森永卓郎の戦争と平和講座

 安倍内閣が集団的自衛権の行使を可能にするための包括的な法改正を進めている。それどころか、18年ぶりに改定される日米防衛協力に関する指針では、集団的自衛権の行使を前提に改定項目が作られようとしている。国会では集団的自衛権の行使に関する議論がほとんど行われていない時点で、米軍支援の既成事実を作ろうとしているのだ。
 少し前の日本だったら、政府の暴走としか言えないこの事態を新聞やテレビが連日非難して、大変な騒動になっていたはずだが、なぜか大手メディアはまるで他人事のように傍観しているだけだ。そして、国民にも戦争に巻き込まれることへの危機感がまったく広がっていない。このまま行けば、憲法改定、そして軍事大国への道まっしぐらだ。なぜ、こんな事態が起きているのか。

 私は、国民が物事を考えなくなったことが、一番大きな理由だと思う。
 竹内薫、丸山篤史の『99.996%はスルー 進化と脳の情報学』(講談社ブルーバックス)によると、インターネットの爆発的な普及によって情報の供給量は、1999年から2000年にかけてのたった1年間で、有史以来99年までの情報量に等しかったという。しかも、その後も10年で600倍のペースで増え続けているというのだ。それだけ情報量が膨大になると、とても消化できないから、人は無意識に情報をスルーするようになる。裏返せば、消費者が、凝縮された情報のみを求めるようになるのだ。具体的に言えば、ネットに流れるニュースのヘッドラインプラスアルファくらいしか情報を受け止めなくなるのだ。そのことは、電車に乗っていてもすぐに分かる。乗客の大部分がスマホをいじっていて、新聞を読んでいたり、書籍を読んだりしている人は、非常に少ないのだ。
 そうなると、国民はものを考えようとしなくなる。ヘッドラインは読んでいるから、一応ニュースが分かった気分にはなっているのだが、深く物事を考えようともしないし、できないのだ。人間の想像力はそれほど大きいものではない。だから、ヘッドラインだけからいろいろ物事を推察して考えていくことができないのだ。人間が考えやすいのは、複数の多様な論評のなかから、自分にフィットするものを選ぶという行動だ。
 そうした国民の思想を作り出す基盤として、論壇誌や討論番組などがある。ところが、論壇誌は次々に廃刊になり、討論番組はゴールデン帯から姿を消しつつある。国民が評論を求めなくなったからだ。ネットの世界に評論は溢れている。だから、国民は、わざわざ意見を聞きたくないのだ。ただ、学習意欲を失ったわけではない。あらゆるニュースの解説は欲しているのだ。だから、分かりやすい解説をしてくれる池上彰氏とか林修氏は、高い人気を集めている。
 ただ、分かりやすいというのは、一面で、大きな危険と隣り合わせだ。分かりやすくするためには、ポイントを絞り込まないといけない。それも、一つの見方にそって話さないといけない。あれこれ多様な見方を紹介したら、分かりにくくなってしまうからだ。そして、絞り込む一つの見方というのは、往々にして「主流派」の意見になってしまう。少数意見の立場にたつと、どんなに上手に説明しても、解説ではなく、極論を述べていると受け取られてしまうからだ。

 最近、官邸からの言論弾圧でリベラル側の論客が仕事を干されているという意見が目立つ。しかし、私は、事態は、それほど単純ではないと考えている。確かに、リベラル側に立って発言をしてきた鳥越俊太郎さん、森田実さん、山口正臣さん、落合恵子さんなどのメディアへの登場が減っているのは事実だ。私は、出演回数そのものは減っていないが、出演番組の大部分がバラエティで、経済番組や討論番組への出演は大きく減っている。ただ、憂き目をみているのは、リベラルだけではない。右派の人たちの出演も同じように減っているのだ。私は、筋が通っていれば、右翼のことを嫌いではない。右派と左派がきちんと、真面目に議論することで、どのような社会が望ましいのかを国民が判断できるようになるからだ。
 ところが、最近のテレビがコメンテータとして重用しているのは、右でも左でもなく、毒にも薬にもならないようなコメントを発するタレントばかりだ。そうしたことが起きている理由は、視聴者が意見を求めなくなったことだけではない。テレビ局が自粛をしているためだ。
 テレビ局が自粛をするのは、経営環境が厳しくなったからだと思う。昔は、メディアが権力を批判するのは、常識だった。反権力キャンペーンをどれだけ繰り返しても、スポンサーはいくらでも集まった。ところが、長引く不況のせいで、メディアはスポンサー集めに汲々としている。だから、何か問題を起こしてスポンサーに広告出稿を引かれると困ってしまうのだ。また、現場のリストラも相当進んでいて、出演者が何か問題発言をしたときに、対応できるスタッフの数も確保できなくなっているのだ。
 
 そうした環境のなかで「報道ステーション」の事件は起きた。3月27日の報道ステーション(テレビ朝日)で、コメンテータとして出演していた古賀茂明氏が、言論による「自爆テロ」を行ったのだ。司会の古舘伊知郎氏が、イエメン情勢を伝えるVTRの後で、古賀氏にコメントを求めたときだった。
 古賀氏は次のように答えた。「ちょっとその話をする前に。私、今日が最後ということで、テレビ朝日の早河会長とか、あるいは古舘プロダクションの佐藤会長のご意向で、わたしはこれが最後ということなんです。これまで非常に多くの方から激励を受けました一方で、菅官房長官をはじめ、官邸のみなさんにはものすごいバッシングを受けてきましたけれども、それを上回る皆さんの応援のおかげで、非常に楽しくやらせていただいたということで、心からお礼を申し上げたいと思います。本当にありがとうございました」。
 古舘氏はすぐに反論した。「古賀さん、ちょっと待って下さい。いまのお話は、私としては承服できません。古賀さんは金曜日に、時折出て下さって、大変わたしも勉強させていただいている流れの中で、番組が4月から様相が変わっていく中でも、古賀さんに機会があれば、企画が合うなら出ていただきたいと相変わらず思っています」。
 古賀氏は、「それは本当にありがたいことです。もし本当であれば、本当にありがたいです」と応じた。
 二人のやりとりは、次のように続いた。
 「古賀さんが、これで、すべて、なにかテレビ側から降ろされるっていうことは、ちょっと古賀さんそれは、違うと思いますよ」。
 「でも、古舘さん言われましたよね、『わたしがこういう風になるということについて自分は何もできなかった、本当に申し訳ない』と」。
 「もちろんそれは、この前お話ししたのは、楽屋で、古賀さんにいろいろ教えていただいているなかで、古賀さんの思うような意向に沿って流れができていないのであるとしたら大変申し訳ないと私は思っている。しかしさっきのは、ちょっと極端過ぎる」。
 「録音させていただきましたので、もしそういう風に言われるんだったら、全部出させていただきます」。
 古賀氏は、官邸からの圧力で自分が報道ステーションから追放されたということを遠回しながら、強く主張したのだ。
 私はその日、「朝まで生テレビ」に出演するためにテレビ朝日にいた。午前0時半ころ、古舘氏の楽屋の前は、深刻な顔をしたスタッフが大勢集まり、騒然となっていた。古賀氏の「不規則発言」で、番組自体が大混乱になってしまったのは事実だ。
 私は、古賀氏が経済産業省に勤めていた時代から、かれこれ20年ほど交流がある。頭脳明晰で、とても真面目な古賀氏は、ウソをつくような人ではない。
 ただ、番組の構成やコメンテータの人選に官邸が直接口出しをしたということは、ないだろうと思う。そんなことをすれば、世間の猛反発を受けることくらい政府だって分かっている。古賀氏の降板も、テレビ朝日の「自粛」によるものだ。
 しかし、政府の圧力が存在したことも、また事実だろう。それは、古賀氏の「事件」を受けて、4月17日に自民党の情報通信戦略調査会が、テレビ朝日の幹部を呼んで、説明を求めたことからも明らかだろう。もし、事件の真相が知りたいのなら、テレ朝幹部ではなく、古賀氏自身を呼ぶべきだ。テレ朝の幹部を呼んでも、何の役にも立たない。それでも、あえてテレ朝幹部を呼びつける。これが圧力の正体なのだ。
 
 古賀氏の「自爆テロ」は、言論の自由を考えるきっかけを作ったという意味で、一定の意義はあったかもしれない。しかし、それが一番正しい行動だったのかどうかは、よく分からない。古賀氏がテレビ朝日に出入り禁止になってしまい、東京キー局で古賀氏を出演させようとする勇気あるところが出てこず、結果的に古賀氏が全国放送での発言の機会を大きく減らしてしまったからだ。
 今回の事件で、報道ステーションのMCを務める古舘伊知郎氏に、体制側に寝返ったという批判がなされている。しかし、私の思いは複雑だ。
 私は報道ステーションの前身の番組だった「ニュースステーション」のコメンテータをしていた。その番組のMCだった久米宏さんは、最後まで反権力の姿勢を貫いた。しかし、結局その姿勢の結果、番組が打ち切られ、久米さんは発言の場を失ってしまった。
 報道ステーションMCの古舘氏は、自分を守るという意味はもちろんあったのだろうが、局の意向を受け入れることで、番組を守ることができた。どちらが正しいとは、一概には言えないのだと思う。
 問題は、こうした時代になって、一番困るのは国民だということだ。多様な論評に接する機会が失われて、本当のことを知るチャンスが少なくなってしまうからだ。もちろん、すべてのメディアに圧力がかかっているわけではなく、例えば地方局の番組は規制がゆるいし、ラジオも規制がゆるい。週刊誌やタブロイド紙は、ほぼ自由に書いている。さらに、完全に自由なのが、一流でないメディアだ。ちなみに、私がいま完全に自由にものを書けているのは、週刊実話と東京スポーツだけだ。
 そうしたところまで目を配らないと、なかなか本当のことが分からないという面倒臭い時代になってしまったのだが、多様な意見を聞く努力を怠ってはならないと思う。国民が一つの論調に支配され、思考力を失ったときに、戦争は起きるからだ。

 政府は、武力攻撃事態対処法を改定して、アメリカの行う戦争に自衛隊がこれまでよりも容易に参加できるようにする考えだ。しかも、この武力攻撃事態対処法にともなう自衛隊派遣には、国会の事前承認が例外なく必要とされているわけではない。日本の戦争参加を安易に許してしまうこれほどの暴挙が行われようとしているのに、国民のほとんどが危機感を持っていないのは、思考力を失ってしまったことのなによりの証拠だ。
 ちなみに古賀茂明氏がずっと言い続けていたのは、利権を許さない改革と平和主義だった。ごく普通のことを言い続けた古賀氏は、東京のメディアから干されてしまった。恐ろしい世のなかになったものだが、私は最後まで、抹殺されないぎりぎりのラインで、本当のことを言い続けようと思う。

 

  

※コメントは承認制です。
第67回 多様性の喪失こそ、戦争への道」 に7件のコメント

  1. magazine9 より:

    メディアは「余計なことはしないようにしよう」と自粛して、さらに人も「無意識に情報をスルーする」。そうして、TVで「毒にも薬にもならない」番組をなんとなく眺めている間に、日々の暮らしが変わってしまうような法改正が粛々と進められてしまう――。こうした流れをどうやって変えることができるのか、と頭を抱えてしまいます。大手メディアには出てこない情報を得るには少し努力が必要で、そこにアクセスする人が限られてしまうのも事実。選挙結果などを見るたびに、広く影響力のあるTVの役割の重要性も感じます。TVを支えているのは広告を出すスポンサーでも、そのスポンサーである企業を支えているのは、私たち消費者であるはずなのですが・・・。

  2. 橋本邦彦 より:

    「吾唯足知」(われ ただ 足るを知る) を痛感する日々です!

  3. それは違うと思います。むしろ「多様性の閉塞感」こそがファシズムを生み出すのでは。ドイツのワイマール憲法時代とか、この間の民主党の決められない政治とか、ポストモダン哲学のだからお前は何がしたいんだ感とか、その多様性のしょーもない感覚が、強いリーダー、決められるリーダーを望む世論を生み、ファシズムにつながっていくってこと。
    ちなみに、最近共産党が伸びてるのも、民主党の多様性の決められない政治じゃ駄目だと思ってる人たちが、多少のうさん臭さを感じつつも、話を単純化して決めつけてくる共産党に入れてるせいでしょ。

  4. とろ より:

    官邸からの言論弾圧でリベラル側の論客が仕事を干されているという意見が目立つ・・・

    テレビ見ている人達から支持されなければ,番組も使わないってだけでしょう。
    森永さんもバラエティが主戦場になった理由と同じだと思います。
    古賀さんは嘘はついていないのかもしれません。
    ただ,政権の圧力って言っているのは古賀さんだけで,それがいったい何なのかは誰にもわからない。
    テープ公開しないかな。それ出せば一発なのに。
    古賀さんも今後仕事が減るだろうから,マガジン9さんや週刊金曜日,ゲンダイは発言の場を与えてほしいです。

  5. hiroshi より:

    低投票率、共産党の躍進、メディアの自粛、国民の無関心や↑のような意見等、ファシズム前夜のドイツに似た状況があるかもしれませんが、憲法改正についての世論調査では、反対がまだまだ上回っています。
    (憲法改正)「産経」4/28付
     反対:47.8%
     賛成:40.8%
    (9条改正)「朝日」5/2付
     反対:63%
     賛成:29%
    又、ゆんたくるーやSASPLのような若者が育ってきているのを見ていると、諦めたり、ニヒリズムに陥るダサい大人にはならない様、気を付けたいとつくづく思います。

  6. 島 憲治 より:

     なぜ国民は物事を考えなくなったのか。いろいろな要因が挙げられよう。いずれにせよ、「思考停止」状態は 権力者が最も望むところである。安倍政権は暴走しているのではない。快走しているのだ。とてもグランドが走り易いのだ。   民主主義が成立する前提条件の一つに「多様性」が確保されていることが求められる。 民主主義の目的は人権保障である。そのためには少数者の意見が尊重された十分な審議・討論を得た上での多数決でなされる必要がある。そのためには、多様な考えを持つものが参画した議論がなければならない。
     今、この民主主義の流れがとても貧困になっているのだ。これは「全体主義」の予兆と見ることもできる。
    >多様な意見を聞く努力を怠ってはならないと思う。国民が一つの論調に支配され、思考力を失ったときに、戦争は起きるからだ。
    これは歴史の教訓である。

  7. 戦後70年かけて「思考停止国民」を育ててきました。敗戦を終戦と言換え、原爆を核の平和利用と言換え、小さな魚の群れが急に泳ぐ方向を変えるように、日本国民は右を向いたり左を向いたり上を向いたと思ったら下を向いたりさせられてきたように思います。キャッチコピーに踊らされ、踊っている内に自分で考える事を忘れてしまいました。今国の中枢にいる人たちもそんな国民の一人です。自分たちが思考停止に陥っている事さえ気づいていないんです。

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森永卓郎

もりなが たくろう:経済アナリスト/1957年生まれ。東京都出身。東京大学経済学部卒業。日本専売公社、経済企画庁などを経て、現在、独協大学経済学部教授。著書に『年収300万円時代を生き抜く経済学』(光文社)、『年収120万円時代』(あ・うん)、『年収崩壊』(角川SSC新書)など多数。最新刊『こんなニッポンに誰がした』(大月書店)では、金融資本主義の終焉を予測し新しい社会のグランドデザインを提案している。テレビ番組のコメンテーターとしても活躍中。

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