その月に書かれた新聞やテレビ、雑誌などからジャーナリスト柴田さんが
気になったいくつかの事柄を取り上げて、論評していきます。
アベノミクスの「成功」で高い支持率を誇っている安倍政権は、まるで福島原発事故などなかったかのように、原発推進政策に邁進し始めた。アベノミクスの3本の矢のひとつ、成長戦略の政府案に「原発の活用」を盛り込み、原発の再稼働に向けて「政府一丸となって最大限取り組む」とうたっているのだ。
さらに、6月14日に閣議決定した「エネルギー白書」にも、福島事故の扱いを格下げし、民主党政権時代のエネルギー政策をめぐる国民的議論で国民の多数が「原発ゼロ」を選択した結果なども記載しなかった。
かといって、世論のほうが変わったわけではない。成長戦略に原発の活用を盛り込んだことを受けて、朝日新聞がおこなった世論調査によると、賛成27%、反対59%と圧倒的に反対が多く、停止中の原発の運転再開についても賛成28%、反対58%だったのである。つまり、世論の反対を無視して、政府が原発推進に向けて走り出したのだ。
実は、原子力政策をめぐって世論と政策が乖離したのはこれが初めてではない。1980年代から90年代にかけて、米スリーマイル島事故やソ連のチェルノブイリ事故で世論は圧倒的に原発反対に変わったのに、日本の原子力政策は推進一本やりで、メディアも世論と政策の乖離をまったく批判しなかった。
そのメディアの「失敗」が福島事故につながったといわれているのに、またまた世論と政策の乖離が始まったことに対して、メディアが激しく批判しないのはなぜなのか。
安倍政権は、昨年末の総選挙で自民党が圧勝して生まれた政権である。原発が最大の争点といわれたこの総選挙で、自民党は「原発については3年後に検討する」と何も明らかにしない『争点隠し』をしたのに、圧勝するや、あたかも原発推進政策が支持されたかのようにふるまいだしているのだ。
自民党にすれば、世論と政策の乖離は80~90年代にもあったことであり、「世論なんて揺れ動くものだから気にすることはない」と高をくくっているのかもしれない。しかし、日本は民主国家のはずであり、主権者は国民なのである。選挙のときには公約からはずしておいて、政権をとったら世論と反対の方向に走り出すというのはフェアーではない。世論と政策の乖離というだけでなく、メディアはその点も厳しく追及するべきだろう。
原発輸出、日本は恥ずかしくないのか
国内の原発政策だけではない。安倍首相は就任以来、国際会議や外交交渉などで訪れた国々に対して、原発輸出のための猛烈な売込みをおこなっている。ベトナム、インドにはじまって、トルコなどの中近東諸国、さらにはポーランドなど東欧諸国にまで、まるで「原発セールスマン」のような活躍ぶりなのだ。
福島事故のような重大な事故を起こし、いまだに収束のメドさえたたず、十数万人の住民が避難先から戻れないというような状況を国内に抱えながら、外国に原発を売り込もうなんて、そもそも恥ずかしいことではないのか。日本は「恥を重視する文化だ」とよくいわれるが、あれだけの事故のあとで「日本の原子力技術の水準は高い」「事故によって安全技術はいっそう高まった」などとは「よく言うよ」とでも評するほかあるまい。
恥といえば、自民党の高市早苗政調会長が「原発事故による死者は出てない」と発言したことも、恥ずかしいというより情けない話だ。こんな認識しかもっていない人が自民党の政策を決める責任者なのだから驚く。しかも、のちに撤回して謝罪したとはいえ、最初は「言い方が悪かっただけだ」と釈明していたのである。
自民党がこれほど世論を甘く見ている理由は、先にも触れたように、総選挙で大勝したからだろう。政党にとって最大の関心事は選挙結果であり、言葉を変えて言えば「政党が怖いのは選挙結果だけだ」とでもいえようか。その意味では、当面の焦点は、来月の参院選である。
東京都議選、またも自民圧勝、民主惨敗
――そして維新の会も
その参院選の前哨戦として注目されていた23日の東京都議選は、またも「自民圧勝、民主惨敗」に終わった。自民全員当選の理由は、経済への期待だろうと各メディアが解説していたが、期待というより「ほかに選択肢がなかった」からというほうが正確なのではないか。
というのは、これだけ政治への関心が高まっているときに、史上二番目という投票率の低さは、政治不信の表れだろうし、政権への批判票が共産党に集中したことも恐らくそれだろう。
今回の選挙結果では、なによりも民主党への不信感の根深さが印象的だった。原発政策に関していえば、先の総選挙で公約に「脱原発」を掲げていたところは自民党より世論に近かったはずなのに、野田政権が原子力規制委員会の新しい規制基準の制定も待たずに「政治判断によって」大飯原発の再稼働に踏み切ったことで、国民の不信感がより深く浸透してしまったのだろう。
東京都議選の結果でもう一つ、注目すべきは、総選挙では躍進した日本維新の会が凋落したことだ。その理由はいうまでもなく、直前にあった維新の会代表の橋下徹・大阪市長による従軍慰安婦をめぐる暴言だろう。「従軍慰安婦が必要なことは誰だって分かる」といい、沖縄の米軍司令官に風俗業活用の進言までしたのだから、批判の声が渦巻いたのも当然だといえばいえる。
その発言そのものもひどいが、私のみるところ、それに対して橋下氏が「真意と正反対の報道をされた」とメディアのせいにした釈明が、東京都民の厳しい反発を招いたのではないか、という気がする。その釈明に対してメディアはそれぞれ反論していたが、その反論は極めて弱く、橋下氏は発言の撤回も謝罪もしていなかったからだ。
というのは、その少し前に、オリンピックの東京招致に絡んで猪瀬・東京都知事のイスラム社会を非難した発言が問題になったとき、猪瀬氏が「報道が真意を伝えなかった」と釈明したのに対し、ニューヨークタイムズ紙がただちに毅然として反論したため、猪瀬氏がすぐ撤回して謝罪したケースがあったからだ。
どうも日本のメディアは、権力者の「報道のせいだ」という釈明を厳しく追及せず、それが報道不信を助長しているにもかかわらず平然と見過ごしているように思えてならないのだが、今回のケースは東京都民がメディアに代わって鉄槌を下してくれたようなのだ。
こうした今回の都議選の結果をみて各政党が7月の参院選に向けてどんな選挙戦を展開するか、その結果、民意がどういう結果を出すか、注目して見守りたい。
「占領」がつづく沖縄に対する本土の「冷たい目」
東京都議会選挙のあった6月23日は、沖縄の「慰霊の日」である。住民を巻き込んだ沖縄戦が終結した日を記念して、全戦没者を悼む追悼式を毎年開いている。
住民を巻き込む地上戦の悲惨さは、空から爆弾が降ってくる本土の戦災とは比較にならない。その苦しみを経て米軍に占領され、本土が主権を回復しても沖縄だけが切り離されたまま、その後ようやく本土に復帰しても米軍基地はいっこうに減らない。まるで米軍の占領が未だに続いているような状況なのだ。
今年の慰霊の日の追悼式には、安倍首相をはじめ小野寺防衛相、岸田外相らが出席した。防衛相や外相が出席したのはこれが初めてだという。安倍首相は「沖縄が忍んだ犠牲、人々が流した血と涙が、自分たちを今日あらしめていることを胸に深く刻む」とあいさつした。
防衛相や外相の出席も、また安倍首相のあいさつの言葉もいいが、実際にやっていることはどうなのか。普天間基地の移転先を、全県民の願いをよそに辺野古にしようと画策しているのは誰なのか。
本土のメディアの沖縄を見る目も、冷たいものだ。かつて民主党政権が普天間基地の移転先を「最低でも県外に」と言い出したとき、本土のメディアはこぞって反対したが、そのときに比べれば、やや理解が広がったとはいえ、まだ「辺野古への移転」にこだわっているメディアも少なくない。
現状でも基地が多すぎるのに、そこへさらに新たな米軍基地を沖縄につくれなんて、よく言えたものだと思うのだが……。
かつて鳩山政権が「普天間基地県外移設」を主張したとき、
メディアは「日米関係を損なう」として一斉に批判しました。
せめていくつかのメディアが、そして世論が、
その後押しをしていれば、と思うことがあります。
今回の「原発輸出」、そして沖縄の基地の問題についても、
同じようなことが繰り返されることがないように、と願います。