柴田鉄治のメディア時評


その月に書かれた新聞やテレビ、雑誌などから、ジャーナリスト柴田さんが気になったいくつかの事柄を取り上げて、論評していきます。

shibata

 10月はノーベル賞の季節である。今年は、真っ先に物理学賞に3人の日本人の名前がならんだ。名城大学終身教授の赤崎勇氏、名古屋大学教授の天野浩氏、米カリフォルニア大学教授の中村修二氏で、理由は青色発光ダイオード(LED)の開発である。
 ノーベル物理学賞の授賞理由というのは、聞いてもすぐには分からないのが普通だが、今年はとても分かりやすかった。「20世紀を照らしたのは白熱灯だが、21世紀を明るく照らすのはLEDだ」というのである。少ない電力で効率の良い省エネのLEDは、まさに21世紀のホープなのだから…。
 近年、ノーベル賞は、業績となる発見・発明がなされてからかなり年月が経ってからの授賞が少なくない。業績の評価が確定してからにしたいという考えからだろうが、一方、ノーベル賞は生きている人だけに受賞資格があるので、「ノーベル賞をもらうためには長生きしなければ」といった冗談が飛び交ったりしているのだ。
 その点、iPS細胞で2012年のノーベル医学・生理学賞を受賞した山中伸弥氏は、論文の発表から7年後という極めて早い授賞であり、今度のLEDは、開発から世界中への普及までざっと20年余という、ちょうどよい年月だったのかもしれない。
 ノーベル賞の受賞者を出した大学はどこも大喜びだが、今回は名城大学、名古屋大学、徳島大学が喜びに沸いた。とくに名古屋大学は、ノーベル賞受賞者の数では東大を抜いたというのだから喜びもひとしおのようだ。

社員の発明は、会社のものか?

 今回の授賞者の話題は、なんといっても中村修二氏だ。徳島大学を出て地元の日亜化学工業に就職し、そこでLEDの開発に成功、会社は大儲けしたのに、中村修二氏の発明に対する対価はわずか2万円だったという。
 怒った中村氏は2001年に会社を提訴、徳島地裁は「会社は1200億円ほど儲けたのだから中村氏に200億円支払え」という驚くべき一審判決を下し、当時、社会の話題をさらった。控訴審で和解し、会社は中村氏に8億4000万円払ったのである。
 日本は、会社員が発明をした場合、特許権は発明した会社員個人のものだという考え方を、1921年(大正10年)以来とってきた。米国やドイツもそうだが、英国やフランスは会社のものという考え方をとっている。
 折から日本政府も「会社のもの」にするよう法改正を準備していたところへ、このノーベル物理学賞の発表が重なったのだ。さっそく朝日新聞が10月16日のオピニオン欄を全面使って、「権利は当然、発明者個人のものだ」と主張する弁護士と、「会社のものに改め、個人には報奨制度を定めればよい」と主張する学者の、真っ向から対立する意見を載せて問題を提起した。
 さらに追い打ちをかけるように、朝日新聞は、帰国した中村修二氏の単独インタビューの形で、特許は会社のものという考え方に「猛反対する」という中村氏の主張を、16日の一面トップで報じた。
 特許法の改正については、まだ国会の審議も始まっておらず、各メディアの姿勢も定まっていないが、ノーベル物理学賞がらみの各紙の報道をみていると、朝日新聞は「従来通り会社員個人のものでいいのではないか」と主張しているようであり、それに対して読売新聞の19日の記事の見出しは「社員の発明『特許は会社』競争力強化」と、「会社のものに改めたほうがいいのではないか」というニュアンスがにじみ出ている感じである。
 ここでも安保問題や原発問題と同じような新聞論調の二極分化が起こるのか、今後の動きを注目して見守りたい。問題は、どちらにした方が日本からより多くの発明が生まれていくか、ということだろう。

憲法9条の「平和賞見送り」に安倍首相はホッとした?

 ノーベル賞といえば、文学賞に村上春樹氏の名が挙がっていたが、残念ながら今年も見送りになった。もっと残念だったのは、平和賞の事前予想で最有力候補と報じられていた「憲法9条」が見送りになったことだ。
 この決定に最もホッとしたのは安倍首相だったのではなかろうか。安倍首相は憲法9条改正を「悲願」としており、第1次安倍政権以来、国民投票法案の制定など、着々と準備を進めていた。
 しかし、改憲にはさまざまなハードルがあり、簡単にはいかないことを知った安倍首相は、改憲せず、憲法解釈を変えて集団的自衛権の行使を認める閣議決定をするという策に出た。その矢先に憲法9条が平和賞に選ばれたりしたら相当困ったに違いない。
 そのことを朝日新聞の政治漫画で、漫画家のやくみつる氏が、痛烈に、かつ、ユーモラスに描いている。安倍首相が平和賞を受賞したパキスタンの少女マララさんに「感謝状」を贈っている図に、「あなたのおかげで助かった」という首相のつぶやきが添えられている漫画である。
 ホッとした首相とは逆に、全国に何千とある「9条を守る会」の人たちはガッカリした。しかし、よく考えてみると、憲法9条が平和賞の候補として「もしや」と思わせてくれるだけでも大変なことで、憲法9条を守ろうとしている人たちを勇気づけてくれることだ。
 ノーベル平和賞といえば、元首相の佐藤栄作氏が非核三原則(核兵器をつくらず、持たず、持ち込ませず)を確立した人として受賞しているが、その後、「有事の際には核兵器の持ち込みを認める」という日米の密約を結んでいた当人であることが明るみに出て、ノーベル賞の選考委員会をして「最大の失敗だった」と嘆かせたことがある。
 憲法9条を平和賞に選べば、選考委員会にとっても絶好の罪滅ぼしになると私は思うのだが、どうだろうか。

2020年の東京オリンピックをどう迎えるか

 10月は「体育の日」もあって各地で運動会などが開かれるシーズンでもある。体育の日は、いうまでもなく1964年10月10日の東京オリンピックの開会式にちなんで設けられたものだ。
 あれからちょうど50年。各メディアは一斉に50年前を振り返る報道を繰り広げたが、私も50年前のあの日の抜けるような青空と、その青空をバックに大空に描かれた五輪のマークをくっきりと覚えている。
 テレビ番組の中で、開会式の場面とその21年前に国立競技場の前身である神宮外苑競技場で行われた雨中の学徒出陣の行進をつづけて映し出した場面を見ながら、平和の大事さをあらためて思った。
 64年の東京オリンピックといえば、アベベの強さ、チャスラフスカの美しさなど思い出すことはたくさんあるが、私が最も感動したのは、閉会式だった。各国の選手がごちゃごちゃに入り混じって、他国の選手と手をつなぎ合ったり、なかには肩車をした姿などもあったりして、和気あいあい、これぞ国境を超えたオリンピック精神の象徴だと思ったのである。
 この閉会式の演出を考え出したのは、朝日新聞社会部の私の先輩、矢田喜美雄記者だったという話を聞いたことがある。ほかにも同じような提案をした人がいたかもしれないが、オリンピック組織委員会に「私が提案した」と本人が言っていたことだから間違いはあるまい。
 矢田喜美雄さんといえば、1936年のベルリンオリンピックの走り高跳びの選手で5位に入賞した実績もあり、また、1957~58年の国際地球観測年の南極観測に、日本も参加しようと言いだして、実現させた人でもある。
 その南極はいま、南極条約によってどこの国の領土でもない、地球上で唯一の「国境のない大陸」であり、オリンピック精神とともに「地球はひとつ、人類は仲良く」という象徴のようなところである。
 2020年の東京オリンピックの準備が進められているが、競技場などの整備はともかく、開会式や閉会式の演出にアッと驚くような趣向を考えてもらいたいものだ。
 先日の新聞の投書欄に「2020年の東京オリンピックの開会式は、国別ではなく、競技別の入場行進にしてはどうか」という提案が載っていた。「陸上競技」「水泳」「バレーボル」「柔道」といった競技別に行進すれば、各国の選手が入り混じり、ライバル同士が肩を並べて入場するという趣向は、素晴らしいと私も思った。
 各国が「国益」をむき出しにして紛争が絶えない世界の状況だけに、せめてオリンピックくらい、「国家」の存在を小さくする方向に、日本が主導権を発揮する絶好の機会だと思うからだ。

 

  

※コメントは承認制です。
第71回 ノーベル物理学賞に3人、憲法9条の平和賞は残念!」 に5件のコメント

  1. magazine9 より:

    柴田さんがTVの映像で見られたように、ゲートルを巻いた若い人たちが雨のなかを行進してから、たった21年後に同じ会場で東京オリンピックというまったく違う行進が行なわれたわけですが、その逆のことが起こりかねないのでは、という状況に気が沈む思いです。「憲法9条を保持する日本国民」へのノーベル平和賞は実現しませんでしたが、国際社会の中での憲法9条の価値をあらためて見直すきっかけにはなったのはないでしょうか。

  2. ピースメーカー より:

    >憲法9条を平和賞に選べば、選考委員会にとっても絶好の罪滅ぼしになると私は思うのだが、
    >どうだろうか。

    罪滅ぼしどころか、罪重ねであり、「憲法9条がノーベル平和賞をとって以来、世の中全てのことが全く信じられなくなった」という人間が続出するのではないでしょうか?
    日米安保の下で世界の平和の構築に何も貢献せずに平和主義を自負する日本人には、「イグノーベル賞」がお似合いでしょう。
    マララさんはノーベル賞選考委員会に評価されるだけの仕事をしてきたから、ノーベル賞を受賞したのです。
    罪滅ぼし云々で憲法9条を平和賞に選ぶなんて馬鹿げた話ですし、いったい何様のつもりでそんなことを言っているんだという話でしょう。
    例えば、日本人は伊勢崎賢治さんが指摘しているジャパンCOINを編み出し、実際に中東の安定に貢献する位のことをしなれば、憲法9条の受賞など恥ずかしくて仕方ありません。
    http://synodos.jp/newbook/11306/2

  3. 島 憲治 より:

    >憲法9条を平和賞に選べば、選考委員会にとっても絶好の罪滅ぼしになると私は思うのだが、どうだろうか。

    その通りだ。とても残念だ。戦死者330万人、それを教訓に国民の代表者である国会が可決成立した日本国憲法第9条。いろいろな政治圧力に耐えこれを維持する「国民の闘争」は世界に誇れる。その結果、武器を持って人を殺すことはなかった。これは「人類」に誇れる。人間が人間らしく生きたい。人権尊重は国境の壁は不要。人権を破壊する最たるものは戦争だ。              「憲法9条にノーベル平和賞」運動の実行委員会に申し上げたい。受賞するまで「推薦願い」を出し、その経緯を世界に発信して欲しい。世界の民は日本人の平和に対する熱い戦いに賞賛を送ることであろう。そして、名誉ある地位を占めたいものだ。勿論、全ての国民に当てはまることではない。

  4. なると より:

    仮に9条がノーベル平和賞を受賞したところで、それが改憲や安倍自民のカウンターになるといえば、それは無理があるとしか思えません。
    ノーベル賞って過去の功績に対する表彰なわけで、仮に受賞したところで「以前とは状況が違う」と一言言えばいいんですから改憲への障害になんかなりゃしませんよ。

    「受賞したら安部首相が困る」みたいな発言を所々で目にするんですが、そこもわからない。この憲法のもとで長いこと与党をやってきたのは自民党で、彼はまぎれもなくそのトップであり、日本国憲法で定められた手続きに基づいて首相に選ばれた人なわけでしょう (それとも安倍自民党に投票した人は受賞の対象外なんでしょうか? とくに国民投票法ができたあたりはどうなるんでしょう?)。

    純粋に受賞したかったのに残念、って話なら理解できるんですけども、残念がり方が的はずれな気がします。

  5. たかたつ より:

    ピースメーカーさんは、「憲法9条がノーベル賞をとる」、とおっしゃっていますので、受賞しても何ら問題はないんじゃないですか、憲法前文を含めて9条の条文は採択されて以来一言一句かわっていないのですから。
    平和賞を受賞して恥ずかしいのは、憲法前文や9条の改訂の正式な手続きも行わないで、自衛隊という軍隊を創ったり、今度は「集団自衛権行使」を画策している「日本政府」ではありませんか。
    本当は「日本国憲法前文と憲法9条」は、世界平和のために規範となるべきものが、絶滅してしまった、として「復活を望む貴重な憲法」として指定して貰えば良かったのではありませんでしょうか。
    若干譲歩すれば、まだ正式には改定されておりませんので、せめて「絶滅危惧種」としてでも指定してもらえれば良かったと思います。

←「マガジン9」トップページへ   このページのアタマへ↑

マガジン9

柴田鉄治

しばた てつじ: 1935年生まれ。東京大学理学部卒業後、59年に朝日新聞に入社し、東京本社社会部長、科学部長、論説委員を経て現在は科学ジャーナリスト。大学では地球物理を専攻し、南極観測にもたびたび同行して、「国境のない、武器のない、パスポートの要らない南極」を理想と掲げ、「南極と平和」をテーマにした講演活動も行っている。著書に『科学事件』(岩波新書)、『新聞記者という仕事』、『世界中を「南極」にしよう!』(集英社新書)ほか多数。

最新10title : 柴田鉄治のメディア時評

Featuring Top 10/71 of 柴田鉄治のメディア時評

マガ9のコンテンツ

カテゴリー