時々お散歩日記

 この「お散歩日記」も、もう150回目か…。よく続いていると思うけれど、なんだか書くたびに辛さが増すような気がする。災害も、福島も、沖縄も、憲法も…。そして何より、政治がひたすら恐ろしい方向へひん曲がっていく気配…。
 時折、僕のような者にでも、人前で話す機会を与えられることがある。僕は1945年、つまり敗戦の年に生まれた。だから、自分では「私こそ、生きる戦後史です」などと前振りをする。けれど最近は、それに続けてこう言わざるを得ない。
 「生まれてからずーっと、私は戦後という時間と歩みをともにしてきたわけですが、そんな私が感じるのは、これまでの日本の流れの中で、現在が最も危なっかしい時代ではないか、ということです…」 
 最近の安倍の言動を見ていると、どうしてもそんな言葉が口をついて出てきてしまうのだ。
 
 沖縄へ旅してきた。初めて僕が沖縄を訪れたのは、もう30年ほど前のことだ。むろん、そのときは青い空と珊瑚礁の海に憧れる能天気な観光客だった(今でもそれに近いけれど…)。でも、沖縄が大好きになり、ほぼ毎年、出かけるようになった。でも、2011年はとても旅をする気にはなれなかった。2012年は個人的な事情で、家を空けられなかった。だから、沖縄は3年ぶりだ。
 最初は観光目的の単なる旅行者だったが、何度も訪れていれば、それなりに知人友人もできるし、いろんな方から話を聞く機会も増える。そして、観光だけではすまない沖縄の現実も知ることになる。
 その辺りの事情については、僕が2010年に上梓した本『沖縄へ 歩く,訊く,創る』(リベルタ出版、1500円+税)に詳しく書いたつもりだ。もしご興味があれば、この本を覗いてみてほしい。

 沖縄本島へ行くと、僕が必ず寄る場所がある。本島最北端の辺戸岬だ。ここに「祖国復帰闘争碑」という大きな石碑(写真1)が建っている。この碑文(写真2)がなんとも熱い。「日本国憲法の下への復帰」を、焼けつくような思いで望んだ人たちの熱がほとばしる文章だ。

写真1

写真2

 僕が訪れた日は、思ったよりもたくさんの人(といっても20人ほど)が来ていた。「これは、沖縄の復帰闘争を記念した碑で…」などと、若い人に説明している年配者もいた。車は「わナンバー」だからレンタカーだ。観光客に違いないが、最近のオスプレイ問題や高江のヘリパッド建設阻止の闘いを描いて大ヒット中の映画『標的の村』(三上智恵監督、東風配給)などによって、沖縄の現実に触れてみたいと考える人たちが増えていることの証しだと思った。

 その帰路、高江ヘリパッド建設阻止を訴える住民の方たちがピケを張っている伊湯岳という山の中へ車を走らせた。地区の西側、ちょうど反対側だ。こちらからも工事車両が入ってくるのだという。しばらく前から連絡を取っていた平良夏芽さんもここにおられるということで、お会いしていろいろとお話を伺いたかったからだ。
 だがこの道が、対向車があったらすれ違うのも難しいような凄い山道。20分ほどかけて、ようやく到着。で、ほっと安堵したのが失敗のもと。駐車中の軽ワゴンの後ろに、ああああ…ゴッツーン!
 いやはや、情けないやら恥ずかしいやら。穴があったら入りたい、という経験を久しぶりに味わってしまった。僕の車はレンタカー。その会社に電話したら「まず警察を呼んで、事故状況書を書いてください」と、ちょっときつめのお達し。ま、僕が100%悪いのだから、言い訳のしようもない。とりあえず人身事故でなかったのが不幸中の幸い。いやはや…。
 しばらくして、ミニパトカーがやってきて、処理は完了。この間、僕は謝るばかりで、お話を聞くような状況ではなかった。ほんの立ち話をしただけで、レンタカー会社へ事故車を返しに行かなければならなかったからだ。
 平良さんは「いやあ、こんな出会いはめったにないですよ。忘れられない出会いになりましたねえ」と豪放に笑ってくれたけれど、被害を与えてしまった方には本当に申し訳なくて、僕にはとても笑えない。という事情で、写真を撮るゆとりもなかった。
 しかも、レンタカー会社は那覇空港近く。ここから100キロほども距離がある。僕は傷つけた車をそこまで届けなければならない。もっといろいろお話を伺いたかったけれど、時間は待ってくれない。丁重にお詫びして、一路南下。別の車を借り替えることにしたので、予定外のン万円の出費。これはけっこう僕の懐に痛かった。
 なんとも情けない沖縄旅行の始まりだった。

写真3

 翌日、(気を取り直すために)午前中は少し海で過ごした(写真3)。ここは本部(もとぶ)半島に隣り合う瀬底島のアンチ浜というところ。僕が大のお気に入りの浜辺で、沖縄へ来る度にここで泳ぐことにしている。なにしろ、様々な魚がすぐそばで見られる。遠浅で、シュノーケリングをするのにも危険はない。

写真4

写真5

 で、気分も新たにしたところで、午後から高江地区のヘリパッド建設阻止座り込みの現場へ。テント小屋(写真4,5)もあり、住民のみなさんが頑張っている。しばらくそこで話を伺って、さらに5キロほど進む。そこは建設現場へのゲート前(写真6,7)。この日は、警察が来ているということで、少し緊張が漂っていた。

写真6

写真7

 テントで冷たいお茶をご馳走になり、些少のカンパをしてから、今度は辺野古へ向かった。むろん、普天間飛行場の移転先として、日本政府が沖縄県民の8割にも及ぶという反対を押し切って強行しようとしているところだ。残念ながら、少し遅かったのでテント小屋に人影はなかった。

写真8

 辺野古の海(写真8)はとても美しい。その先の大浦湾は漁場としても最適で、しかも超貴重生物じゅごんの生息地でもある。そんな海を埋め立てるという権力に対して、住民の、特にオジイやオバアの闘いは根強い。座り込みは、もう3400日を超えているし、テント小屋も健在だ(写真9,10,11)。

写真9

写真10

写真11

 しかし、米軍はそんな闘いを嘲笑うかのように、辺野古の浜にコンクリートと金網の壁を築いた。その金網には、全国から寄せられた「辺野古新基地建設反対」のさまざまな寄せ書きがびっしりと貼り付けられている(写真12)。

写真12

 翌日、本部から宜野湾のホテルへ移動。
 このホテルのベランダから、宜野湾海浜公園(写真13)が見渡せる。ここは何度も巨大な県民集会が開催された場所だ。「少女暴行事件」「教科書書き換え問題」「普天間飛行場の辺野古への移転問題」など、ことあるごとに沖縄県民が怒りを爆発させてきた広場だ。2007年9月の「教科書検定意見撤回を求める県民大会」の際には、なぜか僕が琉球朝日放送(QAB)の特別番組のコメンテーターとしての協力を要請され、この広場でカメラの前に座っていたのだった。

写真13

 あの日の強い日差しと興奮が甦る。
 近くの嘉数高台公園へ行ってみた。ここから、市街地のど真ん中にある「世界一危険な軍事基地・普天間飛行場」が一望できる(写真14)。ほんとうに、ここからの眺めは、いつ見てもゾッとする。この市街地の上空をオスプレイが飛び回るのだから…。

写真14

 飛行場のいちばん奥に大きな航空機が停まっているのが見えたが、オスプレイかどうかは肉眼では確認できなかった。
 この公園は、本土からお偉い政治家さまが来ると、必ず立ち寄る場所。そして「うーむ、これは危険だ。その軽減のために、一刻も早く辺野古へ基地移転させなければ…」などと沖縄県民の神経を逆撫でする発言をする場所としても有名だ。
 そしてここは、沖縄戦における有数の激戦地でもあった。今も、トーチカが残っている(写真15)。

写真15

 次に向かったのが、この普天間飛行場へ食い込むように建てられている「佐喜眞美術館」(写真16)。ここには「原爆の図」とともに、丸木位里・俊夫妻の渾身の作品である「沖縄戦の図」が展示されている。その「沖縄戦の図」の左隅には、以下のような文章が書き込まれている。

 沖縄戦の図
 恥かしめを受けぬ前に死ね
 手りゅうだんを下さい
 鎌で鍬でカミソリでやれ
 親は子を夫は妻を
 若ものはとしよりを
 エメラルドの海は紅に
 集団自決とは
 手を下さない虐殺である    位里・俊

写真16

 累々と重なる屍の呻きを文字にして叩きつけたような、鬼気迫る文章である。ここを訪れたのは何回目だろうか…。
 この美術館が建っている場所は、普天間飛行場のほんの片隅の返還地。美術館開設にあたっては、館長の佐喜眞道夫さんの懸命な努力あったと聞く。すぐそばのフェンスにはこんな警告文(写真17)があった…。沖縄のいたるところで見かける警告表示。それが、沖縄の現実。

写真17

 この日は土曜日。前日まであれほど轟音を撒き散らしていた航空機が、この日はまるで飛ばない。佐喜眞美術館の女性館員が「休日は、訓練もお休みなの。この間は、アメリカの連休なんでしょうね、4日間お休みで静かなこともあったんですよ」と苦笑していた。アメリカはアメリカの都合で動く。日本の、それも沖縄の住民のことなんか気にもかけていないのだろう。

 最後に訪れたのが「沖縄戦・ホロコースト写真展示館」(写真18,19)である。沖縄戦を含め、世界の悲惨な現代戦争の数千点に及ぶ写真や資料が収集されているという。

写真18

写真19

 これは、元沖縄県知事の大田昌秀さん(写真20)がほとんど独力で創りあげた展示館だ。今も「沖縄国際平和研究所」を主宰しながら、この展示館も常設している。

写真20

 大田さんとは、僕が『沖縄、基地なき島への道標』(集英社新書)を編集したときからのおつき合い、もう十数年になる。いつお目にかかっても、喜んでくれる。この日もお部屋へ招かれて2時間ほど。
 そしてその夜は、大田さんの行きつけの沖縄料理店で、すっかりご馳走になってしまった。凄いお刺身の盛り合わせ。談論風発、その間も大田さん、定番のシーバスリーガル18年を、かなり速いペースで空けていく。あまり料理は召し上がらない。「先生は、お話がおつまみなんですよ」と店のご主人。
 もう88歳だというのに、その記憶力と論理は少しの衰えもない。ご自身の戦争体験、早稲田の学生時代や米国留学の思い出、琉球大教授としての研究、チャルマーズ・ジョンソンやジョン・ダワーら海外研究者たちとの交流、そして、沖縄県知事時代の闘い、日本政府首脳との様々な駆け引き交渉、オスプレイと基地問題、沖縄の現状、沖縄県民のボリビア移民、沖縄の経済問題や沖縄政界事情、さらには現在も継続中のたくさんの仕事まで、お話は尽きることがなかった。
 実に、1冊の本にも匹敵するような流れ。しかも、話が飛んだように思えても、それがいつの間にかもとの筋へ戻ってきている。まさに「座談の名手」とも言うべき方なのだ。
 うまい酒と素晴らしいお話。僕にとっては、沖縄の旅を締めくくる、至福の一夜だった。
 というわけで、大失敗から始まった今回の沖縄旅行だったが、楽しい結末を迎えることができたのだった…。
  
 帰る日の朝、荷物をまとめながらテレビをつけたら、「オリンピック東京開催決定ーっ!」とアナウンサーが興奮絶叫していた。
 安倍首相の「原発事故の状況はコントロールされており、東京にダメージは与えていない」などという招致演説が功を奏したのだという。
 なんという国だろう。なんという政治家だろう。「東京にダメージはない」と、まるで福島のことなどなかったかのようだ。
 「汚染水の影響は、原発港湾内の0.3キロ平方メートル以内で完全にブロックされている」「健康問題は、今までも現在も将来も、まったく問題ないと約束する」などと、安倍、ほとんど口から出まかせの花盛り。いったい、この人物の脳内環境はどうなっているのだろう。
 僕はア然として、荷造りの手が止まった。こんなヤツに、旅の最後を汚されちまった気がして、厭な気分で空港へ向かった…。

 旅の始まりは、僕自身の大失敗。
 様々な見聞と、楽しい食事や語らいの日々。
 そして、旅の終わりは、厭なものを見せられた苦々しさ。
 今回の僕の「沖縄“いやはや”旅日記」である。

 

  

※コメントは承認制です。
150 沖縄“いやはや”紀行」 に3件のコメント

  1. 宮坂亨 より:

    辺野古テント村は午後4時までですね。辺野古浜のフェンスに貼られた寄せ書きは米軍や右翼に奪われては、貼り付けなおすことを繰り返しています。

  2. suzuki より:

    はい、私が着いたのは4時半ごろでしたので…。フェンスの寄せ書き、写真を見るたびに違っていますものね。でも、とられても破かれても、何度でも何度でも…。

  3. えいみい より:

    いつも穏やかな文章に癒されています。私は毎年与論島に行きますが、行くたびに知り合いが増えて、その土地のことが分かっていきます。楽しいです。
    東京オリンピックが決まり、私は聖書のソドムとゴモラを思い出しました。悪事がはびこって神の怒りで焼き尽くされてしまう街。汚染水地獄の中でも、浮かれて騒いでいる東京の人たちを見ていると、神の天罰がそのうちに下るように思えてならないのですが。司法も腐ってますから。善人を探すのをやめて、後ろを振り返らずに逃げた方がいいのかもしれません。もう東京には住めない気がしてきました。

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すずき こう

すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)など。マガジン9では「お散歩日記」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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