その月に書かれた新聞やテレビ、雑誌などから、ジャーナリスト柴田さんが気になったいくつかの事柄を取り上げて、論評していきます。
新年早々、北朝鮮は「水爆実験に成功した」と発表した。水爆かどうかはともかく、4度目の核実験であることは間違いなく、いつものことながら人騒がせな国である。
2年半前、私は北朝鮮を取材に訪れ、その旅行記は当「メディア時評 第58回」に記した通りだが、「戦前の日本」とそっくりな国だなという強い印象を受けた。第一にすべてに軍事優先の軍事国家であること、第二に国民に知らせる情報はすべて「大本営発表」であること、第三に最高指導者に対する国民の忠誠心が宗教的というか、ますます「神がかってきている」こと、など。
ピョンヤン市内、どこを向いても金日成・金正日両首席の銅像、石像、肖像画、写真が目に入るようになっている。地下鉄の各車両にも写真が飾られているのだ。
戦前の日本と違うところといえば、ピョンヤン市内にはヨーロッパや中国からの観光客が詰めかけ、戦前の日本ほど国際的に孤立していないように、そのときは感じたことだ。しかし、今回の核実験で国際的ないっそうの孤立化は避けられない。国際的な孤立をものともせず、軍事国家への道を驀進しているところなど、戦前の日本にますますます似てきたといえようか。
ところで、対する安倍政権のほうはどうか。「戦後レジームからの脱却」「日本を取り戻そう」という標語が示しているように、「戦後体制はダメだ、戦前の日本に戻したい」というのが安倍首相の隠された本心のようである。
特定秘密保護法や安保法制の制定も、「戦前の日本に戻そう」としているという観点でみると分かりやすい。もっとズバリと言えば、安倍首相のやりたいことは、国家と国民の関係を、戦前は国家が上位で国民は国家に忠誠を尽くす存在だったのが、戦後の新憲法で逆転し、国民主権、基本的人権は国家といえども侵してはならないとなったのを、再び、国家を国民より上位に置きたい、と考えているように見える。
そのことは、自民党の改憲案をみると、よりはっきりする。基本的人権より「公の秩序」を上位に置き、現憲法の「公共の福祉」とは違って政府の意向でいかようにも解釈できる「公の秩序」で基本的人権を制限しようという狙いが明らかだ。現に「デモはテロと同じ」と発言した自民党議員がいたのだから……。
また、現憲法では天皇や政府関係者、公務員に求めている「憲法を守る義務」を、自民党案では国民にまで課しているところも、同じ狙いだろう。
そのほか、自民党改憲案には問題点は多々あるが、現憲法13条の「すべて国民は個人として尊重される」とあるのが、自民党案では「すべて国民は人として尊重される」となっているのは興味深い。意味はよく分からないが、国民を一人ひとりの個人としては尊重したくない、とでもいうのだろうか。
いずれにせよ、安倍政権の「現憲法嫌い」は相当なものだといえよう。
大音響スピーカーによる宣伝放送を再開!
北朝鮮に対する国連の制裁の強化がこれから各国の協議で始まるが、その前に、韓国側から休戦ラインを越えての大音響のスピーカーによる宣伝放送が再開された。これは、北朝鮮側が最も嫌っていたもので、韓国側も南北関係の融和を期待して中止していたものだ。
この宣伝放送の対象は休戦ラインを挟んで対峙する北朝鮮の兵士たちで、北朝鮮のメディアでは絶対に報じない内容を伝えて動揺を誘おうとする狙いである。北朝鮮が最も嫌っていたというのだから、それなりの効果もあったのだろう。
北朝鮮には食糧にも事欠く飢えた国民も少なくなく、「脱北者」もあとを絶たない。ということは、北朝鮮にも海外からの情報を秘かに入手している人も少なくないと思うのだが、短波放送を聴いたりしている住民がいると、住民同士の監視体制によって摘発されるのだろう。
今回、韓国側からの大音響スピーカーに対抗して北朝鮮からも韓国側に宣伝ビラが撒かれたと報じられている。「言論合戦」になったとは面白い。戦争ではなく、言論合戦なら大いにやってもらいたい。
言論合戦なら「言論の自由」がある韓国側が有利なことは言うまでもない。1989年にベルリンの壁が崩れ、やがてソ連が崩壊して東西対決が終わったが、その原因をつくったのは、西側の情報が東側にどんどん流れ込んだことだった。
北朝鮮は閉鎖社会だけに情報の流入による効果も大きいのだから、韓国は大音響スピーカーなどではなく北朝鮮向けのラジオ放送などをどんどんやればいいようにも思うのだが、刺激をしすぎてもいけないと控えているのだろう。
大音響スピーカーによる宣伝放送の内容について、「天気予報」というのが入っていたのには興味を惹かれた。北朝鮮の天気予報より韓国の天気予報のほうがよく当たるのかどうかよく知らないが、よく当たるなら効果も大きいに違いない。
そういえば、戦時中の日本では「天気予報の報道」は禁止されていたことを思い出した。敵側に利用されるから、というのがその理由だったようだが、天気予報まで禁止するような「狂気の時代」を二度と招いてはなるまい。
憲法を守らない安倍政権、いよいよ改憲に乗り出す?
ところで、年明けから国会が開かれた。憲法では国会議員の4分の1の議員の要求があれば臨時国会を開くことと定めており、野党議員らが昨秋から要求をしているのに、政府・与党は取り合わなかった。
国会が開会して、野党議員からその憲法違反を突かれても、のらりくらりとはぐらかすだけで、釈明も謝罪もしなかった。政府・与党には憲法を守ろうという気持ちもないのだろう。
その国会での施政方針演説で、安倍首相はかなりはっきりと改憲に向けて動き出す姿勢を明らかにした。この夏の参院選で改憲の発議に必要な3分の2を確保できたら、改憲に乗り出す気配である。
改憲への最初の道筋として、安倍首相や自民党は、大災害など非常事態にあたって国会審議を経ずに政府の独断で法律がつくれる「非常事態への対応条項」を憲法に新設しようと考えているようだ。外国の憲法にはあって、日本の憲法にはない条項だから、国民の理解も得やすいと考えたのだろう。
それに対して、民主党の岡田克也代表や社民党の福島瑞穂副代表が「まるでナチスがやったことと同じではないか」と厳しく追及した。その追及に対して、安倍首相は怒ってまともに答えようともしなかった。
ナチスは、ワイマール憲法はそのまま変えずに、「全権委任法」をつくって、政府が全権を握り、共産党の追放を皮切りにやりたいことを次々とやってのけて、最後はユダヤ人の大虐殺までやってしまったのである。
まさかナチスと同じようなことをやるとは思わないが、安保法制がそうだったように、憲法の縛りを弱めて、政府の権限で何でもできるようにしようと考えている安倍政権だけに、政府の「非常事態権限」を憲法に盛り込もうとする動きは、警戒する必要があろう。
甘利大臣の疑惑はどうなる
国会開会中に飛び込んできた大事件は、週刊文春が報じた甘利明・TPP担当大臣の巨額の金銭授受の疑惑である。「大臣室で50万円の現金を直接本人に2度渡した」とか、「公共事業に関連する口利きを依頼して1200万円を渡した証拠もそろっている」とか、実名を明らかにしての生々しい証言である。
国会で直ちに野党から質問を受けた甘利大臣は、答弁もしどろもどろ。「調べて1週間後には報告する」と約束したが、「なぜ調査に1週間もかかるのか」と野党の追及は厳しく、与党からも辞任を求める声が上がりはじめている。
いずれにせよ、甘利大臣といえば安倍政権を支える中枢中の中枢だから、疑惑で退任となれば、いわゆる「トカゲのしっぽ切り」ではすまなくなろう。
沖縄・宜野湾市長選は自・公推薦の現市長が勝つ
政府と県の対立がのっぴきならないところまで来ている沖縄県で、普天間基地の所在地である宜野湾市長選の投・開票が24日行われ、自・公推薦の現職の佐喜眞淳氏が勝利した。基地返還後の用地にディズニーリゾートの誘致をちらつかせるなど、なりふりかまわぬ政府・与党の応援が功を奏したようである。
返還される普天間基地の所在地の住民たちは、政府・与党に協力したほうが返還も早く実現すると考えたのかもしれないが、現状でも0.6%の国土に米軍基地の74%が集中している沖縄にこれ以上新しい基地を建設することなど、とても無理な話である。
ところで、「最低でも県外に」と主張していて、実現せずに辞任した鳩山由紀夫・元首相が、2月4日東京・内幸町のプレスセンターで会見し、「当時の事情をすべて明るみに出す」と宣言している。何が出てくるか分からないが、とにかく注目して待ちたい。
新聞労連ジャーナリズム大賞は毎日新聞の「憲法解釈の変更、公文書に残さず」など
最後にもう一つ、第20回新聞労連ジャーナリズム大賞の受賞作品が今月、発表になった。大賞には、毎日新聞の「憲法解釈の変更、公文書に残さず」など2件のスクープと、連載企画「日米安保の現場~軍用地料の『意図』」の計3件がまとめて受賞した。
スクープの一つは、「法律の番人」といわれる内閣法制局が戦後一貫して憲法違反だとしてきた「集団的自衛権の行使」を、安倍政権が勝手に解釈を変えて行使容認の閣議決定したことに対して、内閣法制局が公文書をひとつも残していないことをスクープしたもの。
もう一つのスクープは、特定秘密保護法の制定に会計検査院が「憲法上、問題がある」と指摘していた事実を掘り起こしたもの。また、連載企画は沖縄の軍用地料の問題を鋭くえぐり出したものだ。
いずれも、安倍政権のやろうとしていることはいかに問題が多いか、政府部内でも疑問視する声があることを、情報公開制度やあるいは取材によって浮かび上がらせた見事な報道だった。まさに、メディアがやるべきことをやったと賞讃されていい事例だといえよう。
また、優秀賞には北海道新聞の戦後70年をテーマにした連載企画「北海道と戦争」と、高知新聞の連載企画「秋(とき)のしずく~敗戦70年といま」が選ばれた。戦後70年企画は、各新聞社の競作のような形になったが、なかではこの2社の記事が最も完成度が高いと評価された。
さらに特別賞が、沖縄の2紙、琉球新報と沖縄タイムスの「報道圧力」をはねかえした一連の報道と対応に与えられた。自民党の若手議員の勉強会で「沖縄の2紙はつぶさねば」と名指しされた両紙は、直ちに編集局長の合同声明を出すなど迅速に対応し、暴言・妄言には歴史的な事実を突きつけて厳しく反撃したことが評価されたものだ。
優れた記者個人に与えられる「疋田桂一郎賞」は、「『隔離の記憶』などハンセン病をめぐる一連の報道」による朝日新聞・高木智子編集委員と、「『辺野古バブル』に揺れる島~奄美大島の砕石現場から~」による沖縄タイムス・篠原知恵記者が選ばれた。
全国紙の論調が二極分化し、安倍政権の与党新聞のような新聞も出てきて、新聞の信頼感が揺らいでいるとよく言われるが、新聞労連ジャーナリズム大賞を見ていると、頑張っている新聞も少なくないことがよく分かる。とくに、ふだん目にしない地方紙の活躍ぶりがクローズアップされ、日本の新聞も捨てたものではないとあらためて思った。
柴田さんが「北朝鮮は戦前の日本にそっくりだった」と書いたのは2年半前ですが、最近のメディアへの圧力や、「憲法を守ろうという集いを開こうとしたら自治体の後援を取り消された」なんて話を見聞きしていると、その「戦前の日本」への回帰が、すでに着々と進みつつあるのかも、と怖くなります。自民党が目指す「非常事態への対応条項(=緊急事態条項)」創設の危険性については、ぜひこちらのインタビューを。
安倍政権が目指すのは、北朝鮮ではなく中国や現在のタイではないかと思います。
中国は総選挙がないだけで複数政党制です。タイの王はお飾り的存在で実権は首相なり最高評議会議長なりに握られています。現在の天皇と同じ。
時代の危機が叫ばれるほど、露呈してきた日本人気質。 私がアベ暴走より恐れているものだ。「思考停止状態」に陥いり易いからだ。 想像力を軽視する社会風土。 分からないものを分からないと言わない「虚栄心・見栄」。積極的に前へ踏み出し、これはおかしいと言おうとしない気質。そして、「皆さんがそうしています」に滅法弱い国民性。誰にでもあるような話だ。だから、「学び」「考える」しかない。
『すべてに軍事優先』といいますが、核はおろか、通常兵力も減らして経済建設に注力したいと願ってい、そのため一貫して停戦協定から平和協定への転換を呼びかけてきたのが朝鮮であり、それを無視するだけでなく、軍事的圧力と経済制裁で屈服を迫ってきたのがアメリカです。日韓も追随してきました。 『戦前の日本と違うところ』。観光客云々ではなく、最大の違いは一度も他国を侵略したことなど無いことです。…2年半前の記事も読みました。『やはり戦前の日本の同じだった』という題だったと記憶します。仮にも、実際に行って見てきたことですのでデマだなどとは申しませんが、前回の題にあった『やはり』とは、あなたが『そうあって欲しい、そうに決まってる(そうでなきゃ困る?)』という先入観によるものとしか思えません。アベ政治に反対する、批判したいのであれば、ストレートにそこに集中すればいいんじゃないですか?。わざわざ「北朝鮮」を持ち出し、対比する意図はなんですか?。
島さんに全く同感です。私も日本人気質が一番の懸念です。
さらに恐ろしいのは、今の学校教育がその気質を助長するようなものであることです。自分の意見を言えたり、理性的に議論できたりするように子供を育てていません。部活動でも自主性など決して育たず、伸びるのは与えられた辛いことを耐え通す力と形式的な団結力のみです。兵隊にするは持って来いの能力です。
「君子は和して同ぜず、小人は同して和せず」と言いますが、日本人気質はまさにこの小人であり、日本の教育は小人教育であると痛感します。私たち大人が奮起して変えて行かなければ日本の未来は暗く、また世界に対しても大迷惑を起こしてしまうでしょう。
「まさかナチスと同じようなことをやるとは思わないが」、とお書きです。一兵卒として中国で戦争を経験しシベリアに抑留されたことのある方から、「みんな、まさか、まさか、なんだよ。気がついたときにはもう引き返せないところに居る」とうかがったことがあります。この先、ほんとうに、「まさかナチスと同じようなことをやるとは思わない」と言い切れるのかどうか。。。。。。彼らが今していることは、そのうちすべて行き詰るでしょうし、他人の痛みを感じる能力はない人たちだから、そのとき彼らがどうかわそうとするか、と考えてしまうのですが。
たった70年余り前に日本がやったことを思えば、「まさかナチスと同じようなことをやるとは思わない」と言い切れませんね。ドイツと違うところは、本気で反省していないことですから、むしろやる可能性は十分あります。