(保坂展人/ほんの木)
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著者は世田谷区の現役区長の保坂展人さんだ。かつてジャーナリストとして多くの著書を発表、特に子どもたちや若者に寄り添う教育ジャーナリストとしての活動は有名だった。やがて衆議院議員に転じ「国会の質問王」との異名をとるほどの活躍を見せた政治家でもあったことは、多くの人の知るところだろう。
その保坂氏が世田谷区長に当選してから約3年半。地方自治体の首長としての彼の仕事ぶりは、これまでの地方首長の在り方のイメージを一新させたといっていい。
確かに、先進的な政策を行ってきた地方首長はこれまでも存在した。けれど、それは(言い方はまずいかもしれないが)小さな自治体だからこそ可能な政策だったようにも思える。しかし、東京都世田谷区というのはスケールが違う。何しろ88万人という、小さな県と匹敵するほどの人口を抱えた巨大自治体だ。そこでの政策実現は、まさに初めてと言っていいものだろう。
だからといって、本書が堅苦しい政策論や自慢話を寄せ集めたような本だというわけではない。区長として、進むべき道に迷うひとりの政治家(人間)としての肉声が溢れているから、共感しながら読み進められる。
前著『闘う区長』(集英社新書)では、区長としての1年半の苦闘の様子がつづられた。それはまさに、区政の転換を図るための「闘う区長」の姿だった。しかし本書では「闘いから実現へ」の道筋が示される。緩やかだが、確実な歩みが見てとれる。
区長といえば、なんとなく地方自治体のボス、地元の親方衆に担がれた神輿というイメージが強い。だが著者は、その出自からして、そんなパターンからはほど遠い。
〈孤独な10代と生きづらさを抱える若者たち〉と題された第1章を読めば、著者がなぜ政治を志したかが見えてくる。たった8年間しか、著者は学校に通っていない。若い感性の目覚めが少しばかり早くやって来た、という早熟な少年だったのだ。その早熟さから、確固とした人間形成に至るまでの長い道のりを足早に記述したのがこの第1章。
学校をドロップアウトし、大人たちに刃向い、放浪を重ね、やがてフリー・ジャーナリストとして何とか暮らしを立てるようになる。まさに、時代が著者とシンクロしていた、といえるのかもしれない。
それだけに、時代に押し潰されそうになり、反抗する牙さえ抜かれかけているような現代の若者たちへの共感は深い。著者の弱者へ向ける視線は、だからハンパじゃない。それが「自分いじめ」から抜け出そう、というメッセージにつながる。
衆議院議員を経て、地方からの発信の重大さに気づいた著者は、世田谷区長という立場を得て、まさに「水を得た魚」になる。保育園・待機児童の問題、少子化への対策としての「世田谷モデル」の提案。それが行政組織内の「子ども部」を「子ども・若者部」へ転換させることにつながる。
教育ジャーナリストとしての長い活動は、世田谷でも活かされる。繰り返し行う中高校生との意見交換会から、公園の充実、廃校の利用計画、若者の活動応援スペース作り、祭りの企画など、新しい試みがどんどん生み出されていく。これも「昔取った杵柄」というヤツだろう。
むろん、超高齢化社会に対応する施策も練られ、空き家利用という「奥の手」が輝いてくる。さらには、政治家・保坂展人として欠かすことのできない「脱原発」への道筋、それが第5章「地域から始めるエネルギー転換」、第6章「民主主義の熟成が時代の扉を開く」として描かれるのだ。
石破茂氏が地方創生大臣とやらに就任した。多分、また多くの金が公共事業などへばら撒かれることになるだろう。そんな政治が、いかに地方を潰してきたか。かつて「ふるさと創生事業」などと称して、すべての地方自治体に1億円をばら撒いたのが自民党政権だった。その結果はどうだったか。無惨な箱モノの夢の跡…。その愚をまた繰り返すのだろうか。
その対極にあるのが、本書に描かれた保坂展人の「コミュニティデザイン」なのである。
ほんとうの地方自治とは何か、つまり、ほんとうの民主主義とは何か。それを具現化してみせてくれるのが本書だ。これは、地方主権、民主主義の実践バイブルなのである。
多分、本書の読者たちは「ああ、私たちのところにも、こんな首長さんがいてくれたらなあ…」と思うだろう。そして、選挙というものの大事さを、身に沁みて感じることだろう。
(鈴木耕)