時々お散歩日記

 お読みになった方も多いと思うけれど、どうしてもここに書き留めておきたいと思う文章がある。まさか裁判の「判決文」に、こんなステキな一文が示されるとは思わなかった。
 嬉しい驚きの、心を打つ文章だった。
 そう、5月21日の「大飯原発3、4号機運転差止請求事件判決要旨」のことだ。福井地裁の樋口英明裁判長が読み上げた判決文は、これまでにない感動的なものだった。
 全文を書き写したいけれど無理なので、僕の目が釘づけになってしまった部分を、挙げておこう。最後のこんな部分。

 被告(注・関西電力)は本件原発の稼働が電力供給の安定性、コストの低減につながると主張するが、当裁判所は、極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等を並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的に許されないことだと考えている。このコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。

 どうだろう、この堂々たる論理。
 再稼働を言う人たちが必ずといっていいほど口にするリクツが、この「国富流出論」だ。要するに「お金を損していいのか」ということだ。それに対し樋口裁判長は、「国富とは何か」を明確に示した。国富とは「国民が根を下ろして生活できることであり、それが可能な国土」であると説明した。人々が平穏に生きること、それを育む国土こそが、ほんとうの「国富」なのだと、樋口裁判長は言い切った。
 ともすれば、損か得かという経済的二元論で語られる原発問題について、「生存権」こそがそれを超えた価値なのだ、ということを裁判の場で明確に語ったのである。
 「人間の生存の権利と、電気代の高い低いの問題を同列に並べて議論することの愚かしさ」を、裁判用語ではない平易な言葉で説明してくれた。この部分こそ、今回の裁判で樋口裁判長がもっとも言いたかったことなのだと、僕は思った。
 命なくして何が国富か。命こそが、何よりも最上位に位置づけられなければならない。これは、最近の集団的自衛権論議にもつながる論理ではないか。

 樋口裁判長は冒頭近くで、人間が根源的に持っているはずの「人格権」について触れ、次のように述べている。

 個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体が人格権であるということができる。人格権は憲法上の権利であり(13条、25条)、また人の生命を基礎とするものであるがゆえに、我が国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはできない。したがって、この人格権とりわけ生命を守り生活を維持するという人格権の根幹部分に対する具体的侵害のおそれがあるときは、人格権そのものに基づいて侵害行為の差止めを請求できることになる。人格権は各個人に由来するものであるが、その侵害形態が多数人の人格権を同時に侵害する性質を有するとき、その差止めの要請が強く働くのは理の当然である。

 これほどまで「人格権」を、憲法に準じて正面から捉えた判決文も珍しい。「人格権とは、人の生命を基礎とする」ものであり、したがって「憲法上の権利」なのだと規定する。それゆえ「人の生命を超える価値を他に見出すことはできない」と、きっぱりと宣言する。
 これまで憲法に言及することを避け続けてきた感のある裁判所が、憲法を論拠として原発再稼働を差し止めた。僕はここに、本来の司法のあるべき役割を見た。
 「人の生命を最高の価値と認めること」…。これこそが安倍内閣が葬り去ろうとしている「日本国憲法」の真髄である。安倍“一族”が強引に推し進めようとしている集団的自衛権行使容認、解釈改憲に真っ向から刃向う判決だと言っていいと思う。
 安倍首相らが、この判決に極端な嫌悪感を示しているのは、したがって当然だ。凄まじい反撃が始まるのは目に見えている。
 まず、被告の関西電力が即刻、控訴に踏み切った。普通ならば広報部あたりが「判決内容を精査した上で、対応を協議したい」などというコメントを出して、しばらく間を置くのだが、そんな気配さえ見せず、すぐさま反撃に打って出た。それだけ、関電にとっても衝撃的な判決だったということだろう。新たな厳しい闘いが、また繰り返される。
 関電は「上訴審の判断を待つまでもなく、規制委の安全審査に適合すれば再稼働は行う」と表明。
 菅官房長官も、翌日の記者会見で「世界一厳しい安全審査をクリアした原発の再稼働は、粛々と行う」と、まさに司法判断など、言葉は悪いが“なんとかのツラにションベン”という無視ぶり。少なくとも「上訴審の結果を待って再稼働の是非は判断する」くらいの言葉を吐けないものか。「三権分立」という言葉すら死語になったか。
 それにしても、菅官房長官の言う「世界一厳しい安全審査」って、いったい誰がいつ決めたのだろう。欧米ではほぼ常識となっている「コアキャッチャー」(メルトダウン事故が起きた場合、溶けた核燃料を受け止め、外に漏らさない設備)の設置すら義務付けていない規制委の審査を、なぜ「世界一厳しい安全審査」などと言えるのだろう。言葉の軽さに驚くばかりだ。

 他にもこの判決は、福島原発事故の悲惨さについて、放射線被曝について、原発そのものの安全性について、地震との関連について、緊急時対策の不備について、基準地震動の信頼性について、その他の設備の不完全性について、日本列島を取り巻くプレートとその影響について、使用済み核燃料処理について等々、まことにきめ細かく指摘している。
 これまでの「原発裁判」の判決文とは、まったく次元を異にする言及ぶりだ。じっくりと事に処すれば、このような結論が導き出されるのだ、と樋口裁判長は言いたかったのだろう。

 樋口判決が、これ以降の原発裁判にしっかりと反映されることを、僕は切に願う。あの「司法は生きていた」という裁判所前の垂れ幕の言葉が、これからも「生き続ける」ことが、この国の希望なのだから。
 最近、司法判断にわずかだが変化が見える、と指摘するジャーナリストもいる。例えば、死刑が確定していた袴田巌さんの再審決定と人道的配慮による釈放(3月27日、静岡地裁)や、大飯原発訴訟と同じ日(5月21日)に示された横浜地裁による自衛隊機の夜間飛行の差し止め判決。これは米軍機を除外したという点で不満は残るが、自衛隊機の夜間飛行差し止めだけでも画期的だ。
 「権力の僕(しもべ)」とさえ揶揄されてきたこれまでの裁判所から、やや「正方向への揺り戻し」と評価する人もいる。ただし、ベストセラーになった『絶望の裁判所』(瀬木比呂志、講談社現代新書、760円+税)を読めば、その底深い裁判所の闇が、果たして晴れる方向へと進んでいくかは疑問だ。安倍政権のあまりのひどさに、さすがの裁判官たちも目覚め始めた、などというのは甘い夢だろうか…。

 今週は、もうひとつ取り上げたい記事がある。朝日新聞(5月25日付)の、長谷部恭男早大教授と杉田敦法大教授の対談記事だ。
 「特定秘密法から考える」という特集で、「集団的自衛権 そんなに急いでどこへ行く」とタイトルされたものだ。各文節に次のような見出しがつけられている。

「あご外れるほど」驚きの産物 長谷部
手品のようにすり替えている 杉田

限定容認 意図的混同か 長谷部
中身問わぬ「決める政治」 杉田

世論につけ込み こわもて 杉田
日本、「怪物」にならぬよう 長谷部

 見出しだけでも、おふたりの怒りが伝わってくる。安保法制懇の報告書のデタラメぶりと、安倍政権の前のめりの姿勢を、厳しく批判している。ほとんど納得である。
 少し中身を引用する。

長谷部 報告書も安倍さんの記者会見もジョー・ドロッパー(注・あごが外れるほどの驚きという英語の言い回し)の連続です。憲法前文や13条、「砂川判決」など自分たちに都合のいいところだけをつまみ食いし、これまで政府が「真っ黒」といい続けてきたことを、条件をつければ「白」になると結論付けている。わけが分かりません。(略)
 そもそも早急に対処すべき安全保障上の問題が生じているというのは、第1次安倍内閣の時に出てきた話です。その後、数次の内閣で言われなくなり、それが今回また出てきた。安倍内閣ができると突如として安全保障上の緊急性が高まるんですかね。(略)

杉田 説得力のなさを、時間がないという話にすり替えている。昨年、安倍さんが憲法96条の改正を提起した時は、主権者である国民の意思をより憲法に反映させるために、改正の発議要件を「衆参各院の総議員の3分の2以上の賛成」から「過半数」に緩めると説明していました。しかしそれが難しいとなったら一転、今度は国民の意見を聞く必要はない、閣議決定で事足りるという。集団的自衛権の問題は、一昨年の総選挙でも主な争点ではなかったし、参院選では争点化していなかった。それなのに選挙で勝った自分たちの考えが民意だと、強引にことを進めようとしている。小泉政権の郵政民営化より悪質です。(略)

 これはほんの一部だけれど、対談は吉田茂元首相の答弁の引用や、安倍首相が唱える限定容認論の国際法違反という話まで、多岐にわたって安倍政権のどうにも理屈に合わないやり方を俎上に載せている。
 機会があったら、ぜひ一読してほしい対談だ。
 何かというと「切迫したアジア情勢」だとか「安全保障上の環境悪化」などを持ち出し、その対処のために集団的自衛権行使が必要だと、居丈高に論じる向きが多いけれど、むしろ、安倍首相本人がそれを煽って、持論の「戦後レジームからの脱却」を企てているという理解のほうが正しい。

 ほとんど同じことを、軍事ジャーナリストの田岡俊次さんや東京新聞の半田滋編集委員も言っておられる。
 田岡さんによれば「安全保障上の切迫した状況? 何をバカなことを。冷戦時代と現在を比較して考えればいい。米ソの間でまさに核戦争の瀬戸際まで行ったキューバ危機。今とは比較にならない切迫状況だったが、あの時にこんなバカな議論が出ていたかね」ということになる。
 半田さんも、前出の長谷部さんの指摘と同じく、第1次安倍政権時についてこう述べている。(東京新聞5月17日付)

(略)安倍首相は「一国で自らの平和と安全を維持することはできない」と言っています。もっともな話のようですが、「日本を取り巻く安全保障環境が悪化している」との安倍首相の状況認識を表す言葉は、七年前の第一次政権と変わりません。それほど危機が迫っているなら、なぜ五人もいた後任の首相は集団的自衛権の行使を検討しなかったのか説明がつきません。(略)

 沖縄の基地問題の専門家で、元沖縄タイムス論説委員のジャーナリスト屋良朝博氏にお聞きしたのだが、こんなこともある。
 「米軍の準機関紙に『STARS & STRIPES(スターズ・アンド・ストライプス)』という新聞があります。その紙面に米兵の声として『あんな人も住んでいない岩場のために、オレたちの命を賭けろっていうのか、冗談じゃない』というのが載っていました。つまり、米軍があの“岩場”をどう見ているかの傍証でしょう。それを巡って、日本が米軍と一体化した戦闘も、などと考えているのは不思議なことです」と屋良さんは教えてくれた。

 やさしい言葉で、本質を突く。井上ひさしさんの言葉を思い出す。

 むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに…。

 このコラムも、今回で180回目。
 むろん、井上さんの境地に、僕など死んでもたどり着けるはずもないが、それでもなんとか分かり易く書いてきたつもりだった。
 連載ももう4年になった。
 考えれば、あの2011年3月11日が転機だった。それまでは、のんびり散歩しながら、適当に思いついた“よしなしごと”を書き連ねていた他愛もないコラムだったのだが、あの事故以来、文章は無意識に硬くなり、憤りに満ちたものに変質していった、と思う。
 それでも時には、1000人を超す人が「いいね」をクリックしてくれていた。そんな方たちに支えられてここまで来た。
 でも、少し方向を考えようと思う。ややくたびれたってこともあるし、180回を区切りに、ちょっと一息入れたい気分なのだ。
 そんなわけで、このコラム、今回で一旦休憩に入ります。多分、形を変えて、またお目にかかることと思いますが、それまで、サ・ヨ・ナ・ラ。
 最後の最後に、あんなステキな判決文が読めて、嬉しかったです。

 今週は、なんだかとても忙しかったので、お散歩している余裕がありませんでした。そんなわけで「お散歩写真」はありません。数少ない「お散歩写真ファン」の方たち、ごめんなさい。
 またきっと、お会いします………。

 

  

※コメントは承認制です。
180 最後に、素敵な判決文を!」 に2件のコメント

  1. 鳴井勝敏 より:

    本当に知らないことばかりです。優しく、そして強く、手をひっぱてくれてありがとうございました。「このところ、どうも気分が落ち込む。いろんなことを考えると、、静かな明日がみえてこない。世の中も、それに、自分のまわりも。病と老いと死の臭いが漂っている・・・。」と前回述べていました。 改革は常に「少数意見」からです。多数派にいると人は多すぎて先が見えないからでしょう。                                          ところが、多数派にいると鈴木さんの様に「気分が落ち込むこと」はないと思います。同じことをしている周りの人を視て安心するからです。 以下は私の体験から感じたことです。                             それでも安心できない人は「意見」ではなく「感情」をむき出すのです。多数派は「数」に頼る為、意見を磨く機会が多くありません。行動の判断基準がまだまだ情緒的判断が主流なのです。感情に巻き込まれると疲れます。議論、討論に不慣れな国民性に気をつけています。最近では、安倍政権は国民の判断基準を押さえた様で「情緒的判断」をフル活用していることが心配です。                                       。「良きことはカタツムリの速度で動く」(ガンジーの言葉)。 現状のような「政治状況」は二度とこないかもしれません。充電され早い機会の再登場を期待します。           

  2. 再開される日を心待ちにしてます。

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すずき こう

すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)など。マガジン9では「お散歩日記」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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