(2015年日本/圡方宏史監督)
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なんともインパクトあるタイトルの映画が、新年早々から東京などで公開されている。『ヤクザと憲法』。『死刑弁護人』『約束』など、司法や人権をめぐるドキュメンタリーを多数世に送り出している東海テレビが、昨年放映の番組をもとに再構成した作品だ。
タイトルのとおり、今回の取材対象は「ヤクザ」。カメラは、大阪・堺市にある指定暴力団の事務所に正面から入り込み、「ヤクザ」と呼ばれる人々の毎日の生活を丹念に追っていく。「取材謝礼金は支払わない」「収録テープ等を事前に見せない」「モザイクは原則かけない」の三つが取材の際の取り決めだったそうだ。
スクリーンに映し出される、いかにも威圧的な雰囲気を漂わせる組員たちの姿。事務所を案内してもらいながら「拳銃はないんですか」と問いかける監督を、案内役の若者は「テレビの見過ぎじゃないですか」とあしらう。「ここは撮るな」とカメラが追い出された部屋の中からは、ミスをした若手組員に浴びせられる罵声(と暴力)がドア越しに漏れ聞こえてくる…。
中には、夜な夜なあちこちで「何か」を売り歩く組員に、監督が「それは何ですか」と食い下がる、ちょっとドキっとさせられるような場面も。なかなか知ることのない「ヤクザの日常」を描くことを可能にした粘り強さに、まず敬意を表したい。
一方、タイトルに掲げられたもう一つの言葉、「憲法」の意味がおぼろげに見えてくるのは、作品の後半だ。
暴力団対策法の施行から20年、ヤクザをめぐる法的な包囲網は、年々厳しさを増している。構成員そのものへの取り締まりはもちろん、2011年までに全都道府県で暴力団排除条例が制定されてからは、ヤクザと取引などをした企業や個人にも厳しいペナルティが課されるようになった。その結果、ヤクザの構成員は銀行口座を開くことさえ難しいのが現状だという。
ヤクザなんていないほうがいいんだから当たり前、いいことだと思う人も多いかもしれない。けれど、「子どもの給食費を銀行引き落としにできない。仕方がないから現金で持って行かせると、ヤクザの子どもだとばれていじめに遭う」という、父親の表情をしたヤクザの嘆きを聞いたらどうだろう。さらには、「ヤクザの子どもだ」という理由で、幼稚園や保育園への入園も断られてしまうとしたら(オウム真理教の教祖・麻原彰晃の子どもたちが学校から入学拒否されたのを思い出すエピソードだ)。長年にわたってヤクザの弁護を続けてきた弁護士が、通常なら罰金程度で済むはずだという小さな事件で起訴・有罪判決を受け、激しいバッシングにさらされるくだりに至っては、誰が「弱者」で誰が「強者」なのか、よくわからなくなってくる。
もちろん、そういう状況が嫌ならヤクザになんかならなければいい、のも正論。けれど、本作の端々からは、そこに集まってくる人々の中に、いろんな形で社会から「はみ出した」存在(コミュニケーションが苦手だったり、失敗したときにヤクザ以外の誰も助けてくれないという体験をしていたり)が少なくないこともうかがい知れる。
それに代わる受け皿をつくることもなく、ただ「排除する」だけで本当にいいのか。ましてや、ヤクザの家族や知り合いにまでその影響が及ぶことは、本当に社会にとって有益なのか。誰にでも(たとえ罪を犯した人であっても)等しく人権を認めるのが、日本国憲法の精神だったはず…。
「わしら、人権ないんとちゃう?」
作中、組長が発する一言に、思わず考え込んでしまった。
(西村リユ)