今年5月、県内うるま市で元海兵隊員の男性による女性暴行殺害事件が起こった沖縄。6月23日の「慰霊の日」には、翁長雄志知事が戦没者追悼式典での平和宣言の中でこの事件に触れ、「日米地位協定の抜本的な見直し」を求めると発言しました。これを受け、日米両政府が一部改定で合意したと伝えられましたが、その実効性には疑問を呈する声も。
そもそも、日米地位協定の問題点はどこにあるのか。その「抜本的な改定」のためには何が必要なのか。以前からその改定の必要性を訴えておられる、伊勢崎賢治さんにお話を伺いました。
いせざき・けんじ 1957年東京生まれ。大学卒業後、インド留学中にスラム住民の居住権獲得運動に携わる。国際NGOスタッフとしてアフリカ各地で活動後、東ティモール、シエラレオネ、 アフガニスタンで紛争処理を指揮。現在、東京外国語大学教授。紛争予防・平和構築講座を担当。著書に『東チモール県知事日記』(藤原書店)、『武装解除 紛争屋が見た世界』(講談社現代新書)、『伊勢崎賢治の平和構築ゼミ』(大月書店)、『国際貢献のウソ』(ちくまプリマー新書) 『紛争屋の外交論―ニッポンの出口戦略』 (NHK出版新書)『本当の戦争の話をしよう: 世界の「対立」を仕切る』(朝日出版社)など。
日米地位協定の「特殊性」とは──問題は、裁判権ではなく「互恵性」
今年5月に沖縄県うるま市で起きた、元海兵隊員の男性による女性暴行殺害事件。こうした事件の背景に、世界的に見ても特殊で不平等な「日米地位協定」の存在があることは明らかです。「単なる外国人犯罪だ」と言いたがる向きもありますが、容疑者はSOFA(日米地位協定)ステータスに守られた「特別な外国人」であって、一般の在日外国人が起こした犯罪とは、まったく次元が異なる。地位協定による米軍の特権的立場があるからこそ、これまでにも同種の事件が後を絶たなかったのだ、と考えるべきでしょう。
今回の事件では、日本の警察が先に容疑者の身柄を拘束したので地位協定は特に捜査の壁にはなりませんでしたが、これは「たまたま」に過ぎません。もし容疑者が先に米軍基地に逃げ込んでいたら、地位協定の定めによって、そのまま身柄が引き渡されない可能性もありました。
そして、日米地位協定が「特殊で不平等」だという最大の理由は、「互恵性」のなさです。たとえば、日米地位協定にある「公務内の軍人・軍属についてはアメリカに第一次裁判権がある」という定め自体は、NATO加盟国間の地位協定の、慣習的なものではありますがスタンダードになっているので、世界的に見て特段不公平というわけではありません。問題なのは、それが「一方的」なものであることです。
つまり、NATOの地位協定においては、アメリカの軍人がイタリアで公務中に罪を犯したら基本的にはアメリカに第一次裁判権があるけれど、その「逆」もあるということ。イタリア軍人がアメリカ駐在中に公務内の罪を犯しても、それはイタリアの軍法で裁かれることになる。外交官などがもつ「外交特権」と同じで、互いに特権を与え合う仕組みになっているわけです。
もちろん、イタリアがアメリカ国内に基地を置くというのは実際にはあまりないでしょうけれど、少なくともその場合の想定はきちんとされているんですね。そうして、両国の立場は対等であるという形を取る。NATOは軍事同盟だから当然ともいえますが、それ以外でもフィリピンはほぼ同様の互恵性を獲得していますし、その後のイラクやアフガニスタンとの地位協定も含めて、「互恵性は常に交渉の核となる」とアメリカ自身が公式な報告書で書いています。ところが、日米の地位協定にはそうした「互恵性」が全く問題にされず、一方的にアメリカに特権を与える内容になっているのです。
また、地位協定においては通常、「透明性」が非常に重視されます。NATO地位協定においても、基地で行われる訓練の内容を含め、駐留軍の行動については原則的に受け入れ国の許可が必要です。航空機の飛行や物資輸送などに関しても受け入れ国の了承が求められますし、基地から排出されるオイルや排ガスなどの廃棄物処理についても、受け入れ国の環境規制に従うのがスタンダードになっています。
こうしたことがほとんど無視されて、米軍はいつでも好きなように訓練などを行える上に、制空権までも握っている。そんな不公平な対米協定をもつのは、世界広しといえども日本と、あと韓国くらいだと思います。
ちなみに、うるま市の事件の容疑者は、米軍と契約する会社の従業員で、「軍属」としてSOFAステータスを与えられていたようですが、これも他国の対米地位協定ではまずあり得ません。現代の戦争においては、軍と契約した民間軍事会社などの「業者」の存在が欠かせませんが、その従業員は軍と直接雇用関係を結んでいるわけではないので、軍が行動を統制することができない。そこで、そうした会社の従業員については、直接軍に雇用された「軍属」とは区別して、公務中・公務外にかかわらず受け入れ国が第一次裁判権を持つとするのが慣習的なスタンダードになっているのです。この点でも、日米地位協定は「特殊」だといえます(※)。
※今回のうるま市の事件を受け、日米両政府はようやく「軍属の範囲を厳格化する」という合意を発表しました(あまりにも遅すぎる動きですが)。ただ、ここで出されている「軍属」の範囲も、〈米軍と契約する民間企業の技術アドバイザーやコンサルタント〉が入っていたりと、たとえば米・NATOとアフガニスタンの地位協定で定められているものなどに比べても前近代的です。また、現状の日米地位協定では誰が「軍属」に含まれるかの決定権をアメリカが一方的に握っているわけで、そこを変えられるかどうかが大きなポイントになるでしょう。
交渉を繰り返して、改定されてきた各国の地位協定
では、なぜそんなことになっているのか。地位協定というのは、必ずしも駐留国が一方的に「押しつける」ものではありません。制定する際にももちろんシビアな交渉が行われるし、その後も状況の変化などに応じて改定が加えられます。
たとえば、日本と同じ第二次世界大戦の敗戦国だったドイツやイタリアは、冷戦後に占領時代からある米軍基地の管理権と制空権を回復しました。ドイツでは殺人やレイプなどの「凶悪犯」については、公務内/外を超えてドイツに第一次裁判権があると定めていますし、イタリアでは基地が置かれている地方の自治体に、アメリカ政府と直接交渉する権利まで与えています。いまだ「戦争中」ともいえるアフガニスタンでさえ、2014年に米・NATOと結んだ地位協定では、国内で罪を犯した米兵がアメリカの軍法で裁かれる場合に、アフガニスタンの政府関係者がその場に立ち会う権利を認めさせました。
つまり 各国に基地を置き続けるために、アメリカは真摯にいろんな「譲歩」をしているわけです。戦争直後の占領時ならともかく、平時に外国の領土に基地を置くというのは本来、主権の侵害であって「異常な」こと(多くの日本人にはあまりそうした感覚はないと思いますが)。アメリカも、そのことはよく分かっています。だからこそ、受け入れ国の国民の機嫌を損ねればそこに居続けられないと認識していて、それぞれの国の事情や歴史的な関係にあわせて交渉に応じるんです。
分かりやすいのがフィリピンの例です。かつてアメリカの植民地だったフィリピンでは、反米感情の高まりもあって1992年に一度米軍を撤退させ、地位協定を破棄しています。その後、中国の南沙諸島進出などもあって 1999年に再び米軍を駐留させることになるのですが(1998年調印Visiting Force Agreement“訪問軍”協定、2014年調印Enhanced Defense Cooperation Agreement)、再度の地位協定締結にあたっては、フィリピン側に非常に有利な条件を引き出しました。
先に触れた裁判権における互恵性もそうですし、基地内での米軍の行動や物資の持ち込みについてはすべてフィリピン側に管理権があって、「核を持ち込まない」という一文さえ明記されています。環境規制についてもフィリピンの基準に従うときちんと書かれているし、何よりも、協定の一章を割いて「フィリピンの所有権」を規定しているのです(ちなみに、アフガニスタンとの地位協定でも、「アフガニスタンの主権」ということが、文面の中で高らかに謳われています。もちろん、日米地位協定のどこを見てもそんな言葉はありません)。
一度「追い出された」身なだけに、アメリカ側も大幅に譲歩せざるを得なかったわけですね。アメリカの公式の報告書にも、こうした互恵性の確保がなければ、米軍はフィリピンに戻って来ることができなかっただろう、ということが書いてあります。
なぜ日本では、「地位協定改定」の声が上がらなかったか──沖縄に問題を封じ込めてきた日本
ところが、こうした「交渉」「譲歩」の例外であったのが、日米地位協定です。締結されてから50年以上、その内容はまったく改定されずに来ています(※)。
なぜか。「地位協定をもっと対等にしろ」「政府はアメリカと交渉しろ」という国民の声が、日本ではほとんど──沖縄を除き──上がってこなかったからです。
地位協定の内容について、いくら「アメリカが譲歩する」と言っても、もちろん黙っていたら勝手に「ここまで譲りますよ」と言ってくれるわけではありません。各国が粘り強く交渉を重ね、権利を勝ち取ってきた結果です。そうしなければ自国民が黙っていないことを、どの国も、そして交渉相手であるアメリカも分かっていたんですね。
ところが日本では、沖縄という首都から遠い場所に基地を集中させることで、「国内に治外法権の場所が存在する」という異常さや、そこから派生するさまざまな問題を国民に「見えない」ようにしてきた。そのために、ほとんどの国民──沖縄県民以外の──にとって基地の問題はあくまで「沖縄の問題」でしかなく、関心は高まりませんでした。それをいいことに日本政府も、いくら米軍関係者による事件が繰り返されようとも、根本的な地位協定の改定に取り組もうとはしてこなかったわけです。
日本政府に最初から「沖縄に問題を封じ込めよう」という意図があったのかは分かりませんが、この状況を変えないでおこうという意思は間違いなくあったでしょう(事実、立川など首都に近い基地はかなり返還されているわけですし)。そしてその図式は、ある意味で非常に「うまくいっていた」といえるのかもしれません。
しかし、それは当然ながら沖縄の人々の負担に目をつぶれば、ということです。これ以上同じことを続けていいとは思えないし、一方的な主権の侵害という「異常」な状態を、このまま放置していいとも思えません。地位協定の根本的な改定に早急に取り組み、主権国家としてアメリカと「対等」な関係をつくり直すべきではないでしょうか。
「対等」というと、すぐに「じゃあ集団的自衛権を行使して、日本もアメリカを守れるようにすべきだ」と言い出す人がいますが、そうではありません。集団的自衛権──日本でいわれている「集団的自衛権」は、正確には軍事同盟、「集団防衛」だと私は思っていますが──を行使すればアメリカと対等な関係を結べるのであれば、韓国はとっくに対等の地位を得ているでしょう。しかし実際には、米韓の地位協定は日米とあまり変わらない、韓国に不利な内容になっています。
「対等」というのは、軍事力の話ではなくて国と国との外交の話。簡単に言えば、アメリカに「舐められているか否か」なんです。そして現状、これほど「舐められている」国は日本と韓国ぐらいしかありません(繰り返しますが、それは「集団的自衛権が行使できないから」ではありません)。
長引く「テロとの戦い」に疲弊するアメリカでも、「まずは国内のことに金を使おう」という、トランプのような主張が一定の支持を集めるなどの変化が起こっています。それを受けて日本も、自分たちにとっての「アメリカ」とは何か、改めて考え直すときに来ているのではないでしょうか。米軍基地は、日本が「お願いして置いてもらっている」ものなのか、それとも両国のメリットのために存在するのか。そうしたコンセンサスを形成した上で、地位協定についての交渉に挑むべきです(※※)。
先に挙げたフィリピンの例も、米軍基地を置きながら自分たちの主権を最大限に確保しているという点で参考になるでしょう。あるいは、今日、明日に米軍基地をなくすことはできないとしても、どんな状況になれば(たとえば「近隣諸国との領土・領海紛争がなくなったとき」とか)撤退させることができるのかのビジョンをもつ必要もある(地位協定の中には、期限を区切った時限立法にしているものも多くなってきました)。
これは「沖縄の問題」ではなく、日本という国家の「主権の問題」。今回の選挙結果にかかわらず、そして左右の垣根も越えて、早急に取り組むべき課題だと思います。
※正確には昨年、環境規制に関する補足協定が結ばれていますが、分量的にもほんのわずか、環境基準は日本政府ではなく「日米合同委員会」が決めるという前近代的な内容。とても「改定」と呼べるようなものではありません。
※※一方で、日本は2011年、「ソマリア沖の海賊対策」を掲げて東アフリカのジブチに自衛隊基地を建設、このとき締結したジブチとの地位協定では、一方的に不利な条件を押しつける「加害者側」となりました(この協定を駆け込みで結んだのは選挙で負けて政権を奪われた自民党ですが、それを実施運営したのは民主党政権です)。このことについても、同時に考え直すべきでしょう。
参院選沖縄選挙区では、「辺野古新基地反対」などを掲げた伊波洋一さんが、島尻安伊子沖縄担当相に大差をつけて当選。しかし、その民意を踏みにじるように、翌日には沖縄本島南部、米軍施設建設計画への反対運動が続いている東村高江で、「さっそく」建設工事が再開されたとのこと。どちらも日本が「問題を沖縄に封じ込めてきた」ことを象徴しているように思います。この状況を、今後も私たちは続けていくのか。この国に暮らす、誰もが「当事者」です。
また、伊勢崎さんは現在、自衛隊が派遣されている南スーダンでの戦闘再開のニュースを受けて、このようなメッセージも発信されています。以前に寄稿いただいた、「安保法制は阻止すべき。けれど、そこで終わらせてはいけない。」と題する論考とあわせ、ぜひお読みください。