最近、大型書店へ行くと、まるで「ヘイトスピーチ本棚」とでも言えそうなコーナーがある。いわゆるネット右翼が連発するような凄まじい憎悪に満ちたタイトルの本が、これでもかこれでもかと陳列されている。例えば「嫌韓論」などはまだ生易しい。最近では「呆韓論」「愚韓論」「悪韓論」「恥韓論」、果ては「犯韓論」などと、他国を犯罪者扱いにしたようなタイトルまでが、本棚で喚いている。
正直、棚をひっくり返したくなる。
「事実を書いて何が悪い」とツイッターで批判してきた人がいたけれど、それなら、なんでこんなひどいタイトルをつけるのか。淡々と“事実”を述べたタイトルにすればいいではないか。
もし日本が「呆日論」「愚日論」「犯日論」などという本を出されても「事実だから仕方ない」と、そういう人は言えるだろうか。
日本人はいつから、こんなに他国の悪口を言って喜ぶような恥ずかしい国民になってしまったのだろう。いつからこんな淋しい国民に成り下がったのだろう。いずれ誰かに「淋日論」を書かれるかもしれない。
高橋源一郎さんが『街場の憂国会議』(内田樹編、晶文社、1600円+税)の中で、次のように書いていた。
幼いわたしが、怒りにまかせて「バアちゃんのアホ!」というと、祖母は、わたしに、「他人のことアホっていうやつがアホや! 鏡の前で、アホって、いってみい! アホな顔をしとるのは、おまえや!」といったのである。さすが、バアちゃん。
他人へ向けた悪口は、自分へ返ってくる。その通りだと思う。僕も自戒しよう。
そして、これは現在の日本の“ある種の出版状況”にも当てはまる。
むろん、どこの出版社がどんな本を出そうと勝手だ。それがあまりにひどい本ならば、僕は批判する。だが、批判はしても「出版するな」と言うつもりはない。けれど、そこにはさまざまなルールがあるはずだ。
著者との校正作業をきちんと最後まで行うこと。著者の了解を得ずに内容の改変を行わないこと。事実関係のチェックはできる限り最善を尽くすこと。他者批判に関しては節度を持つこと…など、たくさんのルールがなければならない。それが、出版物を世に送り出す編集者の最低限の役割だと思う。
だが最近は、そんなルールもないがしろにされているようだ。
前述したような、凄いタイトルの「ヘイト本」とでも言えそうなものが隆盛を極めている。各社が競って出版する“売れ筋商品”(本というより、商品だと思う)が、書店の本棚に溢れている。
各社が競うということになれば、より刺激の強いほうへ流れるのはどの業界でも同じこと。出版業界も例外ではない。
だが同工異曲。そろそろネタも尽きかけてきた。同じような著者が同じような内容の本を連発すれば、さすがの“嫌韓好き”の読者も飽き始める。だから、ちょっと違う仕掛けを編集者は考える。
それが、外国人記者、当該の国(韓国や中国)の人、普段はそんなことを言いそうもない“有名人”などを引っ張り出すというやり方だ。事実、書店の本棚には、見慣れない外国人名前の著者の本が増えつつある。
それにしても、こんなやり方がナショナリズムを煽り、諸国との外交関係を危うくし、集団的自衛権行使容認へと突き進む結果を招来している一原因だとは、考えないのだろうか。
売れれば、なんでもいいのか……。
僕も新書編集に長く携わった。だから、毎月、決まった日に数冊の新書を出し続けることのしんどさはよく分かる。しかし、だからといって、中身の構成・校閲に手を抜くなど、絶対にやってはならないことだ。
週刊誌ならば、本当に間違えた内容を掲載してしまったら、次週号で訂正・謝罪をする、ということも可能だ(むろん、それでは済まないこともよくあるけれど)。
だが、単行本(新書も含む)では、そうはいかない。訂正したくても、同じ本では不可能だ。最悪の場合、書店の本棚からの回収ということもやらなくてはならない。
少し、僕の個人的な感想を書こう。
ある新書のすべての編集作業が終わった後で、内容に重大な欠陥が見つかり、数日間、ほとんど徹夜で原稿の差し替え、校正のやり直しを行って、危うく難を逃れたということがあった。
それは、超優秀な校閲者(注・校閲とは事実関係のチェックや文章上の誤り、誤字脱字等を訂正する作業)が、最終校了後に発見してくれたものだった。もし、彼女がいなかったら、あの新書は回収せざるを得なかったはずだ。だから僕は、いまでもその校閲者に、深い感謝と尊敬の念を抱いている。僕の編集者人生にとって、忘れられない人だ。
そこまではいかなくても、校正・校閲に時間と人材と費用をかけるのは、特に「新書」のような事実関係を主に扱うノンフィクションのジャンルでは大切なことだと、僕は思っている。
だが、現在では「新書」は「安価な単行本」に変質し始めた。一部の新書では、安くあげるために、校正・校閲を重視しない傾向になりつつある。時間も人材も費用もかけない新書づくりが横行し始めた。悲しいかな、それが出版業界の現実なのだ。
あるジャンルの本がヒットすれば、2匹目のドジョウを狙うのが出版業界の常だ。だから、急ぐ。同じような本を出すには、とにかくスピード。さっさと書店の平台に並べなくてはブームに乗り遅れる。時間の競争になる。だから、厳格な内容チェックなどは省かれる。かくしてテイストのよく似た本が、平台を占拠することになる。
この傾向は新書だけではなく、他の出版物にも波及しつつある。
丁寧な本作りは、一部を除いてこの業界から消えかかっている、といわざるを得ない状況なのだ。
出版不況→費用削減→安価な本作り→編集時間の短縮→校正・校閲の手抜き→出版刊行→出版物の価値下落→読者減少→出版不況…という負の連鎖が、いつの間にか出版そのものの低落傾向につながっている。
出版業界は、1996年をピークに、それ以降は右肩下がりの状況に陥っている。出版不況という言葉すら、もうあまり口にする人もいなくなった。
売上金額でいえば、1996年に2兆6564億円だったものが年々減り続け、2009年にはついに2兆円を割り込み、2013年には1兆6823億円と、最盛期から1兆円近く減り、実に63%程度まで落ち込んでいる。
単行本1冊あたりの価格が、この十年で10%以上も高くなっているのにこの金額である。売上冊数の減少ぶりが分かる。
むろん、さまざまな要因はある(ITの進化についていけない、活字離れ、読者層の高齢化、ゲームソフトとの競合、無料コンテンツの拡大…などなど)。
けれど、前述のような本作り、それを助長している出版経営者、その意向に唯々諾々(ではないことを祈りたいが)としたがう編集者、さらには売れ筋商品を優先する書店、これらすべての業界人にも、責任の一端があるように思えて仕方ない。
それにしても、書店のヘイト本コーナーのおぞましさ。
それを横目に、これでいいのか……と呟いながら、僕は足早に通り過ぎる。
もうずいぶん前のような気もするけれど、ゴールデンウィークの前半は、僕は被災地~ふるさと秋田と小さな旅をした。後半は、数度の集会やデモに参加したが、あとはほとんど自宅近くの公園めぐり。そこで写した花々などの写真を、今回はお届け。
見回せば、静かで優しい場所は、身のまわりにたくさんあります。きれいな花に、つかの間のやすらぎを…。
>それにしても、書店のヘイト本コーナーのおぞましさ。
大型書店には反原発のコーナーも充実していますし、沖縄の書店では基地問題のコーナーが充実しています。
結局、本が売れるということはその本に書かれている情報に対するニーズが高いからであり、今の日本では反原発に関するニーズが高く、沖縄では基地問題に関するニーズが他県よりも高く、そして近隣諸国に対する不信感や憤りを感じる日本人からのニーズが、鈴木耕氏曰く、「ヘイト本」の需要を高めているのではないでしょうか?
それ故、「ヘイト本は人権侵害だから発禁は妥当」という考えが仮に実現したとしても、近隣諸国不信というニーズがあるのならば、必ずネットなどの他の手段でそのニーズを満たそうとするのは社会の自然な摂理でしょう。
加えて、反原発表現でも先月末から話題となっている「美味しんぼ」のように、鈴木氏の好むような表現でも四方八方から批判を浴びて、「風評被害≒人権侵害≒ヘイト本≒発禁」という公式が成り立つかもしれないのですから、いたずらに表現の自由に規制をかけることを是認するような発言は控えた方がよろしいかと存じます。
ところで鈴木氏の紹介された「恥韓論」は、シンシアリーというPNの韓国人によって執筆されたものだそうです。
http://ameblo.jp/sincerelee/
「淋日論」といって日本批判をされる鈴木氏でしたら、シンシアリー氏による自国批判も好まれるかもしれません。
こういう時こそ「イノベーション」のチャンスと、ポジティブシンキングで!
そもそも著作物(口述筆記のためのインタヴューを含む)の無断書き換えは著作権法の著作者人格権に違反するんですが出版界ではそれが普通に行われてますよね。
ここは共同通信を批判するのが筋のようですよ。
祥伝社とストークス氏が見解を出しています。
http://www.shodensha.co.jp/kokuchi/kokuchi.pdf
筆者に無断で内容を書き換えることはいかなる理由があっても許される事ではありません。
それとヘイト本とは全く別の問題です。
そもそも中国、韓国に都合の悪い事を書くと「ヘイトだ!」と言う事自体がおかしいのです。
事実無根であれば問題ですが事実である以上何の問題も無く、ヘイト呼ばわりする事の方が不自然なのです。
今の日本賛美・韓国侮蔑本が氾濫する有様は異常です。売れればそれでいいのでしょうか?