(2016年東宝/ 庵野秀明総監督・樋口真嗣監督)
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大田区蒲田、京浜急行北品川駅、川崎市扇町などスクリーンに示される地名から、首都圏に住んでいる人間であれば、東京湾アクアラインから上陸してくるゴジラの動きを具体的にイメージできるだろう。
リアリティが命の映画である。とりわけ本作のようなフィクションの場合、ディテールを押さえておかなければ、ただの絵空事に終わってしまう。だからこそ、政権の中枢にいる登場人物たちの役職や会議の名称はそのつど詳細に記される。
ストーリーはシンプルだ。海底に不法投棄された核廃棄物を摂取することで生まれた巨大不明生物「ゴジラ」が現代の東京に現れる。一時は海に戻るも、再び登場したときはさらに進化を遂げており、自衛隊、米軍の攻撃にも倒れない。そのゴジラに日本政府はどう対処するか。それが物語の柱だ。
首相官邸の描き方に関しては、いろいろ意見があるだろう。突っ込みどころを探したらきりがないかもしれない。霞が関の動きをより詳細に表現しようとすれば、密室劇としてもう1本の映画がつくれるくらいのボリュームになるところ、国家の危機管理、安全保障、対米外交といった要素を、物語が間延びしないぎりぎりまで詰め込んだ作り手の手腕は高い。
ゴジラは人類の敵ではない。人間の科学技術が生んだものだ。ならば、それとの共存の道を探るしかない。そうした認識は、広島・長崎への原爆投下を経験した日本だからこそ可能なのかもしれない。ゴジラを駆除するために核兵器の使用を迫る諸外国との決定的な違いはそこにある。
リスクを根絶することは不可能だとの立場に立ち、それとどう付き合っていくかと考える。そんな時代に私たちは生きているのだというメッセージを、私は本作から受け取った。
ゴジラを何かのメタファーと解釈すると、受け手の想像力を限定しかねないので慎みたい。しかし、エンディングロールで流れる伊福部昭のあのテーマ曲が響くなか、ビキニ環礁での水爆実験による第5福竜丸被ばく事件を下敷きに生まれた『ゴジラ』(1954年公開)が、60年以上の時を経て、福島第1原発事故のみならず、次々と稼働される各地の原発の象徴である『シン・ゴジラ』として再来したと思わざるをえなかった。
キャストは実に多彩。名だたる俳優がチョイ役で顔を出し、ドキュメンタリー映画の原一男監督まで出演しているのを見て、ゴジラに取り組む庵野総監督への映画人たちのリスペクトを感じた。
(芳地隆之)