(ヤン・カルスキ/白水社)
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以前、本コラムで紹介した『ユダヤ人大虐殺の証人ヤン・カルスキ』は、著者の体験を事実と創作を交えながら描いた異色の作品だった。本書は彼が自らの体験を詳細に綴った記録である。
ポーランドの反ナチス・レジスタンスとして活動したヤン・カルスキの回想は1939年8月下旬のワルシャワから始まる。当時、ポーランド国軍の少尉であった彼は秘密の動員令を受けた。ワルシャワ中の男性がかき集められたのではないかと思うほど、大勢の兵士が召集されたのは、西の隣国、ヒトラードイツの脅威が迫っていたからである。9月1日、ドイツ軍は電撃戦でポーランドに侵攻、東からはソ連軍が国境を越えてきた。ヒトラーとスターリンの間ではすでにポーランドを分割占領する秘密の協定が結ばれていたのである。ポーランドという国は世界地図から消えた。
ソ連赤軍の捕虜となったカルスキは移送の途中で脱走に成功し、ポーランドの地下組織に合流。レジスタンス活動を始めるも、密使として在仏亡命ポーランド共和国政府の下へ向かう途中、ゲシュタポ(秘密国家警察)に囚われ拷問を受ける。組織の情報を一言も漏らすまいと彼は自らの手首に剃刀を立てるが、すんでの所で病院に搬送され、一命をとりとめる。そして体力が回復すると、病院を抜け出すことに成功し、亡命ポーランド政府の首相、シコルスキ将軍に会うべくロンドンへ向かうのだった。
カルスキは出発前に、ワルシャワ東部のベルジェツという町の近くにあるユダヤ人絶滅収容所に、ウクライナ人看守を装って潜入する。そこで彼は次のような光景を目にする。
「一般軍規によれば、一輛の貨物車輛には八頭の馬もしくは四十名の人しか乗せてはならないとされている。(中略)ところがドイツ兵は、百二十名から百三十名ものユダヤ人を詰め込むのだった。銃口を突きつけ、銃床で殴りけちらしながら、すでに満杯以上の貨車に追いこむ。恐怖のあまり、人々は哀れな同胞の肩へ、頭へよじ上がろうとする。下になりそうな者は、殴られまいと顔を覆いながらも闖入者を追い出そうとする。骨のぶつかる音、悲鳴。もうこの世のものではなかった」
針一本さえ入らなくなるほどになると、貨車の鉄のバールを下ろされるのだが、すでにカルスキは貨車の床が白い粉で厚く覆われているのを目撃していた。水を加えると化学反応で泡立ち、高熱を発する生石灰である。
「汗で濡れた肌は、生石灰との接触によってたちまち水分をとられ、焼かれてしまう。貨車のなかに詰め込まれた人たちは、ゆっくり骨まで焼かれるのだ」
カルスキはワルシャワゲットーで、まるで射的に興じるかのように、ユダヤ人に向けて引き金を引くドイツの少年兵も目にしている。
シコルスキ将軍と会ったカルスキがそれら事実を報告すると、アメリカに向かい、ルーズベルト大統領と会見せよと命じられる。大西洋の向こう側の、世界で最も忙しいといわれた同大統領はカルスキの報告に真摯に耳を傾け、自分が見たことを世界に向けて証言せよと言った。
そこで本書は終わる。カルスキが見たことを世界の人々が知るのは、戦争が終わったずっと後のことであった。アメリカで教授職に就いたカルスキは長く沈黙を守ることになる。
世界各地で紛争が絶えない現在、私は本書をホロコーストの記録として重く受け止めながらも、当時の歴史に限られた事実としてのみ読むことはできなかった。
本書を読み終えるのとほぼ同時に、「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目になる」との言葉を残したリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー元西ドイツ大統領死去の報が届いた。
(芳地隆之)