(田村理著/彩流社)
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2013年9月に開かれたオリンピック招致プレゼンテーションにおいて、安倍首相が「福島原子力発電所はアンダーコントロールで、汚染水も完全にブロックされている」と胸を張った映像を見たとき、十分証明されていないことを平気で断言してしまう、その姿勢に呆然とした。国内のメディア向けならばまだしも、各国のジャーナリストも集う場所での発言である。国際社会に対して嘘をつくことへの危機意識はなかったのだろうか――本書に従えば、首相は、しばしば国内政治において使う「私が言うのだから信じてほしい」式の手法が国際社会でも通用すると思ったのだろう。先月、東京電力が、福島原発の汚染水が海に流れ出ている可能性を2014年4月から知りながら隠ぺいしてきたことが発覚した。
当サイトの「この人に聞きたい」にも登場いただいた著者は本書の冒頭で、昨今の政権与党の姿勢を「説明なしに『信じる政治』」と名づけ、その弊害を指摘している。特定秘密保護法、一票の格差、非嫡出子の相続分差別、共通番号制度など、本書の取り上げるテーマは多岐にわたるが、それらの問題の根底には「信じる政治」があると思えてならない。
「第三章 身近にもある『信じる政治』の弊害」では、2つのいじめ事件(滋賀県大津市でのいじめ自殺と著者の中学生の娘がいじめの被害にあったケース)の経緯を同時並行で綴っている。両者の共通点は、教育の現場を支配しているのは、責任の所在を明確にすることなく、「いじめはなかったと信じる」あるいは「信じていた」という姿勢を通すことで問題を収束させようとする空気であった。
娘のいじめの問題を打開すべく著者が行使するのが、憲法が定める表現の自由、報道の自由の前提となる知る権利である。最も有効だったのはマスメディアによる学校側、教育委員会側への批判であった。
これまでもドラマやアニメ、スポーツの話などに織り込みながら憲法を語ってきた著者らしい本書のタイトル。憲法を生かすも殺すも、私たち次第である。
(芳地隆之)
「私が言うのだから信じてほしい」
これは「人の支配」の宣言であって「法の支配」とは言わない。「法の支配」を支えるのは民主主義と権力分立である。首相官邸に「憲法入門書」を贈呈したいが、「燃えるゴミ」に出されるのが席の山か。安倍政権を支える「憲法学者」の顔が見えないのが不気味だ。