このところ、連日のように国会周辺へ「特定秘密保護法」への抗議のために出かけていた。いつも、歩道から溢れんばかりの人たちがいた。多分、その9割以上は個人参加だろう。居ても立ってもいられなくて、友人と、あるいは夫婦や家族で、もしくはたった一人で遠くから出かけてきた人たちに違いない。僕もカミさんや友人たちと一緒だった。労組や組織の旗などは、ほとんど目につかなかった。
個人参加だから、プラカードやポスターなどは、多くが自前。手書きの思いのこもったものが多かった。僕は「マガジン9」が作成してくれた「私も『特定秘密保護法案』反対です」という、ちょっとほのぼの系のポスターをプリントアウトして胸の前に掲げていた。
ずいぶんたくさんの人が、僕と同じポスターを持っていた。連帯感が湧いて、嬉しかった。そんな中で、思わずギョッとさせられるような文言のプラカードを見かけた。
【戦前かよっ!】
うーむ、これは胸に刺さる。
確かに、すでに“戦時体制”へシフトし始めたような安倍の突出、暴走ぶりだ。“冷静沈着”がウリだったはずの石破茂幹事長までが、それでなくとも怖い顔をひきつらせて目をひん剥き、安倍の勢いに引っ張られるように、危ない発言を繰り返す。
こんな流れに待ったをかけるべきかつての自民党内リベラルたちは、もう誰もいない。一緒になって「わーいわーい! 戦争ごっこだーっ!」と付和雷同の雑魚ばかり。
女性議員たちも負けちゃいない。高市氏とか稲田氏、片山氏、西川氏らは「軍国(愛国)婦人会」を発足させそうな気配だ。
戦時体制につながりそうな安倍政策は、数え上げればキリがない。そして最終的に狙うのは、憲法改悪!
その前段階としてすでに安全保障会議(日本版NSC、というよりアメリカの物真似寄せ集め会議)も設置。しかもその事務局長に予定されているという谷内正太郎氏(元外務事務次官)は、公然と「集団的自衛権行使を容認すべき」と発言。「日米同盟に大きな貢献となる」のがその理由だという。この人物も、目がアメリカ色に染まっている。アメリカと一緒なら(アメリカのためになるなら)戦争でも何でもやってしまえ、ということなのか。
これまで内閣法制局が営々と積み重ねてきた「憲法解釈」を、たった数名の人間の考えで、ろくに議論もせずに簡単に変えてしまう。そういえば、その肝心の内閣法制局長官さえ、安倍はこれまでの慣行を破って、集団的自衛権行使容認論で有名な小松一郎氏(元フランス大使)に差し替えてしまった。なんでも思うがままのやりたい放題。
「戦前かよっ!」というポスターが現実味を帯びてくる。本気で「そんなに戦争がしたいのかよっ!?」と安倍に聞いてみたい。
今は、もはや「戦後」ではなく、「戦争と戦争の合間」ではないか、とさえ思える。この危惧は、別に僕だけが抱いているわけではない。かなり多くの人たちが、安倍政権の進み行きに危険性を感じ、指摘しているのだ。
毎日新聞(14日付)のコラム「昭和史のかたち」で作家の保阪正康さんが書いておられる文章を読んで、ハタと腑に落ちた。
【「戦間期」の思想誕生の兆し】
良質な戦後史の危機
戦間期という語がある。第一次世界大戦の終結(1918年)から、第二次大戦の開始(1939年)までの21年間を指す。この21年間は一体何だったのか、「つかの間の平和」「戦争と戦争の準備期間」など様々な表現が用いられている。
しかし一般的な理解は、第一次世界大戦に敗れたドイツが(略)屈辱、忍従から次の戦争への復讐を考えた時期である。やがてヒトラーが登場し、ドイツ帝国をたたえる民族主義、反ユダヤ主義、反マルクス主義を掲げて、徹底した復讐を行ったことは、すでに歴史の年表に刻まれている通りだ。(略)
しかし太平洋戦争後の日本は、決して戦間期を持とうとしなかった。軍事大国を目指し、太平洋戦争で失った領土や資源、さらにはその「屈辱」を取り戻そうとヒトラーのようなタイプの言説を受け入れず、非軍事大国を目指した。はっきりいえば日本は、「戦間期を持たない」、いや「戦間期の思想や体制」をまったく目指さない国家として戦後68年を歩んできたのである。(略)
読んでいて、ゾッとしないだろうか。
安倍の再登場から目立ってきた「日本をたたえる民族主義」、「反中、反韓のヘイトスピーチの横行」という流れ。「軍事大国」を目指し、中期防衛計画ではオスプレイの17機、無人機グローバルホーク3機の導入、陸上自衛隊の5千人の増強…。それこそ、麻生財務大臣がいみじくも口走ったとおり「ナチスの手口に学んで」いるとしか思えない。
保阪正康さんの言うように「戦間期の思想や体制をまったく目指さない国家」だったはずの日本が、ここへきて、明らかに「戦間期の体制」へ移行しつつあると見えるのだ。
もう少し、保阪さんの文章を引用させてもらう。
この間の戦後68年、日本はただの一度も他国と銃火を交えず、戦死者も戦死させた者もいないという歴史を刻んできた。戦間期を持たない理性的・理知的な国家としての歴史的誇りを積み重ねてきたのである。このことは100年、200年、あるいは4代、5代先の児孫たちからは人類史を先取りした「英明の国家」という評価を得るに違いないと、私には思える。(略)
今回の特定秘密保護法、さらには自民党の憲法改正案、集団的自衛権の解釈、教科書に政府見解を盛り込む案、NHKを私物化する人事、なんだか「戦間期の思想」を作りだそうとしているのではないかとの不安が高まってくる。(略)
50年、100年先の児孫から、「戦間期の思想が生まれたのはあの年からだったね」と言われるのではないか。(略)
僕が「お散歩日記」で、最近しきりに訴えてきたことが、保阪さんの危惧とほとんど重なっている。
この国は、いったいどこへ行こうとしているのか。それは明白だ。
安倍は、この日本を“私物化”し、「戦間期」へ投げ込もうとしている、ということだ。国は個人のおもちゃじゃない。その最悪の例がすぐ近くにあるではないか。
少し前、僕はツイッターで「ハードファシズムとソフトファシズム。そのふたつを、我々はいま見ているのかもしれない」と書いた。
片方はそれが的中した。もう片方が当たらないように、我々は闘わなければならない。「50年、100年先の児孫」から指弾されないように。
東京の天気は、ここしばらく美しく晴れている。しかし、気分の重くなることの多い世の中。ほんとうに久しぶりに、僕は気分転換に近くの深大寺周辺の散歩に出かけた。
深大寺そばを食べ、神代植物公園を散歩。植物公園の隣にある「植物多様性センター」が、僕のお薦めスポットだ。ここは無料。そしてなぜか、人がほとんどいない静かな公園。ゆっくり散歩するには適度な広さ。そして、さまざまな展示の面白さ。
今回は、たくさん写真を撮った。頭にカッと血がのぼることの多い昨今だけれど、僕の下手な写真で、少しは和んでください。花の名前を考えてみるのも楽しいかもしれませんよ。
どうにも厭な内閣だ。おぞましい。
でもやっぱり一番は国民がだらし無さすぎ、じゃないの?
矮小化して考えてみて、東京都民。
どう考えてみても430万もの迂闊な大人がいるというのは、
にわかには信じられないほど。呆れてしまうのだが。
もの凄い数字ですよコレは。
ほんと見る目がないんだねえ。
でも多分、これも国民の縮図だと思えるんだけど… 。
もう今度は迂闊では済まされないよ。
現政権と現在の日本は陥るべくして陥った人災さ。フクシマの事故と本質は変わらない。
統治の仕組みは独裁政権作りのために悪用されまくり。他国の上に立つ国策は数年以内に反感を生むであろうこと請け合い。それをよそにメディアは憎むべき悪人作りに大忙し。国民は思惑通りに対立を深め、国家権力は今日も国民を監視中。法は次々と国民に格差を付けて日々ピラミッドを強化し、生活はどんどん苦しさを増していく。
こんなに恨みがましい世の中が健全だと思う奴がいるものか。疑う余地もなく「来るべき日」に向けて事態は考えうる最悪の想定をなぞっている。日本人が心を失ったのは昨日今日に始まった事じゃない。物心ついた頃にはもう大人達は他人を蹴落とせ人を恨めと言っていたよ。政治は政権争いしかしてなかった。全ての集大成がこれだ。
競争を躊躇う理由などどこにもないが、競うことを何かに命令された時点で理想は幻想に変わる。人はいつも他者の我が儘を叶えるためだけに進化するからだ。他者の我が儘を許さぬ社会に未来があるはずはない。
競争原理主義という思想は呪術のようなものさ。呪いの毒と製法が同じだからね。日本の政治家はもはや完全に毒に冒されている。初めの生け贄は我々じゃない、他ならぬ首相本人だ。次々とボードに花が付けられていくのになぜか苦しそうな表情。可哀想だがもう誰にも彼を救うことはできない。指導者気取りの独裁者として歴史に悪名を残す事になった。贄に選ばれたのはこれ以上の適任者がいないからだ。この国と同じさ。「二度目の敗者復活はない」。
この人災を乗り越えなきゃ日本どころか人類の半数に未来はない。為政者に「二度と戦争をしません」と明確に誓わせているのは日本ぐらいなものだからね。この国が戦争放棄を放棄したら世界が一斉に軍拡競争に走るってのは簡単に想像がつく。日本は世界平和の要石なんだ。憲法が背負う役割は想像以上に大きい。
もう楽にしてあげよう。誰も恨む事なく、憐れみをもって引導を渡そう。「他の党になど国家の危機管理システムは運営できぬ」。それだけが政権維持の根拠なら、そんなくだらぬ独裁政権の下地は全部捨てればいいさ。豊かさと絶望を併せ持つ国の政治をイチからやり直そう。「戦前ではなく戦後から」だ。
そのためには党を持たない「無党連合」を作り、第一党を取る必要がある。一見矛盾してるようだが既存政党だって例外なく党名と行動が反対だから何の問題もない。
党の理念は「如何なる派閥にも所属しないこと」「個人の信条や行動を拘束しないこと」「人モノ暮らしに一切の格付けをしないこと」この三つを誓うだけで十分だ。それだけで国民の声は政治に届く。この国に集団思想は似合わない。それは野党の役割だ。
そして全ての議員はスーツを脱ぎ捨て、畳の上に素足か青空の下で草木にもたれて議論をする。馬鹿デカイ国会議事堂など美術館にでもすればいい。もう形から直さなきゃ政治家の権威主義は治らない。この国の集団催眠もいつまでも解けない。それほどまでに政治は腐ってしまった。
いま治さなければまた延々と同じ事の繰り返し、恨みがましい時代を続ける事になる。
俺達と同じ苦悩を次世代に残す意義はもうない。
耕さんのコメント欄を汚してごめんなさい。本当は別の記事にコメントしようと思っていたんですが、この記事が一番素の私に近い気がしたもので。心のわだかまりをほとんど代弁して貰っちゃいました。いつもの「和み」にも感謝です。
●軍需産業がもっと儲けたい→北朝鮮・尖閣をセンセーショナルに報道→御用政治家がかっこつけて国民の愛国心をあおる→マスコミがよいしょ→国民もいっしょに踊らされる→戦争→軍需産業がもっと儲けたくなり、さらなる残酷兵器を開発
●日本をアメリカに都合の良いプルトニウム置き場にしたい→電力会社・原発メーカーがもっと儲けたい→安全神話&CO2温暖化神話布教→活断層の上で原発推進→大地震→原発事故→しかし、原発メーカーはもっと儲けたい→安全神話布教→原発輸出→大地震→原発事故
●大企業がもっと儲けたい→新自由主義経済→格差社会、過労死→まだまだ足りないもっとグローバルに儲けたい→ブラックなグローバル企業だけがのさばり中小企業ほぼ滅亡のさらなる格差社会へ
この流れを止められるのは・・・・・
人間のもつ力を信じたい!考える力を。批判する力を。想像する力を。工夫する力を。
どんなに不利な条件でも残された道はあるはず。少なくとも、人数では圧倒的に勝っている。
ずる賢さでは負けている。彼ら(大資本、大企業)は本当に、ずる賢い。
爪のあか煎じてのみたいほど賢い。彼らの先手先手を打っていく戦略的思考は本当にすごいなぁ、と感心してばかりもいられない。
ありがとうございます。
本当にこの流れをなんとか止めないと、いよいよ危ないですね。同じ危機感を持つ人が、自分の身の周りの人に、危機意識を発信し、それを広げていくことで、声を広げ、政治力をつけていく必要があると、強く感じています。とにかく、今後のあらゆる選挙で、自民党議員の数を一人でも減らしていくことが大事だと思っています。
日本が平和を貪ることが出来た時代はもう終わろうとしています。
日本が自分自身で国を守らないといけない時代がもうそこまで来ているのです。
平和ボケはもうやめましょう。自分たちの国を自分たちで守るという普通の国になる時代が来たのです。
日本の周りは楽園などではありません。冷戦が別の形でまだ継続しているのです。
日本が戦争から逃げても戦争は日本を逃がしてくれないという事をわかってください。
備えも無しに戦争に巻き込まれてしまえばより大きな被害が発生するのです。
それを被るのは私たち国民です。金持ちも貧乏人も関係なく等しく被るのです。
安倍政権が独裁政権? そんなわけないじゃないですか。我々国民が選んだ総理大臣ですよ。
民主主義国家にて選挙で選ばれた政権を独裁扱いするのは民主主義の否定です。
軍需産業のもうけ? 日本の軍需産業は壊滅のピンチなのですが。過大になるのも問題ですが、無くなるのはもっと問題なのです。
今は夢想的念仏平和主義を捨て、現実的に平和を求めていくべき時なのです。
>我々は闘わなければならない。「50年、100年先の児孫」から指弾されないように。
:
鈴木耕さんにしろ、保阪正康さんにしろ、ここにコメントをされた多くのリベラルっぽい方々も、「『50年、100年先の児孫』は、戦後68年間における日本のリベラル・左派・護憲派勢力の活動や行動をどのように評価するのだろうか?」と問われたとき、一体どの様な回答をされるのでしょうか?
この様に俯瞰的な第三者を設定し、自民党や米国だけでなく、自身や周囲までも客観的に認識、評価するスタンスは、日頃しきりに歴史の重要性を主張するリベラル・左派・護憲派勢力の人々には不可欠だと私は思います。
さて、私個人的には「50年、100年先の児孫」は、戦後68年間における日本のリベラル・左派・護憲派勢力の活動や行動を指弾すると思います。 それはもちろんこの様な安倍政権の躍進を看過してしまったという結果からも指弾の対象となるでしょうが、為政者に「二度と戦争をしません」と明確に誓わせることで、平和主義を全うできると錯覚をして、自らが主体的かつ真剣に平和構築を模索しようとする人がほとんどいなかったという事も指弾の対象となると私は思います。 いずれにせよ、安倍政権の横行を阻止したければ、旧態然とした「ファシズム」「戦前」といったレッテル貼りをするより、自らを客観視し、是正できる所を是正することが先決ではないでしょうか。
ずいぶん好戦的な方たちが、この欄には多いんですね。今さらながら呆れてしまいます。
どうぞあなた達は石原閣下や安倍元帥を慕って、自前の意思で花と散るがよいでしょう。
私はまっぴら御免です。
たぶん私のことを指していると思いますが何が好戦的なのでしょうか?
平和に暮らしたいからこそ、戦争に備えておくのです。戦争に備えることで逆に戦争を行わないで済むのです。
繰り返しになりますが念仏のように平和を唱えても平和は守れません。日本が戦争から逃げても戦争は日本を逃がしてくれません。戦争に備えた上でいかにして戦争を避けるかを考えるべきなのです。
日本が平和ボケでいられた時代はもう終わったのですよ。
「平和ボケはもう止めましょう」。その通りです。そんな時代が過ぎ去って久しい。ヒトラーの率いるナチスが160万人もの命を奪ったといわれるアウシュビッツ絶滅収容所。私は平和ボケ防止の為 訪ねた。「百聞は一見に如かず」。「歴史を記憶しないものは、再び同じ味を味わざるをえない」、と収容所4号館入り口に刻まれていた。私たちは未来からは学べない。過去からしか学べない。だから、 過去の検証を間断なく続けけなければならないのだ。 ドイツ人が年間3万7千余り同所を訪れるとい。一方、中国の南京や平頂山虐殺跡記念館には日本人は
ほとんど訪れないという(同記念館を訪問した際)。ドイツ人の真摯で勇気ある行動を教訓にしたいものだ。