲法解釈の変更によって集団的自衛権の行使を容認したいというのはつながっている部分があります。
ただ、あのときと違っているのは、あのとき安倍さんは、なぜじゃあ96条の要件を緩和したいのかというふうに言ったときに、「それは国民に憲法を改正するチャンスを与えるためだ」というふうに彼は言ったはずです。国民に憲法を改正するチャンスを与えたい、その機会を増やしたいというのは、ある意味で、これは民主的な議論としてはあり得る議論です。私は民主主義をも制約しているのが今の憲法だと考えておりますので、こうした議論には反対ですけれども、民主主義を重視する議論としてはあり得る議論です。ところが今回のやり方はまさに、一内閣が自分たちの考え方だけで憲法の解釈の変更によって集団的自衛権の行使を容認する、という話です。これは明らかにあの時の安倍さんの民主主義論とは矛盾しているように思います。
もし、当時の議論に忠実であれば、国民に意思を問う憲法改正によってこれは行うべきだということ以外にはないはずなのに、なぜか今回は国民の意見は聞かなくてもいい、内閣の、しかも私が決めればいいのだという話になっています。どうも安倍さんは、立憲主義について、それは王様がいたころには必要だったけれども、現在はいらないということをおっしゃったみたいですけど、先ほど申し上げたように、立憲主義は国民主権になっても、国民を縛るためにもいるわけです。国民以外のもちろん、統治権力を縛るということもあります。
しかし、実は安倍さん自身が、どうも最近は王様のように振る舞っているのではないか。国民の意見なんか聞かなくて、憲法を改正せずに集団的自衛権の行使を解禁することができるのだ、というふうなことをおっしゃっているのは非常に異常な事態だろう、と思います。戦後60年間、我々だけでなく、自民党自身が自分を縛ってきた9条の拘束を解くのに、憲法の改正を経ずにこれを行うというのは、私には非常に異常な事態だと思います。その意味で安倍さんは、立憲主義でもないし、まさにデモクラシーでもない人なのだろうという感じがします。この会が「立憲デモクラシーの会」という名称を冠して、安倍さんのやり方に反対している理由の一つはそこにあります。
私たちの目の前で、
「憲法の無効化」が行われようとしている
中野晃一(上智大学・政治学): 上智大学の中野晃一です。先ほど山口さんのほうからも話があった野党時代の自民党の『月刊自由民主』というところからあった一行(ひとくだり)なんですけれども、同じ2010年の野党時代に自民党が採択した平成22年綱領の中に「意に反する意見を無視し、与党のみの判断を他に独裁的に押し付ける国家社会主義的統治とも断固対峙しなければならない」という一節があるんですね。
当時は民主党の政治主導というものをそういった形で批判していた、と。しかし皆さんご記憶だと思うのですが、政権に戻って昨年、参議院選挙にも勝ったあとなのですけれども、麻生太郎さんの発言があった訳です。「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。ワーワー騒がないで、本当に、みんな、いい憲法と、みんな納得してあの憲法変わっているからね。ぜひ、そういった意味で、僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんが、しかし私どもは重ねていいますが、喧騒の中で決めてほしくない」と。
ご承知の通り、ナチス憲法というものは存在しないわけですね。ワイマール憲法自体が全権委任法によって無効化されて、それによってヒットラーの独裁制が完全に成り立ったということですけれども、今回もまた同じような形で、憲法について法律どころか、その前の段階として閣議決定によって、憲法の無効化をしてしまおうというようなことを、これだけ公然と、現職にある副総理が言っていたのが昨年のこと。それが今現実のものとなりつつあるということに対して、いったい我々はどういったことができるのかという無力感は非常にあります。
やり方ということに関してみれば、これは本当に憲法泥棒であるとか、いろいろな言い方で、私どもも問題意識としている訳ですけれども、そもそもが、その憲法改正が必要であるものに対して、それをしないでやろうということを今進めている、と。それもそのやり方が、先ほどの小森さんの話にもあったのですけれども、完全に政権外の人間。これはもうマスコミから、国民から、すべてだと思うのですが、バカにしているようにしか思えないやり方をしている、と。
どれくらいバカにしているかというと、これは安保法制懇の報告書と、そのあとの安倍さんの記者会見もそうでしたし、つい先頃の、その与党協議の中での4つの条件から、3つの基準への豹変とかもそうなんですけれども、どうも何か目の前で、腹話術の、腹話術師が人形を抱えながら、目の前で密談を大声でしているような感じな訳ですね。その腹話術師がその人形に対して、極端なことを言わせて、そのあとで腹話術師が「そんなことはできないだろう」ということでたしなめたような形で、あたかも何かが良くなったような形で、とんでもない暴論を通そうとするというような、まあ、猿芝居なのか何なのかよくわからないのですけれども、状況としてはっきりしていることというのは、安倍政権は、今も阪口先生の話にもありましたが、何をしたいのかということに関しては、一切の制約を取っ払いたい、と。憲法9条の制約を一切取っ払いたいということはある。それははっきりしていたから96条の改正の議論であるとか、今に至るまで、安保法制懇の枠組みから何から、すべてそのためにやってきている訳ですね。
とりあえず、だけど、それだとうまく通らなそうだったらば、小さく生んで大きく育てればいいというようなことで、「トロイの木馬」のように、事例だの何だかという、フィクションにすぎないものをいくつでも用意してきて、今だと16くらいまで膨らんでいるようですが、それで1つでも通れば、そのあとはどうにでもなるということがよくわかっているので、集団的自衛権が可能だということで、憲法9条の縛りを無効化さえしてしまえばそれでいいということでやっている、と。その意図というのははっきりわかっているにもかかわらず、マスコミの皆さんも含めて、猿芝居に付き合っている。これは一体どういうことなのだろうかというのは、このワイマールの経過も、麻生副総理自身が言っていたということからもあるように、我々の今後、我々の子ども、孫たちの世代になったときに、どういう役割を果たしたのか。これは冷静に考えてみないといけないことだというふうに思っています。
で、じゃあ、何をやりたいのだろうかということなんですね。ここまで欺くようなマネをして、ここまで手の込んだ芝居というか、たいして手も込んでいないですけれども、ここまで、何て言うんですか。白々しいお芝居をやっていったい何をしようとしているのかというと、積極的平和主義なんていう言葉がある訳なのですが、これは少なくとも私が調べた範囲の中では、報告書から、安保法制懇はもちろんそうですけれども、あるいは国家安全保障戦略会議もそうなんですが、積極的平和主義の定義というものがやっぱり見当たらないんですね。
これで何をしようとしているのかというので、北岡伸一さんが両方とも、国家安全保障戦略にも関わってきたし、法制懇の方でも座長代理をしていらした方ですから、彼が日経新聞に、今年の頭に書いたものを見ると「積極的平和主義とは、消極的平和主義の逆である」と言っているんですね。「消極的平和主義とは、日本が非武装であればあるほど世界は平和になるという考えである」と。それで終わっちゃってるんですね。結局、積極的平和主義のことについて、「消極的平和主義」と彼が呼ぶものの否定でしか定義ができていない。で、じゃあ、これを実際に当てはめてみると、じゃあ、消極的平和主義が、日本が非武装であればあるほど世界は平和になるという考えの逆と彼は言っているわけですから、積極的平和主義は「日本が武装すればするほど、世界が平和になる考えだ」と。あ、なるほど、わかってくるわけですね。
実際のところ、「夢みる抑止論者」というふうに柳澤協二さん(元内閣官房副長官補=安全保障・危機管理担当)が安倍さんのことを言っているように、日本があれも、これも、これも、これもできるようになればなるだけ世界は平和になるというのが、その、記者会見での紙芝居でもありましたけれども、「あ、困りました」と。おじいさん、おばあさん、お孫さん、みんな困ったところに、自衛隊が制約なく到着できると「これで平和が訪れた」という、そういう彼のバラ色の脳みその中に、おそらく付き合っているんだと思うんですけれども、それでいっこうに安心感が出てこないのは何でかというと、結局、ここまで歯止めがきかない政治状況がある中で、最後の歯止めであるというか、一番強い歯止めである憲法9条の事実上の無効化ということを許してしまったら、このあと歯止めがある訳がないというのは、多分、みんなどこかのレベルでわかっていることだと思うんです。
これほど政党システムが壊れていたことは戦後の日本ではなかったですし、そして今、周りを見てみても、合従連衡の野党再編の動きからしてみても、公明党が、その腹話術と人形の役割の中の、人形をやらないというふうになった場合には、今度は維新の会、みんなの党だの、何だのというのが、いつでも用意をしてやっていきますよということで、お付き合いをするわけですね。特定秘密保護法の時はまさにそういったようなことで、形だけの野党協議をしましたといって、かえって内容が悪くなったような法律が通る、と。そういう政党状況の中にあって、そして今、特定秘密保護法の話もしましたけれども、あれによって安全保障というのは軍事機密という形でこれから国民の議論から益々遠ざかっていくということがもう決まっているわけですね。
その中で、安全保障に関して、自国が攻撃をされていないのに、どうもこれは危険になるぞと政府が判断したものに対して我々が関わっていく余地は全くなくなってくるわけです。挙げ句の果てに、巻き込まれるという形を作り上げて、言葉は悪いんですけれども、自衛隊の、要はどなたかのお孫さんにあたる方、お子さんにもしものことがおきたら、マスコミの皆さん、それに対して批判できますか。今これだけの状況で、セットアップされた中でしか議論できていないのに、実際に死傷者が出て、日本人が傷ついて亡くなったというときに、「これはそもそも戦うべきでない戦争である」とか、政権批判がいったいどこまでできるのか。
そして安全保障の状況に関して、政府の判断に対して、そのチェックの役割を果たすような情報が得られるような国の形に、今なっているかというと、ならない。むしろ遠ざかっていっているという、そういう状況にあるわけですね。なので今回「限定容認論」というような形で、とにかく通してしまえば、トロイの木馬を一頭でも通してしまえば、あとは城壁がないものはわかっているので、そういった猿芝居をえんえんと目の目でやっている、と。おそらく多くの人というのは、ある程度知識があればこれは猿芝居だとわかっているのに、なんとなく見物をしていて、マスコミでも毎日毎日、どうでもいい議論を、翌日どうでもよくなってくるのがわかっている議論を、とにかく報道し続けるという形になっていて、あたかも政権が時間を使って何らかの妥協、少しはおとした、抑制をきかせたような形になることの演出に加担をしてしまっている、と。
これこそがまさに、「ナチス憲法」というふうに麻生さんが呼んだような憲法の無効化というものが目の前で行われていっているという。そのことについて一体、我々はどういうことができるのかというのは、正直今日は、マスコミの方たちにも含めて、呼びかけたいと思っています。
集団的自衛権の論議の前に、
まずはイラク戦争についての検証を
杉田敦: 今回の私どもの見解では、安全保障のあるべき姿についても若干踏み込んで述べております。抑止論についてどう考えるか。あるいは抑止よりも緊張緩和が必要であるといった論点。そして安保法制懇や安倍さんが示しているオプションというものの非現実性というふうなことにも言及しておりますが、ただ私どもの会は、基本的には立憲デモクラシーの擁護という一点で集まっているわけで、安全保障論についてはさまざまな考えの人びとがいます。
集団的自衛権がらみの問題というのは、一方においては憲法問題ですが、他方では安全保障の問題、ということで、2つの領域にまたがっており、この2つの関係をどう扱うかが難しい。この会は、安全保障についての考え方は違っても、憲法についての考え方が同じならば一緒にやっていくという前提で考えている訳です。そういう趣旨の会であるにもかかわらず、なぜ今回、ここまで安全保障論議をせざるを得なくなったかというと、それはまさに、安倍さんや安保法制懇等が、彼らなりの安全保障論を持ち出すことによって憲法を空文化、無効化しようとしているからに他なりません。
これは、法制懇座長代理の北岡さんに非常に典型的に見られる議論なんですけれども、憲法より安全保障のほうが大切であり、憲法なんか道具にすぎない。こういう言い方をしまして、安全保障について、時の政府がフリーハンドで判断できるように、憲法上の抑制をすべて外したいと主張する。そういう主張をされますと我々としては、憲法が大切であり、立憲主義をないがしろにすると、国家そのものが保たないですよと言わざるをえなくなります。
憲法に9条という形で、安全保障のあり方について大きく制約する規定が設けられているというのは、必ずしも世界で一般的なやり方ではないでしょう。しかし、それこそが、戦後の日本が一貫して追求してきたプロジェクトであり、この意義というものを改めて強調せざるを得ないということです。そういう観点で我々も安全保障論議にある程度踏み込まざるを得ない。北岡さんや安倍さんたちは、憲法を軽視して、政治を全面化させようとしている。しかし、戦後日本では、戦前から戦中の経験をふまえて、政治に何らかの歯止めを設けないと、政治そのものが破たんしかねないと考えてきた。政治が暴走する危険が大きい。そういう判断のもとに、まさに憲法9条を中心としてある種の歯止めの役割を期待してきたということですね。それはもう古いというのが北岡さんたちの主張なんですけれども、しかし古いというからには、政治が自らの中できちんとした歯止めなり、あるいは歯止めの前提としての根本的な議論というのができるということを示していただかないと、我々としては困るということになります。
その点で行きますと、まさに、イラク戦争というのが1つの大きなポイントになるわけでして、大量破壊兵器を、サダム・フセインが持っているというガセネタに基づいて日本も協力したわけです。これについてその後、アメリカでもかなり政治的な厳しい議論がありましたし、イギリスではブレア政権に対して極めて厳しい追及が行われた。一方日本では何も行われていません。そして、政治家や政治学者として、イラクへの介入を推進した人々が現在、集団的自衛権行使を進めようとしていることを見れば、何をかいわんやです。まずは、かつて安全保障について適切な判断ができなかったことの反省をした上でなければ、受け容れられません。
先ほど来指摘されているように、現在、推進派の方々は、「必要最小限」というレトリックを使ってなんとか突破しようとしているようですが、この必要最小限という言葉は、戦争のやり方に関する基準(「交戦法規」)であって、戦争や武力行使をやるかどうかの基準(「開戦法規」)ではない。ここのところを意図的にごまかして、いざ集団的自衛権を認めても、めったに手は振り上げませんよという印象操作をしている。
この「必要最小限」というのは歯止めにはなりません。結局、歯止めなどは一切なく、すべて政治家の判断にお任せということになってしまいます。政治家は民意に従うし、やがて選挙の洗礼を受けるからいいのだといった乱暴な議論を、北岡さんたちはしますが、泥沼のような戦争に入ってしまった後で、いくら選挙で与党を倒したって、取り返しはつきません。
そこまでフリーハンドを政治家に渡すだけの準備が我々にはない。それだけの説得力を日本政治は示してこなかった、まずはイラク戦争の検証を徹底的にやって頂いたあとに、この問題は提起して頂きたいというに私は考えております。以上です。
(質疑応答は省略します)